三十二.大祭
32.1
――いくつも焚火の炎が爆ぜる、パチパチと高い音に人々のざわめきが徐々に交ざり始める。時刻は午後六時も半ばを過ぎた頃、仕事終わりの人々が稲田神社の境内には集まり始めていた。男達の野太い笑い声や、幼い子供のはしゃぐ声を少し遠く下方に感じながら、鳴神克樹はそれらを塗り潰すテンポの速い太鼓、激しく打ち鳴らされる手打ち鉦、高く舞い踊るような笛の音を浴びていた。
タンタタタンタタンタタン。打ち鳴らされる太鼓に調子を合わせ、神楽幕の奥から歩み出てきたのは、袴姿に軽そうな鎧を着て、白髪のカツラに赤い高鼻天狗の面を被った男だ。男――高鼻の大天狗はまず両手に扇を開いて舞った。その身のこなしは軽快で、勢いよく飛んで跳ねても音が静かだ。軽やかに翻される扇の黄金色が、照明を弾いてきらきらと輝く。
ひとしきり舞台の上――克樹の目の前にある斎竹で囲われた小さな空間をくるくると舞い回った大天狗は扇を仕舞い、腰に差した刀を抜いて、辺りの空間を斬り払うように刃を閃かせた。正面へと刀を構えて静止する。
『そもこの尊き神の御前にまかり立ちたるこの神を、如何なる神とぞ思し召す――』
天狗面で少しくぐもった若い男の声が、名乗りの口上を述べた。その神の名は
(――ふん、付け焼き刃などと言い訳していたワリには、見られる舞ではないか)
などと捻くれた感想が浮かぶのは、ひとえにあの面の中身――舞手の顔を知っており、その相手のことが気に入らないからだ。舞手の名は狩野怜路、克樹の敬愛する兄とひとつ屋根の下で暮らすチンピラだった。気に入りはしないが、克樹も多少の実力は認めている相手だ。
チンピラ山伏の扮する猿田彦は、その刀を以て東西南北を斬り払い、清めてゆく。認めるのはいささか悔しいが、その修験者としての身体能力を遺憾なく発揮した見事な舞だ。素早く大きく閃いた太刀筋は力強く、小刻みなステップもダイナミックな跳躍も全く体重を感じさせない。白刃が煌めくたびに、その場から陰の気が払われて行くのが分かった。
舞が終わり、克樹も座る関係者席の面々が拍手を送る。まだそう人の多くない足下の境内からも、疎らな拍手が聞こえてきた。克樹の真後ろにはストーブが焚かれ、傍らには茶の入った湯呑みがある。伸びた襟足をヘアゴムで括っている項に、真後ろからの赤外線が熱い。
隣は、片方は以前にも顔を合わせたことのある小柄な年配の巴市職員で、もう片方は克樹の随身、築城だ。今克樹は、大好きな兄・宮澤美郷の弟として、そして鳴神家当主である父親の名代としてこの場所に座っていた。板張りの床にゴザを敷き、その上に置かれた座布団が「関係者席」である。背後は吹きさらしであるが、今のところ凍える心配はない。だいぶ身長も追いついたというのに、いつまでも克樹を幼子だと思っているらしい兄が、衣冠姿のまま克樹の真後ろにストーブを置いて行ったからだ。ちなみに座布団の上には、築城持参の低反発クッションが更に重ねられている。
背中が焦げ始めたら場所を換わって貰おうと、克樹は築城を見遣った。その築城はといえば背筋を伸ばした正座のまま、何やらもぐもぐと口を動かしている真っ最中だ。高校まで克樹の教育係であった若竹に替わり、大学進学と同時に克樹のお供となったこの男は、若竹とは同級生というが性格はおおよそ真逆の図太い人物である。黙って座っていれば若竹に負けず劣らず切れ者に見えそうな、鋭い顔つきと均整の取れた体格をしているのに、言動の随所に「変人」の二文字が滲み出るマイペースな男だ。
