三十三.調伏

33.1

 神原演じる「太夫」の謡いが、朗と滑らかに響く。太夫は姫荒平に――険しい山中で出会った鬼女に、こんな所に怪しいモノが住んでいるものだ、と問い掛けた。太夫の優雅な謡いと真逆の、荒々しい返事を鬼女は返す。こんな険しい山奥に、鬼以外の何が棲むであろうかと。普段の由紀子からは想像できない、太く迫力のある声だった。

 太夫が鬼女に問い、鬼女がそれに答える。合間合間に鬼女の舞を挟みながら問答は続く。太夫の登場前に、姫荒平単身で丸五分ほども舞った後でのやり取りだ。鬼女は、古語の耳慣れぬ現代日本人には難解な口上を述べながら、鬼らしい、しかしその纏う豪奢な打掛に似つかわしい優雅な所作で舞い、採物である長弓を見事に操ってみせた。打掛は黒地に太く金の刺繍で巨大な龍が描かれ、袖や裾には大きな流水紋、背中には翼らしき意匠の立体刺繍が施された重たそうなものだ。神楽の姫役か着る打掛の中でも、ボス級の鬼女が纏う一等立派な衣装であろう。

 問答が進むと共に、太夫の鳴らす鈴の音に清められた鬼女は太夫を脅すことを止め、太夫とこの国土を祝福する舞を舞う。祝福の舞は喜びに満ちて一層激しく伸びやかに、全体で三十分近い舞の終盤、五分途切れず続くのだ。全く妥協のない衣装の重さは数十キロ、それを纏いおよそ三十分の舞を由紀子は舞い切った。舞場の真横でそれを見守っていた広瀬をはじめ、皆が終演と共に惜しみない拍手を送る。広瀬の満ち足りて感極まった表情を、舞台袖の美郷はそっと盗み見て笑みを零した。

 ――演目の方は、ここまで滞りなく進んだ。文化的行事としての「大祭」は大成功したと言って良いだろう。だが、美郷と怜路の本当の出番はここからで、案の定と言うべきか、状況は美郷らの願いどおりとは言い難い。

(天蓋の真下……確かに姫神らしきモノが降りているけど――)

 自ずから厳しくなる視線でソレを見遣る。斎竹で囲まれた舞場の真ん中、吊された天蓋の少し下。たしかに姫荒神らしき地霊の凝りが降りている。ひとまず姫荒平舞を奉納することで「櫛名田姫」ではない、別の――怨鬼に取り込まれていない神格を降ろすことには成功したのだろう。

 しかし、地からいくつも這い出してそれに絡みつく、禍々しい触手があった。見覚えのある、蒼白く長い腕だ。獣のように尖った爪を立て、その手が姫神を掴んでいる――否、まるで縋り付いているようにも見える。あのままでは、触手の妨害によって姫神の霊力を美郷に降ろすことは難しいだろう。

「――あれを斬り払いながら舞うしかない、よね」

 小声で問い掛けた先、今は美々しい山伏装束の大家が「ああ」と頷いた。

「元々、一方角ずつ舞いながら、姫神の力を徐々に降ろすモンだったんだろ? その所作ン中で触手も散らして……か。降ろす霊力は、妨害のせいで想定よりショボくなンだろうな」

「最初に怨鬼と戦った太夫が、ただ封じるしかできなかったのも――こういう事情かもしれないね。姫神の力を借りれない部分は、おれたち自身の霊力を持ち出すしかない。幸い、姫荒平舞の奉納は成功してて、怨鬼の方も降りた地霊の力を完全には取り込めてないし、こちらの手持ちであの姫神の戒めを破れれば――」

 舞台袖に身を寄せ合って作戦会議をしている間にも、怨鬼調伏の準備が進められて行く。祭祀の一般公開は終了する旨のアナウンスがされ、拝殿の戸が全て閉められた。楽人は変わらず、神楽太夫たちである。残る関係者の席も今までより少し舞場から離されて、西野や中原、靖や着替え終えて楽屋から出て来た由紀子らが、少しでも舞場から遠く安全な席へと誘導されている。

 鬼女面を封じられた木箱は不穏な気配を醸しつつもひとまず沈黙を守っており、それを持って舞場の中に入れるタイミングの確認や、誰が運ぶのかの相談がされていた。呪術の心得がある者たちは、舞場の中の危うい状況が把握できている。芳田や鳴神家主従も運び役に名乗りを上げたようだが、結局は守山がその役割を得たようだ。

 午前三時三十六分。寅の刻に入った。楽人として座る太夫たちから目配せされ、美郷は頷く。緩やかな笛の音に、ゆっくりとした拍子の太鼓と鉦が重なった。二人並んで袖を出て、まずは奥の祭壇へ叩頭ぬかずき、楽人たちへ一礼する。美郷らが舞場の中へ入ってから、守山が慎重に木箱を運んで結界のすぐ外へ置き、丑寅の方角から舞場の中へと押し込んだ。

