30.2

 それからの二ヶ月弱、美郷と二人の友人たちは慌ただしく、そして今までの日常とは全く違う日々を過ごした。美郷も広瀬も就職以来、これだけ長い間市役所の日常業務から遠ざかる経験はしていなかったし、怜路も居酒屋アルバイトや個人での仕事を全て休んだ。諸々の雑事を横に置いて、ただ一点を目指す日々は充実していたし、それが気の合う仲間と共にであれば熱の入らぬわけがない。

 怨鬼の監視を怠ればまた惨事が起きる危機感に、リーダーを任されたことの重圧。目上・年上の関係者との交渉や、物資・時間・場所の調達調整など、胃に負荷を感じる業務も多くあったが、美郷が今までしたことのない――文字通りの「祭の準備」の中核を担うという経験に、自覚する以上に美郷もハイになっていたのだろう。不思議と苦痛は感じなかった。

 十一月に入ると通勤時に見える山々も葉の色を変え、街路に植えられた楓も鮮やかに色づき始める。週に何度か準備のため訪れる静櫛の奥里はそれより早く、そして色鮮やかに山の木々を黄葉・紅葉させ、澄み渡る淡い秋空と鮮烈な対比を見せた。それらの葉が全て茶色く散り落ちる頃には、太陽は低く遠く、あっという間に山向こうへ沈んでしまうようになる。朝晩は急激に冷え込むようになり、暖房の稼働率も上がった。寒さの苦手な怜路は明らかに朝の動きが鈍いが、この冷涼さが、体力作りのためのランニングや激しい舞の稽古には有り難い。

 怨鬼を捕縛した翌週から、本格的な大祭の準備が始まった。

 中でも最優先されたのが、奏楽と舞の稽古および舞手の体力作りであった。奏楽については神楽師らや神楽団を頼む他なかったが、舞については儀式舞のうち、美郷が榊と鈴を持って舞う「手草たくさ」を、怜路が天狗面を被り刀を持って舞う「猿田彦さるたひこ」を担当することになった。二人は各々の演目と「調伏」、由紀子は「姫荒平」の稽古を積みながら、毎日のトレーニングメニューをこなす。朝は出勤前にランニング、午前に事務仕事や舞台の準備作業を行い、午後は会議や稽古に時間を使う日々だ。

 出勤前のランニングを美郷は怜路と共に、そして由紀子は広瀬と共に行っている。由紀子への全面サポートを申し出た広瀬は、苦手と言っていた実家に寝泊まりして毎朝由紀子を迎えに行き、一緒に走ってから出勤しているようだ。稽古前の柔軟や筋トレも、ずっと広瀬が由紀子の相方をこなしている。その献身性には怜路が舌を巻いたほどだった。

 帰宅の道すがら広瀬と由紀子の話題になった時、そんなタイプだったかと洩らした怜路に、美郷は思わず笑ってこう返した。

「広瀬、昔から何て言うか……『支えたくなる女性』を好きになるんだよね。自分がいてあげなくちゃ! みたいなのが燃料になるタイプらしくてさ」

 その傾向は高校時代にも見て取れたが、広瀬の恋路が上手く行っていた印象はあまりない。なぜなら彼が恋に落ちる相手は大抵、広瀬よりももっと支配的であったり依存的であったりする――いわゆる「ダメンズ」と呼ばれる類を好む傾向にあったからだ。そんな話をすると、隣でハンドルを握る怜路は随分と頭の痛そうな顔で唸った。

「オメーが親戚みてえに、野郎の恋路を気にする理由はソレかい」

「そう。つい、今度こそ~みたいなコト思っちゃうっていうか……」

 報われなさそうな恋しかせず、振られるたびに自己評価を落とす――持てる物が多い割に難儀な級友を、まあまあ美郷とて心配していたのだ。広瀬のあの妙な自信のなさも女性の趣味も、美郷には「空き容量よゆうの大きさを持て余している」ように見えていた。