なんと言っても、克樹との対面初っ端の話題が「安全な家出の仕方」であった。それも実地訓練付だ。無事受験が終わった長い春休みの始め、「それでは参りましょうか」の一言で、克樹は「足が付きにくく可能な限り安全に配慮され、かつ安上がりな手段(なお体力の消耗には多少目を瞑るものとする)」で津軽海峡まで案内された。
公共交通機関を乗り継ぎ、移動しながら宿を確保し、全て現金を使って支払った。途中の宿はラブホテルやらネットカフェも使い、荷造りのコツや安く上がる食糧調達の仕方も教わった。いかに十代後半の元気な体でも疲れ果てた。
その理解しがたい行動の理由を相手に問えば、「いざという時に安全に脱出することは貴方様に必要な技能であるし、それをギリギリまでサポートするのが私の役目だからです」と事もなげにのたまった。心身に何かしらの危害を加えかけられた時、身を守るために家出をするのは正しい判断だ、しかし前回はその手段が大変に間違っていたと思う。ゆえに、正しい家出の方法を確認しようではないか――ということらしかった。率直に、ぶっ飛んでいる。
移動効率よりも金額の安さを優先したため、隣り合いただ座っている時間は馬鹿馬鹿しいほどあった。車窓の景色を眺めながら、あるいは狭い室内で並んで横になりながら、何も喋らない方が難しい。よって克樹は実にくだらない己のあれこれを築城に教えることになったし、築城の得手不得手や過去の失敗、物事の好き嫌いも無駄に多く知ることとなった。要するに、すっかり打ち解けてしまったのである。
「築城、一体何を食べているんだ」
「あ、下のバザーで売っていた山菜おこわです。克樹様も食べられますか?」
そう言って差し出されたのは、飴色のおこわを敷き詰められたプラスチックパックだ。
「一体いつの間に買ったんだ……後で弁当が出るのだろう?」
「まあそうなんですけどね。明け方四時くらいまで起きてるんですから、どうせまたお腹空きますよ。本当はうどんが良かったんですが、さすがに汁物啜るのは遠慮で」
それはそうだろう。反対隣の市職員――兄の上司である芳田某がくつくつと笑っている気配がする。神楽の席は飲食禁止ではない。先程言ったとおり、そのうち弁当が回ってくるし、芳田の傍らには熱燗の徳利も置かれている。肴の乾き物が、舞の最中に左右から回ってくることもあった。それにしても呑気な物言いである。
「腹を満たしすぎて、舟を漕いでも知らんぞ」
「神楽なんて、腹が空いてようが膨れてようが眠たくなるモンでしょう。克樹様もご無理はなさらず、ブランケットはありますから眠たくなったら私に寄りかかってください」
築城という男は、万事この調子である。今まで己を取り巻いていた堅苦しさは一体なんだったのかと、頭を掻き毟りたくなった回数は幾度と知れないが、相当に――それはもうかなり、克樹の日常は平穏になった。
「兄上の
そう返すのとほぼ同時、次の演目の始まりを告げる太鼓と笛の音が響き渡った。
――大祭は午後五時、日暮れと共に始まった。まずは奏楽のみの演目「胴の口開け」、それから笹を持った太夫が舞う「湯立舞」の二演目で、舞台に神を迎える準備が調えられた。次は神迎えの神事で、この神社裏手にある塚――あくまで推測と聞いたが、この地で崇敬された梓巫女を祀るらしき塚の周りから砂を一掴み持って帰り、奥の祭壇に祀って本格的な神楽が始まる。この祭祀は正装姿の兄が斎行しており、克樹はその美々しい衣冠姿を写真に収めさせてもらった。
そして始まった神楽はまず清めの儀式舞からで、地元神楽団による四方祓い、招かれた神楽太夫らによる
フォーマルな黒の衣冠姿からは一転。立烏帽子に艶やかな藤色の狩衣を纏い、片手に五色の帯を垂らした黄金に輝く神楽鈴を、もう片手に幣を付けた榊の束を持った美郷が登場する。美郷は奥の祭壇へ両膝をついて礼拝した後、楽の音に合わせてくるり、ひらりと舞い始めた。
