32.2

 大祭は順調に当初の予定を消化していた。静櫛神楽団が白開舞――扇と幣を持って、一人の舞手が緩やかな舞いを奉納すると、いよいよ集まった一般客お待ちかねの能舞の部である。激しい拍子、煌びやかな衣装、舞い飛ぶ細い白和紙で作られた蜘蛛の糸。火花と共に煙を噴いて暴れ回る大蛇や鬼に、おどろな雰囲気を醸し出すドライアイスのスモーク。紅葉を片手に、鬼の化けた美女が艶やかに舞って武者と観客を惑わす。

 拝殿の縁に設置されたスピーカーのスイッチも入れられ、楽の音や舞手の口上もマイクが拾って境内全体に流していた。普段の神楽殿や公共施設の舞台と比べ、広くもないし演出の仕掛けも難しい中、それでも緑里町や近隣から招待された神楽団らはそれぞれ、己の得意演目で場を盛り上げる。バザーも賑わい、焚火の傍では大人たちの談笑や子供たちの歓声が響いた。まさに祭の夜だ。

 その最も盛り上がる時間帯を過ぎ、日付も変わった午前一時。既にほとんどの一般客は帰路に就き、残るのは関係者の他、一部のマニアックな神楽ファンのみとなっていた。ゲスト神楽団が演じる最後の演目が終わり、一旦二十分ほどの休憩を挟むアナウンスが流れる。その休憩が終われば、静櫛神楽団による五行の舞、由紀子の舞う姫荒平、そしていよいよ怨鬼調伏だ。残っていた神楽ファンも八割程度が片付けを始めている。ここで更に残るのは相当な強者――おそらく、靖や由紀子と仲良くなれるタイプだろう。

「――つか、意外と人居ンな」

 楽屋になっている拝殿奥から境内を覗き、怜路は思わず呟いた。怜路を始め、特自災害チームはここからが本番だ。猿田彦や手草の奉納後、怜路らは能舞の部の間に食事や休息を取り、着替えを済ませて待機している。猿田彦は神楽衣装のペラペラと軽い鎧を着けての舞だったが、最後の調伏はフル装備だ。

 怜路は萌黄(緑色)の鈴掛に頭襟ときん、赤い梵天――絹糸で作られた丸いポンポンが付いた結袈裟や貝のなどの山伏装束に、愛用の長柄錫杖を装備する。なお法衣や装備の色は本来、僧侶としての階級によって厳しく決まっているが、怜路に僧侶としての階級などない。あくまで舞の衣装ということで、木気を表す「あお」と火気を表す「赤」――すなわち、陰陽五行の中でも陽気の色を衣装とした。当然ながらサングラスは外している。

「神楽団のご家族とか稲田神社の宮役員さんとか、結構静櫛集落の人が残ってくださってるね」

 怜路に答えたのは隣の美郷である。美郷も手草の時の衣装からは着替えていた。彼の場合は基本的に手草と同じ狩衣で、黒と見まがう深い紫紺色の絹に銀糸で紋を縫い取った衣と、白地に白糸で紋を縫い取った差袴さしこだ。こちらも本来神職の階級で決まる袴の色は無視し、金気を表す「白」と水気を表す「黒(紫)」という陰の二色を衣装に入れてあった。腰には神刀を差している。

「まあそれも、五行の舞が終わりゃだいぶ捌けンだろ。姫荒平に観客少ねェのは気の毒だがな」

 なお赤の梵天、白の袴はいずれも最上位の僧侶・神官が身に着けるもので、本来怜路らのようなヒヨッコが身に着けられるような色ではないらしい。それを気にして顔色を悪くする美郷を、「そうは言うても、姫神を降ろして怨鬼を滅せるような者は、全国浚えてもそうそうおらんでしょうが」と神原が笑い飛ばしていた。

