三十.舞手

30.1

 暦の上では晩秋となった金曜日昼下がり。穏やかな日差しが小会議室の長机に差し込んでいる。眠気覚ましにつけた朝のニュースで、二十四節気では「霜の降り始める頃」だと気象予報のキャスターが言っていたことをふと思い出し、広瀬は窓の外に視線を投げた。これも地球温暖化のひとつなのか、あるいは「暦の上」や「二十四節気」は元々実際の季節と合致しないものなのか知らないが、見渡す景色はようやく一部の楓が色づき始めた程度、朝晩も霜の気配どころか吐息が白くなった覚えもない。

 長すぎた暑い季節がようやく終わり、今からが「秋の盛り」といった風情だ。これから始まる会議のため移動してきた広瀬は末席を確保し、机に置かれた資料を手に取った。

 あまりにも昼寝が気持ち良さそうなシチュエーションだ。舟を漕がないように気をつけなければ。隣の椅子を引いた怜路も眠たげに大あくびをしている。

 火曜の夜は結局、広瀬、怜路、宮澤の三人でファミリーレストランに寄って夕食を取った。ただ定食を食べて解散するだけかと思っていたが、フリードリンク片手に気付けば数時間だべっていたため、その日の帰宅もいささか遅かった。一度狂ってしまった生活リズムを立て直すにはやるべき事が多すぎる日々に、体内時計も狂い気味だ。

 広瀬、怜路の他には守山、靖という先日と変わらぬ顔の他、静櫛神楽団の団長、そして靖の知人という老齢の男性があった。背広姿の老紳士は、恐縮した様子の静櫛神楽団長と挨拶を交わしている。彼が現代の神楽太夫――備後地方で神楽を継承している神官だ。備後・備北地域を中心に、神楽を継承する神職たちが広く集まった組織の代表であるという。会議の時刻より三十分ほど早く事務室を訪ねてきた彼は、靖の出迎えを受けて親しげに話をしていた。その様子は、まるで久々に帰省した孫娘を構っているかのようで、彼らが日頃親しく付き合っている様子が窺える。

「やあやあ、皆様お集まりですねえ! これはこれは紙原会長、お世話になっております〜! 備後・備北本手ほんで神楽継承会のお歴々が参戦とは心強い!」

 のんびりとした思考を吹き飛ばす、やたらにテンションの高い声が開いた引き戸から響いた。広瀬は思わず「ゲッ」と呻きを洩らす。県庁総務局の木元だ。隣の怜路も苦い顔をしている。一見爽やかなビジネスパーソン風の、小綺麗で高そうなスーツを着込んだ中肉中背の男を広瀬は見遣った。

 わざとらしい溌剌さで小会議室に飛び込んできた木元は、大仰な仕草で後続の人影をエスコートする。それにいささか呆れ顔をしながら入ってきた、本会議の参加者最後のひとりこそ宮澤だった。全員が揃い、定刻になったため会議が始まる。なぜか最初に場を仕切ったのは木元だった。

「それではー、第一回・静櫛の怨鬼調伏に係る大神楽祭開催の準備委員会を始めます! あっ、わたくしは広島県総務局の木元と申します! 突然まるで主催みたいな顔してしまって申し訳ありません〜。県と致しましても、このたびの神楽面による特殊自然災害の発生を重く見ておりまして、皆様の斎行される神楽祭を積極的に支援することにいたしました。また、このたび森山氏が発見された『姫荒平事次第』は民俗学・宗教学におきましても大変貴重な文献であると認識しておりますっ。それに基づいた今回の大祭も、神楽太夫さんをお招きした再現ということで、学術的にも大変貴重な記録になること間違いございません。文化芸術関連の部署にも協力を取り付けているところでございます~」

 相変わらずの軽薄な口調は、こちらを口車に乗せようとするセールスマンを彷彿とさせる。しかし語られる内容は非常に頼もしい支援で、そのギャップに広瀬は座りの悪さを感じて小さく身じろいだ。それに気付いた訳でもないであろうが、隣の怜路が資料の端に何やら書いて広瀬の方へ示す。

『オンキセがましいヤツ』

 なるほど捉えようによっては「木元が広島県の各部署から協力をとりつけて来た」という功績自慢にも聞こえる。広瀬は『ナルホド』と己の資料の端に書いて返した。授業中に内職をする学生の気分だ。

