三十一.前夜

31.1

 静櫛地区集会所は集落でも奥まった場所――稲田神社のほど近くにある。大祭前日の夕刻、神楽団のメンバーと最後の練習をするため、由紀子は靖の車で集会所に来ていた。この集会所こそが、静櫛神楽団の練習場なのだ。

 神楽団の全体練習は午後八時からで、由紀子の舞う姫荒平の練習はそれより早くに終わらせる予定だ。定時すぐに市役所を出て、途中軽食を買うため寄り道もしながら、靖の車は六時前には集会所に着いた。姫荒平の楽人を務めてくれる年配の団員たちは七時前にやって来る予定で、それまで由紀子と靖は軽食を食べたり衣装を着たり、二人で雑談しながら過ごしている。

 今年の冬至は折良く土曜日ゆえ、観客も多く訪れることが見込まれる。師走も月の半ばを過ぎ、世間はクリスマスか年末かという雰囲気だが、幸いにも寒波が訪れる様子はない。天気予報は今週いっぱい穏やかな晴れだ。それでも夜間は暖房なしに過ごせはしないであろう。現にファン付石油ストーブがごうごうと唸る中、集会所のキッチンで湯を沸かして作ったカップスープを啜っていても足先が冷えた。

 靖は気さくな人物で、神楽への造詣がとても深い。その話題は尽きることがなく、それでいて由紀子の話も聞いてくれる親しみやすい相手だ。母親より一回り程度下という、普段あまり関わりのない年齢層だが、神楽を卒業論文のテーマとしている由紀子に惜しまずアドバイスをくれるため「頼りになる先輩」のように感じていた。

 その靖が、他愛ない雑談を途切れさせて、少し躊躇うように由紀子の名を呼んだ。

「その――、気付いたのが最近だったんで、直前にどうかな~って言うの躊躇ってたんだけどさ。なんかいいタイミングだから訊いとくね……由紀子ちゃん、何か迷ってる? この間からちょっと、舞に迷いが見える気がするんだけど……。前日にゴメン!」

 その指摘に、衣装を着替え、豪奢で重たい打掛を羽織ろうとしていた由紀子は動きを止めた。ドキリと心臓が鳴り、目を瞬く。靖が由紀子の迷いに以前から気付いていたのなら、二人きりで話ができるタイミングまで待ってくれていたのだろう。――今日は本番会場の設営で不在だが、普段ならばここに必ず広瀬がいた。

「凄い、やっぱり分かっちゃうものなんですね……」

 どうこう考えるよりも前に、ぽろりと感想が口から転び出た。舞は身体表現だ。そこにはどうしたって感情が乗る。間違えぬように、ただひたすら一生懸命舞っていた時よりも、舞も覚え、通しで舞って息切れもせぬようなってきた今の方が、最中に余計な事を考えている自覚は由紀子にもあった。由紀子の傍ら、胡座で着替えを見守っていた靖が決まり悪そうに、化粧っ気のない頬を掻く。

 姫荒平の練習は順調だった。「習得以前に舞の再現から」という条件も、由紀子にとってハードルとは感じられなかった。靖と共に現存する「櫛名田姫」や他地域の「荒平」の映像をいくつも確認し、古文書の記述と突き合せて、舞そのものを、実際に舞って体を動かしながら組み立てていく作業は、知的な刺激に溢れひたすらに楽しかった。

 片手に扇、もう片手には通常の荒平が持つ大きな鬼棒、ザイの代わりに両端に房のついた長弓を持ち、面は荒平専用のものではなく、塵倫などに使われる大きな女鬼の面、すなわち、静櫛の怨鬼が憑いたものと同様の面を用いる。衣装も打掛に袴の姫姿で、舞のステップや所作も「姫」らしいものを、何度も舞い試しながら選んで来た。

 残された古文書には足運びと詞章、どの順番で、どの方位に何の所作を――たとえば長弓を振る、扇で打って弦を鳴らすといった動作をするかが、簡潔に記されているだけだ。それを「姫」の舞に落とし込む。所作を研究し、足運びや詞章の意味を研究し、込められた呪術的な意味も汲み取りながらであれば、長い舞もすんなりと覚えられた。