 ――途端。木箱が破裂し、舞場にどす黒い暴風が吹き荒れた。

 思わず息を詰めた美郷の前で、封印を弾き飛ばした鬼女面がゆっくりと宙に浮き上がる。

「おいおいおい、思った数倍元気じゃねーかクソ!」

 怜路の悪態に思わず頷いた。舞どころの話ではない。しかし楽人たちも大したもので、この状況でも奏楽は続いている。ただ、ひどくその音が遠い気がした。ひとまず舞い始めの構えを取りながら周囲を見回し、美郷は異変に気付く。

「怜路。外が見えない」

 楽の音だけは響いている。だが、斎竹の外にあるはずの喧噪は聞こえず、舞場を見守っているはずの人々も一切見えない。薄暗い闇ばかりが周囲に広がっていた。

「異界ンなっちまったか」

 この場に降ろした地霊の力と、怨鬼の抱え込んだ妖力と。それらが舞場の中を高濃度で満たして空間を歪ませたらしい。この空間に「在る」のは、上は天蓋と闇へ延びる千道、四方は斎竹、そして足下は四角く切り取られた拝殿の床板のみだ。その外側など存在しない。ぞっとする光景だった。

 美郷は刀を抜き、怜路は錫杖を構えた。

「始めよう。やることは変わらない……多分ね」

「ああ。おめーは『降ろす』方に集中しろ。その間、キショい触手の相手は俺がする」

 何もない空間から響く太鼓の拍子に合わせて、二人同時に一歩を踏み出す。まずは東から。木箱から飛び出した鬼女面は、美郷らに襲い掛かるのではなく舞場の中央宙空――降りた姫神の霊力へと取り付いた。怨鬼は姫神に並々ならぬ執着を持っている様子だ。

 二ヶ月間練習してきた通りの足運びで、美郷は刀を、怜路は錫杖をふるう。息を合わせ、動作を合わせながら、床から湧き上がる触手を斬り払い、叩き散らす。今回は白蛇の悲鳴も響かない。神刀を使って敵を「喰う」のではなく「切り裂く」――刃に触れるモノを強く拒絶することで、弾き返しながら断つ方法を会得できたからだ。鬼女面を捕縛した晩に白蛇が起こした「不味いの大嫌いフラッシュ」の応用だった。

 真東に向かって礼拝し、神歌を謡い舞って「この身に宿れ」と姫神の力を呼び寄せる。美郷らが姫神の力をとしていることに気付いた怨鬼の触手が一転、美郷を狙って押し寄せた。

 美郷を庇って立った怜路が、押し寄せる触手を錫杖で一気に薙ぎ払う。ぶわりと紫電を纏った風が起こり、二人の衣がはためいた。美郷は深く静かに呼吸しながら、動じず霊力を呼び寄せる。怨鬼の妨害を掻い潜って、細々とではあるが――千道を伝った姫神の霊力が美郷へ降りてきた。

 予想はしていたが、あまりに降ろせる力が少ない。神歌を謡い終わった美郷は怜路に目顔で合図を送り、再び歩調を揃えて舞う。呼吸に、運歩に、ひとつひとつ集中しながら次は南へ。美郷と怜路が蜘蛛の糸を手繰るようにして姫神の霊力を降ろしている間、舞場の中央に浮いた鬼女面は直接それを食んで気配を膨らませていた。

 南の礼拝が終わり、美郷が振り向いた背後。舞場の中央には、陰々と蒼い炎を纏い、鬼女面を着けた白裃姿の男が立っていた。あれが、怨鬼だ。その衣は赤く汚れ、右手に持つ刀も血に塗れている。

 ――知らしめてやらねばならぬ。

 低く、怒りと憎しみに満ち満ちた声が這うように響いた。

 ――我が怨みを。怒りを!

 怨鬼が刀を振り上げる。怜路が一歩前に出た。ぐわり、と四方から鬼の手がこちらを目掛けて伸ばされる。

 腰を低く構え、怜路は激しく錫杖の金環を振り鳴らす。脳を突き刺す甲高い金属音が幾重に響いた。怨鬼の纏う蒼炎が揺らぎ、美郷らを狙う鬼の爪が鈍る。隙を逃さず、錫杖を反転させた怜路がその柄で敵を薙ぎ払った。今度はちりりと炎が舞って、触手を灼き尽くして行く。

「続けンぞ!!」

 無言で頷く。再び足並みを揃えて今度は西へ。はっきりと姿を現した怨鬼は美郷らを睨め付け、動きを止めようと攻撃を仕掛けてくる。

 決められたとおりの足運びで、太鼓の拍子、笛の調子に合わせながら刀を振う。薙いで、振りかぶり、斬り下ろして翻し、更に突く。怜路の錫杖と互いに補い合えば、不思議と拍子を外れて動く必要は生じなかった。歩調を合わせ、息を合わせて怨鬼の触手を始末する。

 西への礼拝と舞の最中、それまで数で攻めてきていた怨鬼の触手がひとつに纏まり、巨大な腕となって襲い掛かってきた。正面から錫杖の柄でそれを受け止めた怜路が耐える。怨鬼の力もいよいよ増して、防戦一方になった怜路の両足がずるりと押し負け後退した。

 集中を、途切れさせてはならない。

 焦りそうになる気持ちを抑え込み、美郷は西への奉納を終える。少し体の位置をずらして怜路の真後ろを出た美郷は、怜路に止められている巨大な鬼の腕に向け、気合い一閃白刃を薙いだ。気迫が無数の見えない刃となって、鬼の腕をズタズタに切り裂く。腕に当たり損ねた一撃が怨鬼本体を襲い、赤黒く穢れた白袴の裾を裂いた。

 ――どうして邪魔をする! どうして俺ばかりが邪魔をされる!!