「はあぁ……美しい……」
思わず感嘆と溜息が漏れた。艶やかに翻る狩衣の袖、涼やかで清らかな鈴の音と、舞い遊ぶ五色の絹。立派な枝振りの榊がしゃらりしゃらりと振られるたび、更に場の清浄さが増して行く。
「いやはや、見事ですなあ。流石は咄嗟の一差しで、御龍山の姫を魅了しただけのことはある」
そう返してくれたのは芳田だった。その時の西行桜が見たい見たいと、話を聞いた時から兄にねだっていたのだが、「手持ちの衣装じゃ格好が付かないからね」と躱され続けた。同じ演目ではないにしろ、とびきりの盛装で舞う兄の姿が見られて大満足だ。周囲も見惚れているのか、舞を目の前にした関係者席はそれまでよりも静かである。下からはスマートフォンらしき合成のシャッター音がいくつか聞こえてきた。
(関係者席からの撮影は禁止されているが……県職員と名乗った男が据えたカメラがあそこにあるな……動画を貰えないか後で交渉してもらおう)
高く舞い上がるような笛の音と、一定のリズムを刻む太鼓と鉦。ひらめき、揺らめき、はためいて、優雅に舞い遊ぶ藤色の衣と、真剣な面持ちの白く整った容貌。髷を烏帽子に収め、結い上げられた黒髪も美しい。狂いもなく、遅れもなく、伸び伸びと軽やかな舞に酔い痴れているうち、あっという間に兄の出番は終わってしまった。
「――いやあ、猿田彦も見事でしたが、やはり溌剌とした舞は見ていて高揚いたしますねえ」
終わってのち、しみじみと築城が感想を述べた。神楽太夫たちの老練な舞も、その素晴らしさは理解できる。しかしあの美しさに胸が高鳴る感覚は、きっと兄の美貌と舞の腕前の両方が揃ってこそだ。
「そうだな、ああ……これでひとまず悔いはない」
「じゃおこわ、食べられますか?」
「後でな」
言ってすっかり冷えた茶を啜る。さらに二演目ほど儀式舞が続いた後に、
(しかし――何というか。やはりタダの神楽ではないな……)
たとえば斎竹に吊された霊符が、内側へ向けての結界になっていること。あるいは舞場となっている拝殿の一角に、厳重に封じられた木箱が置かれ、誰かしらその傍らで番をしていること。そして場の清めが進んで、神の――地霊の降臨が近くなるにつれ顕わになりつつある、違和感。
(はっきりするのは、白開舞が終わった頃か――本当に、本来の姫神が降臨するのか、あるいは……)
膜一枚を隔ているような感覚とでも言うべきか。降ろされ、顕現するはずの力が少し遠い感触がある。これは克樹が、今まで何度も似たような神霊の降臨に立ち会っているからこそ分かる差であった。その生まれついての「義務」を楽しいと思ったことは一度もなかったが、差が分かることは正直に嬉しい。
敬愛する兄が臨んでいるのは怨鬼の調伏。それも、鬼女面を奪うことで姫神の力を掠め盗った怨鬼を滅することだ。そのために、他ならぬ姫神の力を借りる。舞場に降ろす力のうち一定割合が、鬼女面を介して怨鬼に流れてしまう可能性は、覚悟の上での斎行であると聞いた。克樹は関係者席の真ん中に、芳田・築城と並んで座っているが、これは単に正面の特等席を与えられているだけではない。万が一の時、一歩前に出て他の関係者を――呪術の心得がない一般人を守るための場所だった。
「築城。白開舞まで確認したら、一度下に降りよう。流石にずっと座っていては脚が痛くなりそうだ」
己の言葉に築城が頷くのを確認し、克樹は再び鳴り響いた笛の音に意識を向けた。
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