「どうかな、舞の貴重さに気付いてる人たちも居そうだし……あの、バズーカみたいなカメラ構えてる人たちは踏ん張りそうな気がする」

 そう苦笑する美郷の視線を追えば、たしかに境内に三脚を立てて、望遠カメラを構えている一般客が何人か残っていた。彼らも、調伏の前には帰ってもらうことになる。静櫛の住民や宮役員は広義の「関係者」であろうが、調伏の際は安全を優先して拝殿の戸を閉め、彼らにも帰って貰う予定になっていた。

 鬼女面を封じた木箱は拝殿内に運び込まれ、怜路や守山らが交代で番をしている。調伏の段になってから斎竹の中に入れられる予定だ。関係者席に残るのは守山や靖、見届けることを希望した西野や中原らと、その護衛を兼ねた芳田、克樹、築城である。楽人たちも斎竹の結界の外であるし、最終段階で怨鬼と対峙するのは怜路と美郷だけ、どれだけ中で怨鬼が暴れようとも、結界の外には出さないように準備してあった。その代わり――結界内に籠る力は凄まじいものになるであろうし、怜路らが劣勢に立たされたとしても外からの援軍は期待できない。

 休憩が終わり、五行の舞が始まる。スーツ姿から白衣と浅葱色の差袴姿に着替えた広瀬が、鬼女面を封じた木箱の隣に座っていた。五行の舞と姫荒平の間、広瀬が木箱の番をするらしい。

 五行の舞は一時間に渡る長尺の演目で、演者に割り当てられた口上も多い。いつもの新舞とは全く勝手の違う演目を、静櫛神楽団のメンバーたちは二ヶ月弱でものにしてくれた。陰陽五行になぞらえた天地開闢と、開闢神の王子たちが四季を支配する様、そこへ五番目の王子が己の所領を求めて申し立てる様が描かれてゆく。五行の舞で繰り広げられる物語は、古代中国の開闢神話――天地始祖の巨人盤古ばんこを元ネタに陰陽五行を語った、極めて中世日本的な「天地開闢」だ。

「――そういや、荒平が中世神話の天地開闢における『第六天魔王』で、イコール地主神とかナントカって話、ありゃ一体何だったんだ」

 そういえば五行の舞とは更に別種の、元は仏教神話の登場人物である第六天魔王の登場する開闢神話の話を、確か以前に美郷と靖がしていた。

「エッそれ覚えてたんだ……。えーと、何て言ったらいいんだろ……今この場でしても頭混乱するだけのような気がするよ?」

 問われた美郷が困惑の顔で言った。しかしまだ五行の舞の序盤、怜路らの出番までは軽く一時間以上ある。何か喋っていないと意識が遠のきそうだった。

「しねえように、端的に!」

「無茶を仰る……。そうだなあ、中世神話に登場する第六天魔王は、天照大神が行う天地開闢――国造りを邪魔しに現れる存在でね」

「その時点でツッコミ処しか無ェ。イザナギイザナミどこ行った」

「そこはもう『そういうもの』で流してよ……大本が伊勢なんだから。で、第六天魔王は元々はご存知の通り仏教における魔王マーラだけど、日本においては大黒天マハーカーラを介して大国主オオクニヌシと習合してるんだ」

 大国主命は国津神の首魁である。すなわち「先住していた土地の神」という性質を持つ。天津神の降臨によって、地上の覇権を譲った神だ。

「荒平の持ってる外見や属性は、中世開闢神話の第六天魔王的な要素を多く含んでるんだけど、その第六天魔王イコール大国主はすなわち『先住していた土地の神』で、天照の国造りによってその場所から追いやられたモノ――つまり、人間の開拓や集落の造成、家の建築によってと解釈されるんだと思う。つまり、土公神どくじんと同じ存在――その地の地主神、地霊を表してるんだ」

 なるほど分からない。ほぉん、と気の抜けた相槌を打つ怜路を、美郷が渋い顔で見遣る。「だから嫌だったんだ」とその表情が言っていた。つまり、と腕を組んで、怜路は目を閉じた。頭の整理を試みる。

「五行の舞で称えられる五郎王子も、荒平舞で称えられる荒平も、おんなじ『土地神』の別表現。この辺の中世庶民が信仰してたのはお釈迦様でも天照大神でも無ェ、自分らが住む土地の精霊だったってコトか」