「それでは、あんまり長く僕がしゃしゃってても皆様鬱陶しいだけでしょうからね! ここからは! 本準備委員会の会長、つまりは本作作戦のチームリーダー! 宮澤主事にお渡し致します~」

 しゃしゃり出ている自覚はあったらしい。そしてあまりにわざとらしく「リーダー」を強調する宮澤の紹介に、言い様のない反感と鳥肌が広瀬の背を駆け上った。宮澤をヨイショする意図にも見えるし、まるで県や木元が宮澤を指名したようにも見える立ち回りだ。――実際には、宮澤をリーダーに据えたのは木元ではなく、広瀬ら市職員と助っ人たちの昨日の話し合いの結果である。『恩きせがましいな』と、広瀬も思わず資料の端に書いた。『だろ』と小さく返信がある。

 そんな末席のやりとりを知ってか知らずか、紹介を受けた宮澤が全く感情の読めないアルカイックスマイルで挨拶して、会議は始まった。(なお広瀬らの資料端の会話は宮澤から見えていたようで、独り慣れない立場に神経をすり減らした宮澤はすっかりへそを曲げており、二人はそのご機嫌を取るはめになるが……それは会議終了後の話である)

 始めに、それぞれが軽い自己紹介と挨拶をする。宮澤の隣に座った靖に続いて、靖と親しげに会話していた神楽太夫の神原氏が挨拶し終えると、その隣に座った人物――静櫛神楽団の団長がガタリと音を立てて立ち上がった。

「このたびは、わたくしどもの管理不行き届きにより、大っ変、皆様にご迷惑をお掛けしております。大変申し訳ございません!」

 第一声、謝罪と共に頭を下げたその人物は、名を中原茂と言う。

 中原は小柄で丸いシルエットをした温厚そうな人物で、男衆を率いる団長という雰囲気ではあまりない。静櫛神楽団は櫛名田姫のような古い演目も受け継ぎながら、積極的に新演目を創作している神楽団だという。その新演目の台本を書いているのが中原だそうで、言われればなるほど、郷土史家や創作家と紹介されればしっくり来る雰囲気をした、還暦を少し過ぎた年頃の男だった。

 広瀬や守山はこれまでにも何度か挨拶を交わしたが、事件も初期の頃には戸惑いの方が先行している様子で、現実感もあまりない様子だった。それが高校襲撃、介護医療院襲撃、人質を取っての警察署脱走、更には高宮由紀子に憑いて彼女を害そうとしたに至り、管理責任を重く感じ始めたようである。

 顔色悪く肩を丸めたその姿に、守山や神原が「まあまあ」と宥める声を掛けた。実際に宝物殿の鍵を壊して鬼女面を盗もうとし、怨鬼の封印を破ったのは窃盗犯だった。管理責任が神楽団にあったと言っても、現代社会において「封印を破れば祟る鬼女面」の管理を任されたとして、それを兵器や劇物のように厳密に保管するのは無理がある。ましてや彼らは山村の小さなアマチュア団体だ。彼らを責める気持ちのある者はこの場にはいない。

 その後は守山、怜路、広瀬の順に挨拶と自己紹介をして、宮澤が手元資料と、今日の議題を確認した。議題は神楽の式次第、演目、舞台準備と多くあったが、大半について俎上に載せ、説明役を担ったのは靖である。

「それじゃ、まずは……私の方で『事次第』を元に作った、式次第の叩き台を確認させてもらいますー。資料は二枚目デス。えっと、大きく分けて8プログラムを大体十時間半かけて行えればと思ってます。まず舞い始めの前に胴の口開けって言って、奏楽だけの儀式舞を奉納した後、①湯立ゆだて舞、②神迎え、③儀式舞……えーと、これは七演目で出雲神楽の『七座神事』と近い感じなんスけど……正確なトコが分かんない演目があったんで、そこは推測でそれっぽい七座神事を割り当ててマス。で、④白開ビャッカイ舞。これについては後で詳しくお話します。⑤能舞、⑥五行の神楽、⑦姫荒平、ラスト⑧で本来託宣神事が入ってた場所に怨鬼調伏を入れます。能舞はだいたい四時間くらいになるように演目を調整してもらったら、午後五時の日没から祭祀を始めて、寅の刻――翌午前三時半に⑧の怨鬼調伏を行える感じッスね。能舞は手持ちの旧舞を入れて貰いつつ、やっぱ地元の人とかも盛り上がるし新舞ガッツリ、鬼女物ガッツリでイケるでしょ、って宮澤サンに言って貰いました」