 しかし怜路は別方面に懸念があったようで、しばらくの沈黙を置いて、慎重な口調でこう言った。

「おめえの気持ちは分かった。――が、そういうアレだ、今由紀子チャンを広瀬と……つーか、男とくっつけようとするムーブは見せねえ方がいい。まあオメーが無遠慮にソッチ方面の話題触るとはあんま思っちゃいねえが……一応な」

 その声音は驚くほど深刻で、目を丸くして美郷は理由を問うた。それに、怜路は「直接何か訊いたワケじゃねーから、状況証拠と俺の経験からの推察だ」と前置きして答える。

「由紀子チャンを苦しめたモン、彼女を鬼女に駆り立てた『正しさ』は――いわゆる、女の人生の模範解答だろ? 実家も安定してる、健康で性格も頭もいい、学歴もちゃんとある……じゃあ何に引っ掛かって由紀子チャンは苦しんだのか」

 彼女は我慢して「正しい道」を選んで来た。我儘を言わず、周囲の期待に応えるために。それは今まで、主に進路選択についてであっただろうし、社会に出た今後は主にライフステージのことになる。ちゃんと進学、ちゃんと就職……の後にやって来るのは、ちゃんと結婚、そして女性の場合、ちゃんと出産育児だ。

「……もしここで、『本人らが悪くなさそうだから』っつー曖昧だが否定し辛ェ理由で、彼女をのは、折角立ち止まって足下見つめてる彼女をまた転ばすことになりかねねえ。なんなら、オメーはもし広瀬が突っ走りそうなら手綱引いてさせろ。彼女が、自分が選ぶモンが『広瀬個人』か『模範解答』か切り分けられるまで――熱した鉄が一旦冷めるまで、待った方がいい」

 その言葉の深みに、思わず美郷は息を呑んだ。

「……お前、どんな人生経験してんの?」

 ポロリと洩れた問いに、怜路が苦虫を噛んだような顔をする。夜道を走る車の中でもありありと分かる眉間の皺だった。

「俺の経験っつーより、人から聞いた話の蓄積だ。環境的に、人生経験豊富な姐さんが多かったモンでね」

 ははあ。それ以外に言葉の返しようもなく、美郷は一旦沈黙して窓の外に視線を投げた。道路脇の草むらにぼうっと鹿が立っている。心情的に広瀬を贔屓しているせいもあるが、全く美郷にはない視点だったので素直に居住まいを正した。

「分かったよ。事故る前に釘を刺してくれて助かった。下手なこと言わないように気をつける。広瀬も――もし前のめりになりすぎそうだったら止めれるよう気をつけるけど……あいつはあんまり心配ないんじゃないかなあ」

 その楽観に明確な根拠はなかったが、無意識にサラリと汲めてしまうのもあの男だと思うのだ。

「まー確かに、あんまり心配はしてねえ」

 なんと言っても、ミスター命綱だ。そう笑う怜路に、美郷も笑った。

「――あの時さ。広瀬が高宮さんに言った言葉、何かおれまで凄く……感じるものがあって。格好良かったよね、『どれだけ普通でも、何を持ってても抱えてなくても、辛い時には辛い』って。ああ、そうなんだ――って思ったんだ」

 その言葉の呼び水は、おそらく直前に美郷が広瀬に掛けた言葉だ。あの時美郷は広瀬に「自分以外は全部他人で、自分の辛さを分かってやれるのは自分だけだ」という趣旨のことを言った。それは美郷自身の抱える捻くれた人生訓で、そんなものでも、抱え込みすぎた広瀬の助けになるならと贈った言葉だ。だが、広瀬自身の言葉で言い換えられたそれは、全く別の色を持って美郷の心に響いた。

「おれはおれの、怜路は怜路の、何かしらを抱えて、それを『生き辛い』と感じてるんだと、何となく思ってた。でも苦しそうな高宮さんを見て、悩む広瀬を見てて――それから、広瀬のあの言葉を聞いて、ああ違うんだ、って。んだ、だから……おれの辛さも『特殊さ』のせいばっかりじゃなくて、それなら――なら、おれはおれの特殊さを、そこまで呪わなくてもいいのかもしれない、って。なんだろうね、あの広瀬でも生きてりゃ辛いんなら、どんな人生だって、生き辛さくらいあるんだろうなって。本人の前じゃ言えないけどさ」