「古い神楽の作法を見る限り、単純に土地の精霊……地霊ってだけではなくて、その地に還った自分たちのご先祖、つまり祖霊も複合した『神様』なんだろうと思うけどね。神楽の作法と葬送儀礼の共通性とかも色々指摘されているし、擬似的に一度死んで生まれ変わることで身を清める発想や、浄土信仰みたいなものも混じってるだろうと思うよ。色々な要素が絡み合っててスパッと説明することは難しいんじゃないかな」

 はっきりとした教典を持たず、連綿とただ「行い」によって継承され続けた信仰だ。途中で都会から新しい思想が流れ込めば、それを取り込んでまた複雑化していく。

「でも――根っこにあるのは至極シンプルな発想だろうね。『常世あちらがわ』の力を畏れるっていう。死者も、地霊も、人々にとってはの存在だから」

 そしてその、内と外の「境界」を守る番人こそが、怜路や美郷のような呪術者だ。

「で、オメーはその常世の力、地霊の力を降ろすことになるワケだが……」

 言って、怜路は舞場を見遣った。神楽幕だけで舞場と隔てられた楽屋――つまり拝殿奥側の片隅に身を寄せている怜路らからは、神楽幕の端から神楽の様子が垣間見える。美郷も怜路の視線を追った。まだ表出しきっていない――否、が、斎竹の中には強大な力が溜りつつある。

「うーん、そもそも降ろせるか怪しい雲行きしてるよね」

 二人揃って溜息を吐く。頭襟の存在も忘れて、思わず怜路は頭を掻き回した。

「やっぱ邪魔してやがンな、怨鬼が。白開舞かみおろしン時から感じちゃいたが――五行舞でも姫荒平でも、霊力が場に溜るだけ溜って姫神が顕現しねェ、ってなったらどうする。全部怨鬼が持ってってやがって、木箱開けたが最後、俺らが吹っ飛ばされる可能性まであンぞコレ」

 それに美郷が「あー」と情けない声を漏らして天を仰ぐ。

「そこら辺りは、やっぱラストの姫荒平に期待するしかないな……。高宮さん、昨日何か掴んだというか、どうも何かみたいだし、大丈夫だと信じよう。場に溜ってる地霊の力が、『櫛名田姫』じゃない『静櫛の姫荒神ひめこうじん』――元々この地に在った荒神と、それを祭祀して崇められた梓巫女が習合した女神として顕われてくれれば、勝ちだ」

 勝ち、か。と怜路は口の中だけで呟いた。美郷が語るのは、司箭が書いた通りの筋書きだ。それを信じて怜路や美郷も、他の面々も今日のために準備をしてきた。だが、いざ本番となり、実際に場にたぐまり始めた力の大きさを感じて思うのだ。これは、人の身に降ろして良いモノなのか、と。

「怜路?」

 隣から美郷が、押し黙った怜路の顔を覗き込んだ。その表情にさしたる気負いはない。

「――オメーよ、を全部てめェの体に降ろすなァ、随分と重くねえか」

 少し逡巡して、結局怜路はその問いを口に乗せた。「え」と美郷の目が丸くなる。

「全部じゃなくてもイイんかもしれねーが、確実に一部を掠め盗って来る怨鬼よりは、上を行かねえと滅せねえだろ」

 舞場にたぐまる霊力の姿は、まるで荒ぶる大蛇だ。元々、この地域――中国山地一円の荒神が「タツ」と呼ばれ、藁蛇で表現されることとも関わるのかもしれない。それをよりにもよって美郷に、『蛇喰い』の二つ名を持つ男に降ろすのも、今更ながら因縁めいていて面白くなかった。

 怨鬼調伏も基本的には儀式舞だ。神楽太夫たちの楽に合わせて、二人で東南西北の四方に向けて舞ったのち、中央で舞って地霊の力を美郷に降ろす。そして丑寅の方角、すなわち鬼門に置かれた鬼女面を、封じた木箱ごと破壊する。他の力であれば鬼女面の中に閉じ込められた魂魄がその破壊を阻むであろうが、姫神の力ならば抵抗を受けないという目算だ。