 無論、元々の鍛えようが足りない分のツケはある。衣装の重さ、大きな鬼女面の重さが肩首に負担をかけてしまい、いま由紀子の首から肩、肩甲骨にかけては湿布やテーピングでびっちりと覆われていた。だが、舞そのものへの不安はない。

「すみません。多分私、のが怖いんだと思います」

 打掛を羽織った由紀子は、その場にしゃがんで答えた。

「明日が終わってしまえば……全部、だなって思ったら、それが怖いっていうか――嫌だなあって。子供みたいな駄々なんです。今が楽しすぎて、お祭りが終わって欲しくないだけの」

 インターンとして市役所に入って、色々な事件が起きて、由紀子自身も大きく巻き込まれて、一度は全てが崩れ去ってしまったように思った。由紀子はそれまで必死にしがみついていた「ちゃんと普通」を諦めて、家族の関係も由紀子の将来も全て変わるのだと思っていた。それが、蓋を開けてみればどうだ。

 両親は由紀子を責めなかった。ただ仁志と同じく被害者なのだと、何も負わなくて良いのだと由紀子を抱きしめた。それが、嫌だったわけでは決してない。だが結果としてあの夜は「無かったこと」になり、由紀子はいまだ教員採用試験に合格したインターン生のままだ。卒業論文も靖の助けがあり、何より「姫荒平事次第」をテーマにできることで、想定していた何倍も良いものになりそうである。

 更に加えて、由紀子のインターン復帰以降、広瀬が毎日トレーニングや練習に付き合ってくれている。両親から見れば、雨降って地固まる――あるいは、禍転じて福となったように見えているのが、傍でひしひしと感じられた。

 何も変わらない、どころか万事順調。それに文句を言うのは罰当たり――そう考える「ちゃんと普通な良い子」の自分と、そうでない自分、亜沙美のように舞台表現の夢を追い、靖のように身ひとつでフットワーク軽く生きる人生を望む自分が、頭の中で喧嘩をしていた。

「元通り、イヤなの?」

 そう問いかける靖の声音は柔らかい。靖は由紀子に優しかった。化粧っ気もなく身だしなみも最低限、性別不詳な呼ばれ方を好む彼女は、由紀子のことも「若い女の子」というテンプレートで扱ったりしない。神楽を愛する同好の士として、フラットに接してくれる靖の隣は息がしやすい。

「はい。凄く身勝手だとは思うんですけど……。頭では分かってるんです、どんな環境でだって、やりたいことは続ければいいんだって。教員になって、地元で参加できる神楽団を探すとか――今あるものを捨てずに、できる範囲で趣味として『好きなこと』を続けるのが賢いってことも。でも、」

 このまま卒業して、地元で教員になって、趣味として神楽に関わって、親しくなった男性と結婚して。そんな「真っ当な未来」を想像するたび、酷く失望して足が止まってしまう。それは今まで誰にも話したことのない、口にできない迷いだった。贅沢で我儘で、自分勝手な迷いだと由紀子自身思うからだ。

「そっか。そうだねえ……私はそういうなルートから、転がり落ちちゃった人種だからなあ。正直、私みたいなのを見て『ああはなるな、ああなったら人生オシマイだ』っつー奴が居ても否定できないんだ。だってアラフォーにして配偶者ナシ、定職ナシだもん。私も、無理矢理真っ当な人間のフリすんの、メンタル壊すまで止めらんなかったしね」

 靖の言葉に、由紀子は驚いて彼女の方を見た。この飄々とした人物が、かつてメンタルを壊したことがあったというのか。視線の合った靖はコーヒーを啜りながら、フレームの太い眼鏡の奥で目を細める。