 怨鬼がたける。衝撃波が美郷と怜路を打ち据えた。顔を庇う衣の袖が切り裂かれる。烏帽子やその紐も裂かれ、外れた烏帽子が舞い飛んだ。咄嗟にそれを追った視界の端、斎竹の外側に飛び出た烏帽子が、蒼い炎に巻かれて消える。

 ――俺は! 俺こそが!! 踏みにじられ、辱められたというのに!!

 それは慟哭だった。怨みであり、憎しみであり、そしてどうしようもない苦しさ、哀しさであった。怨鬼は、ひたすらに「己は被害者だ」と叫んでいた。

「――ッ、勝手な野郎だな! 被害者ヅラたァ恐れ入るぜ。次、ラストだ!!」

 怜路が憎々しげに吐き捨てる。この怨鬼は多くの人間を苦しめ殺めた。快楽犯よろしく高笑いしろとは言わないが、これでは癇癪を起こして地団駄を踏む幼児と大差ない。

(だけど……おれを呪詛した奴も、全てを怨んでた。あいつも自分は被害者だと思ってたんだ)

 北を礼拝すれば東西南北の四方が終わる。「うん」と美郷は気を取り直した。舞場の中には旋風が荒れ狂い始めた。どんどん遠くなる楽の音を集中して耳に拾う。暴風を切り裂いて舞い、触手を払い除けて礼拝する。今一度、数で攻勢を掛けてきた触手が、一挙に怜路を襲った。錫杖で振り払い切れなかった触手がいくつか、怜路に食らい付く。

 仁王立ちで耐える怜路の肩に、脇腹に、鬼の爪が食い込んで血が滲む。怜路を越してきた一本が、美郷の腕を掴んだ。舞の所作のままそれを斬り払う。食い込んだ爪から、怨鬼の感情と記憶が流れ込んできた。周囲から向けられる期待と、依存と、圧力と、忌避、侮蔑、嫌悪。そして幼稚で未熟な怨鬼自身の精神。その心はまさしく「瞋恚」に灼き尽くされている。引き摺られぬよう、美郷は鋭く息を吐いた。舞の奉納を終わらせ、意識を研ぐ。

 北から得られるのは水の気。美郷と最も相性の良い気だ。細心に手繰り寄せた姫神の霊力と己の気を練って、怜路を蝕む触手を睨む。

(ソイツに、そんなクソみたいな感情を流し込むんじゃないよ――!!)

 美郷は刀を振り上げた。旋風に氷雪が混じる。

 全て凍れ。命じて白刃で空を裂く。

 それは、瞋恚という感情は、狩野怜路という男に最も似合わないモノだ。全てを受け入れ、受け止め、流し。どれだけの不運も悲劇も踏み越えてきた男に、流し込んでよい毒ではない。たとえ怜路はそんなモノに揺らがなかったとしても、美郷の我慢がならない。腹の底が煮えたぎる。

 渾身の一撃。空間そのものが、きんと高く震えた。

 一瞬で、場の全ての触手が凍結した。「は?」と怜路が間抜けな声を上げる。

「――中央。奪い返そう」

 低く言って美郷は刀を構えた。ここまでで己に降ろせた力の全てを刀に集める。まだ、怜路の力を借りずとも制御できるほどにそれは小さく軽い。これでは、怨鬼を断って中の魂魄を解放するには足りないであろう。だが怨鬼の束縛から、姫神を救い出すには十分だ。

 刀の切っ先を己の真正面に。その真っ直ぐ先に、ひたと鬼女面の眉間を据えて視線に力を込めた。

「その有様に至った、過程の全てがではないだろう。お前の天性が、与えられた環境が、ものだというのを否定はしない。だけど――お前という『怨鬼』は、今ここでおれが断つ」

 怨鬼は怒り狂っている。何ひとつ、己が思うとおりにならない現実全てに。怒って、憎んで、怨んでいる。その瞋恚に燃える視線が、美郷を見定めた。怨鬼と視線が交わるのは、介護医療院以来だ。

(嫌いだよ、お前みたいな奴は。だけど、嫌いだから斬るんじゃない。斬るんでもない。ただ――そうことを、おれ自身が選んだからここに立ってるんだ)

 うつし世の側で、境界の番人として生きると決めた。この力を、人々を守るために使うことを。そうして得た居場所、隣人、相棒と、共に在るために刃を振う。

「ハハ! てめェの負けだ、責任転嫁野郎。こいつはテメーなんざが勝てる相手じゃねーよ!」

 随分と楽しそうに怜路が怨鬼を煽る。

 チラリと横目で視線を交わし合い、美郷と怜路は呼吸を揃えて怨鬼へと突っ込んだ。

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