 メインで霊力を受け止め、それを怨鬼へぶつけるのは美郷の役目、それをアシストし、霊力が暴れないように制御して目標に照準を合わせるのが怜路の役目となる。

 司箭が「できる」と言ったのを疑っては来なかった。司箭が怜路らをたばかる理由などないからだ。だが、もしかしたら司箭や御龍姫などの「もののけ視点」の「できる」は、人間である怜路の感覚と違うのかもしれない。にわかにそんな懸念が、怜路の胸に湧いていた。――それが「成せる」という意味で「できる」のであったとしても、それによって美郷のが大きく損なわれるのであれば、それは怜路にとって、「できる」うちには入らない。

(美郷はもう半分と言わず「向こう側」に足を突っ込んでやがる。そら、幾らでも地霊の力を降ろせるかもしれねえ……美郷が、白太さんが、そいつは美郷自身の力になンのかもしれねえ。いや、喰うのは最終手段か、ただ降ろすだけなら――)

 美郷の肉体は現実の存在としてうつし世に在る。美郷が他人と違うのは、おそらくその魂魄に「向こう側」の存在が、妖魔の蛇が混じり合ってしまっていることだろう。蛇と美郷は単純に混じり合ったのではなく、美郷が蛇を喰っている。よってその魂魄は「誰」であるかと言えば、間違いなく「宮澤美郷」のものであるが、「向こう側」の存在を喰らい取り込んだ美郷の魂魄は、既に人間のものとは言い難いのだろう――御龍姫や、知り合った大天狗たちの美郷への態度を見るとそう思う。

 度を過ぎた地霊の力――「あちら側」の力を美郷に注ぎ込んで、宮澤美郷という存在が決定的な変質をしてしまわないか。それが堪らなく不安だった。

 眉間を曇らせて押し黙った怜路を、不思議そうに美郷が眺める。長い髪を結い上げて烏帽子に収めているため、もみあげや項に毛先が覗かぬゆえか。やたらと烏帽子がサマになっていた。そのさが気に入らなくて、己の目元が引き攣るのを怜路は自覚する。

「えぇ、何か変な不安に呑まれてない? 大丈夫だよ、多分」

 心底不可解そうに小首を傾げた美郷が、あっけらかんとのたまった。

「多分かよ」

 脳天気な言葉に思わず噛み付く。思った以上にいじけた声音が響いた。

「何かを断言できるような状況ではないからねえ……。でも、」

 そこで美郷は一旦言葉を切った。怜路から視線を外し、何もない空間を眺めて目を細める。遠く、美しいものを眺める顔だった。

「隣に居てくれるんでしょう? お前が。――なら、大丈夫」

 ふふっ、とはにかみ笑いを零して、美郷が立ち上がる。

「もしもおれがアッチ側に逝きそうになった時は……今度は、お前が救けてくれる。だから大丈夫!」

 明後日に向けて語られる言葉に、ぐわりと血圧の上がる感触がした。死ぬほど照れくさいし、恥ずかしい。――が、言わねばならない。何度でも。一度世界に裏切られた男が信じるまで。「狗神なんぞにくれてやるな」と怜路を惜しんだそいつのために、今この命はあるのだから。

「オウ。お前がそいつを望まねえなら。何が何でもコッチに留めてやる」

 望む時が来たら、一緒に行ってやる。その思いも言外に込めた。思わず、といった雰囲気で振り返った美郷が、少し赤らんだ顔をくしゃりと歪ませた。泣き笑いのような表情で「はは」と吐息をこぼす。

 震えて縒れた、囁くような声音が言った。

「頼りにしてるよ、相棒」

 それは普段のサラリと言ってのける姿と全く違い――一瞬怜路は、ぽかんと目を瞬いた。その隙に、そそくさと美郷が席を外してしまう。

 届いたのかも知れない。ようやく。もしかして。

 思わず怜路は顔を覆った。口角が勝手に上がり、顔がぐにゃぐにゃ歪むのを止められそうにはなかった。

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