 言って、靖がグッと嬉しそうに拳を握る。安芸鷹田市役所の、広瀬らと同じ島に事務机を借りた彼女は連日連夜の突貫作業で古文書解読と計画書・資料作りを進めていたが、心から神楽が好きなのだろう。大変に活き活きしていてパワフルだ。

 しかし説明を聞けば改めて、途方もない計画だった。複数団体が出演する共演大会でもあるまいに、そんな長時間ずっと舞を奉納し続けられるものだろうか。神楽の舞は広瀬のよく知る新舞で一演目概ね二十分程度、八岐大蛇など長い演目で四十分を超える程度である。すなわち、静櫛神楽団が現在保持しているであろう演目だけでも、四時間となれば十演目前後を舞わなければならない。それに加えて、神楽団が今後二ヶ月弱の間に覚えねばならない舞もあるはずだった。幾らか神楽太夫らの助太刀が入ると言っても、神楽団の負担は相当なものになるだろう。

 そう思ったのは広瀬だけではなかったようで、会議室のそこここから重たい唸り声が洩れた。その中で、靖の隣に座った神原氏が「ちょっと」と軽く挙手する。宮澤がどうぞ、と発言を促した。

「この6番の五行の神楽いうんはやっぱりアレなん、安芸の所務しょも分けやら石見の五神ごじんと同じ? じゃったとしたら一時間は舞うようなけど、ホンマに今から覚えて貰うんね」

 その演目については、広瀬は先日ファミレスにて「予習」させられていた。夕食後数時間に渡り、広瀬の友人たちは店内Wi-Fi回線で動画投稿サイトを漁り、神楽演目予習大会を行ったのである。その中で登場した「所務分け」とは、安芸地方に残る古い演目のひとつで、天地開闢後に四季と土用が誕生した成り立ちを演劇風に説明する長い演目だ。開闢神の息子で春夏秋冬の四季を支配する青赤白黒の四人の兄たちに、支配する季節を持たない五番目の黄の王子が己の所領を求めて戦いを挑む筋書きで、この五番目の王子が五行における土気、季節における土用を司る神、すなわち土公神であるという。

 ――もはやこの説明の辺りで、広瀬にしてみれば分かったような分からないような、というレベルなのだが、とかく「土の神」すなわち「大地の神、土地の神」を称える重要な舞で、これを外すのは難しいらしい。なぜなら今回、靖らが発掘する神楽の主役は神であり荒神である存在、静櫛で信仰されてきた姫神であるからだ。

「覚えて貰うっきゃないと思いマス。ただ――その負担を考えると他の部分は、可能な限り他所に振りたい、ッスよね? 中原さん」

 靖の確認に、守山の隣で中原が深々と頷いた。

「五行の神楽については、知り合いのおる十二神祇の団体に教えて貰おう思うとります。他にもヤスさんやら宮澤さんとも相談して、3番の儀式舞やら4番の白開舞も、ウチに近い演目が残っておるものは、できる限りウチがやろう言うことになりました。代わりに、能舞の方に応援を頼もうと。町内、市内の神楽団に得意演目をお願いして、賑やかにできればエエかなと思っております」

 なるほど、それならば最低限の負担分散はできるだろう。

「じゃついでに、その他の部分も『割り振り』の素案を出しますね。①湯立舞と③儀式舞の一部を、神楽師さんたちにお願いしようと思いマス。儀式舞の中にも静櫛さんが舞える演目もありますし、宮澤サンとりょう……狩野サンにも一演目ずつくらい覚えて貰おうかと。⑤能舞に応援を頼んで、⑥五行の神楽は静櫛さん、⑦は――また後で。⑧の調伏はのお二人が舞手、神楽師サンたちが楽人の予定っす。②の神迎えは事次第の記述によると、稲田神社本殿裏手の河原にある塚の周りから、砂を一掴み持って帰ってくる神事みたいなんで……これは、今回メインの神主さんってコトになる――宮澤サンがやるってことで良いんスよね?」