「でさ、壊れてやっと気付いたんだよね。アレは――『マトモな人間でありたい』ってのは、私にとっちゃ身の丈に合わないタダのだったんだって。色んな情報に振り回されて、『ああはなりたくない』ってマイナスイメージばっかりで自分の選択肢を狭めてさ、必死にで居ようとすんのは、苦しかった。諦めたらラクんなったよ~、あーもー私はどうせ普通でも真っ当でもありませんからー! って。これは私の話で、由紀子ちゃんも『そう』かは分かんないけどね」

 由紀子は膝を抱いて俯く。「真っ当でありたいのは」その衝撃に言葉が出ない。靖の言葉に胸を突き刺されるような思いがするのは、間違いなく由紀子も「そう」だからだ。

(――でも、もし『ちゃんとする』努力を放棄してしまったら……)

「怖いんです。そうやって居直った時に、私が知ってるみたいに、私も周りに迷惑を掛けるんじゃないかって……」

 醜い言葉だな、と自分で思う。脳裏を過るのは、母親を悩ませ続けてきた伯父と、由紀子を振り回し続けた亜沙美のことだ。

「あぁー、まあ、良識を持って己を律することは、止めちゃ駄目だろうとは思うけどね。『真っ当を降りた』ってのを免罪符にして、何やってもいいワケじゃない。何て言うのかなあ……多分まあ実際、マトモなフリしてるより周りに心配も掛けるし、迷惑も掛けると思うよ。けど、『誰にも迷惑を掛けずに生きたい』って言うのも、まあまあ傲慢で見栄っ張りな発想なんだよね。無理だから、普通に。だから――ポンコツはポンコツなりに、『今』と『目の前の相手』に誠実で居続けるしかないと思うんだよね。普通じゃなくても、真っ当じゃなくても、ひとつひとつ対応していくことはできるっしょ」

 言って、カリカリと頭を掻いた靖が、ふいと視線を窓の外へ投げた。といってそこは真っ暗で、室内の光を反射する結露した窓ガラスが、半透明な由紀子と靖を映すばかりだ。

「――何者かにってさ、別の可能性を諦めることだと私思うんだよね。粘土を積んで盛り上げて人形を作るんじゃなくて、丸太から仏像を彫り出すみたいに。未分化の全能性を捨てて、っていう現実を呑むことなんだと思う。私にとってソレは『真っ当な社会人』だし『誰かの奥さん、お母さん』だった。そうやって何かの『普通』を諦めたからって、何かの『特別』になれるワケでもなくて、ただポンコツが残るだけなんだけど……それでも私は、生きてる。な人生ほど潰しも利かないし、不安定だし、いざって時の選択肢も少ないし。けど、ドコで落っ死んでも悔いはないさ、って笑い飛ばせる人生にしたいと思って」

 由紀子から見た靖は十分に特別だ。なので、由紀子は靖の独白を不思議な気持ちで聞いていた。これだけ多くの関係者と信頼関係を築き、専門知識を恃まれているような人でもそんな風に思うのか、と。

「由紀子ちゃんは、本当は何がしたい? 逆でもいいよ、今は頑張って我慢してるけど、ホントはマジで嫌いってものがあるならそれでも。それが判って『どうする』のかは由紀子ちゃん自身で決めなきゃいけないコトだけどね。――今しがみついてる『普通』を降りたところで、奈落の底に落っこちるワケじゃないんだ。そこには、今までとは別の『普通』があるだけで。どこの、どんな『普通』を生きるかは自分自身で決めていい」

「――良いんでしょうか。今あるを、全部投げ捨てても」

 吟味する間もなくスルリと口を突いた問いに、靖は「豪快だねえ」と笑った。

「いいんじゃない? 君がそのに窒息して死にそうなんだったら、多分そもそもソレは君のモノにはならないんだよ。手放してラクになるんなら、手放せばいい」

 後悔するだろうな、と思った。手放した瞬間に惜しんでしまう気がする。だが、そうやってこそが、今の由紀子には必要な気がしてならない。

「今この場が、その『普通』が生き辛くても、それは世界の全てじゃないよ。別の場所に行けば別の『普通』があって、この世の何処かには由紀子ちゃんも生きやすい場所がきっとある。自分を生かすために場所を移動するのは悪い事なんかじゃない、だって動物の足はそのために付いてるんだからね」