 当人が聞けば「俺はそんなにお気楽そうか!?」と憤慨されるだろうが、そうではない。広瀬は美郷が持たない物を持っている。抱えているものを抱えていない、それでも、辛い時もしんどい時も彼の人生にだってあるという気付きは、確かに美郷の救いだったのだ。

 美郷のつらつら語りに、怜路が穏やかな笑いを返す。その夕凪の海のような穏やかさのまま、怜路は「せいすなわってヤツだな」と呟いた。

生老病死しょうろうびょうし四苦しくは誰しも平等で、が根本的な原因だ。欲しいモンが足りねえ、持てるモンを損ないたくねえ、生きてる限りゃそうやって、に苛立ち続けるしかねえ。俺ァ坊主じゃねえから欲望を捨てて悟りを開けたあ思わねえが――どう生きたって、苦は苦ってこった」

「だね。だからゴータマシッダールタは地位も家族も捨てて出家したし、典雅な貴族も勇猛な武士も、来世の浄土に願いを託した。生きてるってことは、そもそもが苦しいんだ。それはじゃないし、おれだけじゃない」

 自分ばかり苦しいのではない。他人には他人の辛さがある。お説教に使われたところで1ミリも響かない言葉だが、こうして実感するのは全く違った。己の「特殊さ」に全て背負わせて、それを呪わずともよいのだ。だって、どうせどんな人生でものだから。

 片道四十分程度の通勤路を、毎日二人で朝晩走る。朝の運転は美郷で、帰りは大抵怜路だった。並んで前だけ眺めながら、とりとめもない会話を交わす。外の風景、街の噂、テレビやネットの話題に、仕事の内容。たまにこうして、妙に深く踏み込んだ話まで。

「――ま、何にせよ……オメーは早よ寝ろ。毎日毎日鬼畜スケジュールなのに夜更かしすンじゃねェ、元々ロングスリーパーだろうが」

 帰りの運転が怜路なのは、夕方は大抵美郷が力尽きているからだ。暗く穏やかで重低音の心地よい車内では、悪くすれば発進三分で寝落ちてしまう。なお美郷がロングスリーパーというのは本当で、ちょっとやそっとの早寝では朝の辛さが解消しないタイプだ。

「うう、毎日このタイミングで気絶しちゃって、夜は目が冴えるんだよね……だから、どうにかここで意識を保、とうと……」

 言った端から、かみ殺せなかった欠伸が車内に響く。それに気の抜けた「おー、気張れや」のかけ声が飛んだ。

「てめえ俺の車の助手席を、揺り籠か何かだと思ってンだろ」

「もう脳が、寝床だって認識してる気はする……」

 そんなやりとりの一呼吸後、既に美郷の意識は半ば闇に呑まれ――隣の、仕方なさそうな溜息だけがわずかにその耳に残った。

 ――師走に入れば準備は大詰めを迎え、イレギュラーな大祭斎行の告知も、市報に挟まれたビラや市内施設のポスター掲示などでひっそりと――オンライン露出を避け、あまり遠方の神楽ファンには伝わらぬよう行われた。

 最後の調伏を除いて、今回の大祭は一般参観可である。特に人気の高い能舞は、宵から夜中の訪れ易く盛り上がる時間帯だ。地元自治会のバザーなども出店が決まり、駐車場の確保や交通整理の人員配置など、当初の美郷が想像もしていなかった業務まで発生する。公共交通機関などない奥里の、道の狭い集落だ。人が多く集まるとなれば無策では混乱は必至だった。

 主催は実行委員会、後援に広島県と安芸鷹田市、出演にそうそうたる神楽団が名を連ね、地元企業が協賛した神楽大祭の準備は、着々と進められたのである。

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