 訊ねられて、宮澤が「はい」と頷いた。現在稲田神社に宮司は居らず、遠方の神社から祭祀の時のみ神職に来てもらう状態だという。それならば、本作戦のリーダーでもある宮澤が、祭祀全般で主体となる方が良いだろうという判断だった。――神職にも階級だか身分だかがあるようで、県東部神楽師の代表などという地位を持つ神原に比べれば、宮澤はほんのヒヨッコらしいのだが、神原はあくまで助っ人あるいはオブザーバーといった立ち位置だ。神原に祭祀を任せるのは筋が違うであろうという結論に至ったのである。

「で、④の白開舞ってのについてなんスけど、事次第には『神降ろしの舞』って注釈がついてて……ビャッカイっていえば恐らく、備中神楽の白蓋びゃっかい、石見神楽の天蓋、備後神楽の造花引きに当たる、天蓋を揺らして場に神を降ろす儀式だと思うんスけど、静櫛さんは全然違う内容の『白開舞』って演目をお持ちなんスよね。――まあ一応の確認なんスけど、現地に残ってる演目優先ってコトでいっスよね? 天蓋を揺らすヤツは結構な熟練技術の要るんで、ソッチなら神原さんたちにお願いすることになっちゃいますけど、それよりは静櫛さんが奉納するほうがいいかなって思いますし」

 靖の確認に、周囲が一斉に頷いた。ふと、すっかり静かになった木元が何をしているのか視線を巡らせれば、彼は部屋の端で椅子に座り、優雅に足を組んで何やら熱心にスマホを弄っていた。かの胡散臭い男の参加はおそらくイレギュラーだが、他の面々はあらかじめ議題と方針を打診され、了承してこの場に足を運んでいる。つまりこれは根回し済みの内容について、全員対面して確認を取るだけの会議なのだ。ちなみに終了時刻はちょうど終業時刻で、その三十分後から近くの居酒屋に個室の予約が入れてある。決起会という名目の飲み会であった。そちらに木元の分まで席があるのか、広瀬は把握していない。

「じゃあ――①から⑥と⑧の割り振りは決定、と。能舞の演目については、さっきもチラッと言いましたけどなるだけ旧舞を入れて貰って、あとは応援に入ってくださる神楽団さんと協議ってカタチになると思います。旧舞は八幡と塵倫じんりん鍾馗しょうき、天岩戸、八岐大蛇の五演目は確保できるのが理想っス。全部揃えれれば、旧舞だけで結構な尺を確保できると思いマス。他は、さっきも言いましたけど鬼女物中心で。通しのリハは長すぎて現実的じゃないんで、タイムテーブルはぶっつけ本番になると思った方が良さそうですよね。練習については、神楽団さんは自前の練習場、神原サンたちも演目を持ち帰って貰って、定期的に集まって流れの確認とか考えてマス。流れの確認と宮澤サンたちの練習場所は、鬼女面を置いてる施設でやりましょう。で、あとは最大の問題……姫荒平の舞手を誰にするか、っすね」

 それまでザクザクと物凄い勢いで議題を消化してきた靖が、ここで一呼吸置いた。靖に目配せされ、宮澤が後を受ける。

「他の演目については新しく台本や譜を起こすのではなくて、対応する手持ちの演目を並べる形を取りますが――姫荒平だけは事次第や現存の荒平舞を参考にして『再現』を行うことになります。再現には森山さんや神原さんのお力をお借りしますが、舞手の方にもじっくり時間を割いて頂いて、可能であれば毎日、業務時間中に練習できるのが理想です。となると、静櫛神楽団さんの中にも、候補の方はいらっしゃらない……ですよね」

 中原が、申し訳なさそうに小さくなりながらそれに答えた。

「……ちょっと難しいと思うております。団員は皆、平日は仕事に出とりますけえ」

 当地域の神楽団は自分たちの氏神社以外にも、例大祭に招かれれば神楽を奉納しに行く。更には地域コミュニティの祭や自治体のイベント、共演大会にも参加する忙しい日々を送っているが、彼らは皆兼業――本業を別に持つアマチュア団体だ。