 ぐっと親指を立てて靖が笑う。それに由紀子も笑って頷いた。もう、迷いはない。

 そうこうしていると、車のヘッドライトが窓を射た。エンジン音が響き、神楽団員の訪いを告げる。姫荒平の楽人をしてくれるのは、静櫛神楽団の中でも年長者――普段は一線を退いている者たちだ。現役バリバリの団員たちは他演目の練習に集中している。

 由紀子と靖は出迎えて頭を下げた。各々挨拶を返し、腰が痛い、肩が痛いなどと笑いながら、集まった楽人たちは素早く準備して楽器を構える。本番はいよいよ明日、余計な無駄話は出ない。とん、とん、と緩やかなリズムで太鼓が響くのに合わせ、扇を開いた由紀子は構えを取った。軽やかに響き渡る笛の音に合わせて舞い始める。荒平と対話する太夫は、本番は神原の予定であるが、普段の練習では靖が代わりを務めてくれていた。

 ――どうして、この集落の荒平だけ「姫」なんだろう。

 それは、広瀬に姫荒平の話を聞いたときから不思議だったことだ。

 迷いが晴れ、落ち着いた心持ちで舞を舞う。この二ヶ月で頭に叩き込んだ所作に、足運びに、詞章に集中し、順番を間違えないよう、それを丁寧に出力していく。穏やかに繰り返される拍子と旋律に身を任せ、体を動かす。余計なことは考えない。だが、頭の片隅に空白が出来る。その空白を、思考にすらならないイメージがゆらゆらと無数に泳いでいる。

 小川のほとりにある稲田神社本殿。裏手の塚。姫荒平が持つ「弓」の意味。

 不意に、新しくひとつ思い出した。高校の図書館で史学部の資料を読んでいた時、梓巫女あずさみこの伝承があった。その梓巫女は領外から流れ来た女であったが、く当地のタツ――荒神を鎮め、領民の崇敬を集めたという。どの地域の伝承とも書かれていなかったが、梓巫女は没して後、龍の宿るとされる淵のほとりに塚を作って祀られたと書いてあった。

 脳内に、ぶわりとイメージが浮かんだ。

 流れ者の梓巫女が、静櫛の者たちに迎え入れられてその能力を振う。巫女に故郷はない。賤民せんみんとして世を渡り歩き、どこかで客死する運命と思っていた。戦乱の中、生まれ育った東国を離れ、流れ流れて辿り着いた山里で、珍しがられた梓巫女は荒神の祭祀を任される。能く荒神を祭祀した梓巫女は、集落に定住するよう乞われた。

 流れ者である己は、死してもこの地へは還れない。そう躊躇う梓巫女に、集落の寺を預かる法師が言った。

 ――大丈夫、南無阿弥陀仏の六字名号さえ唱えておれば、どこの生まれでも何の身分でも、必ず阿弥陀如来様がご浄土に生まれ変わらせてくださる。そうすればすぐにでも悟りを開いて仏様になり、他のご先祖らと共にこの地を見守ることができる。

 それは当時安芸地方に普及し始めていた、浄土真宗の教えだった。己が「還る地」を見付けた梓巫女は生涯その地の荒神を鎮め、やがて没しては塚を建てられ、自身も祀られた。やがて「タツを能く鎮めた巫女」は荒神そのものと同一視されるようになり、「姫神」へと変化する。それこそが――。

 ハッと由紀子が気付いた時、姫荒平の舞は終わっていた。由紀子はひとつも間違えず完璧に謡い舞った。だがその心は、幻覚とも真実とも知れぬ、ある梓巫女の物語を辿っていたのだ。

(この世のどこかには、自分の生きやすい場所がきっとある。自分を生かすために場所を移動するのは悪い事なんかじゃない……)

 にとってそれは「ここ」であったし、由紀子にとって「ここ」ではないのだ。

 涙が一筋、由紀子の頬を流れた。

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