 先日司箭は、姫荒平の舞手に必要なものは「才覚、経験、あるいは若さと時間と情熱」であろうと述べた。その中でも宮澤の説明に従えば、より「時間」や「体力」のある者が欲しいということになる。となると、実は第一候補に挙がるのは広瀬自身だった。宮澤と怜路を除いた現在のメンバーの中で、一番条件を兼ね備えている。

(んだけど、知識というか情熱というか……その辺が。俺よりが居るんだよなあ)

 そのことに思い至ったのは、わりあい早い段階だった。事前打ち合わせの段階で自身が第一候補に指名され、納得すると同時にその条件ならば、自分よりも兼ね備えている人物がいることに気付いてしまったのだ。

「でしたら――姫荒平の舞手が女性でも、問題ないと皆様思われますか?」

 宮澤の問いに、神原や中原が目を丸くする。実はこの件だけは、根回しが完了していない。理由は本人から受諾の連絡が来たのが、今朝だからだった。最初に意見を述べたのは守山だった。なお守山は既に候補者を知っている。

「まあ、もともと性別どころか種族跨いでの大作戦ですけえなあ。狐が舞うよりは、男だろうが女だろうが人間の舞う方が、神さんも喜んでかもしれません」

 そのおどけた言葉に、中原が笑いを零して頷いた。

「今時はわりあい、どこの神楽団にも女性はおってですが、大抵が楽人をされとります。別にこれは男でないとうちゃいけんやら言う話じゃのうて、単純に体力の問題だろう思いますが……」

 神楽衣装は重く、その舞は激しい。そして姫荒平という演目は恐らく三十分前後の長編で、その大半を姫荒平が単身舞い続ける過酷なものになる。それを二ヶ月弱で覚えるどころか、監修者と共に組み立てなければならない。普段ならば、体力ゴリ押し根性論でどうにかできそうな「若い男性」の方が良いと皆考えるだろう。――そんな風に、年齢と性別を基準に根性論を押しつけられることが、全く正しいとは広瀬も思わないのだが。

「どしたん、森ちゃん以外にも、神楽が大好きで大好きでかなわん女子が近くに居ってん?」

 面白そうに訊ねたのは神原だった。なるほど彼の目の前にもひとり、神楽の為ならオーバーワークを厭わない女性がいる。他ならぬその「森ちゃん」が、ニヤリと笑って答えた。

「それがねえ、いらっしゃるんですよ。それも私なんかよりピッチピチに若くて、時間もタップリ使えて、しかも神楽に詳しいから専門用語もバッチバチに通じる子が。インターンで市役所に来てらっしゃるから業務として取り組んで貰って何の支障もないし、他の事務仕事に振り回される心配もない。体力面の心配は、二ヶ月みっちりトレーニングすればどうにかできると思いマス。なんたって、まだ二十二歳っスから!」

 ――やります。練習でも、それ以外の筋トレでもランニングでも。やらせてください。

 そう決意に満ちた声音を、今朝の「彼女」は電話口に響かせた。広瀬が面会に行った翌日彼女は退院し、以降は毎日メッセージアプリや電話で連絡を取っていた。最初は広瀬の思い付きだった抜擢について、話題に出してからは毎晩――といっても昨日と一昨日の二晩程度だが――電話で語り合った。彼女の幼い頃の夢も、絶望も、抱える迷いや後悔も教えてもらった。鬼女という存在への憧れ、舞台や神楽への愛、全てひっくるめて彼女が――高宮由紀子が適任だと広瀬は思った。

『今からだって挑戦すればいい。失敗できる舞台じゃないけど、合否があるような試験でもないしさ』

 そう言った裏に、彼女自身のためになれば、という思いが全くなかったとは言わない。苦しみ、ヘトヘトになりながら走っていた「ちゃんと普通」な人生のレールで盛大に躓き、転んで立ち止まって迷っている由紀子の目の前に、全力で取り組むべきことがあるのは良いことのように思えた。

「もし駄目だった時に、一週間前になって『じゃあ代わりを誰か』いうんは絶対に無理で?」

 念押しをするのは神原だ。分かっています、と靖、宮澤、そして広瀬は頷いた。

「この場で一緒にご挨拶できないのが残念ではありますが、今週いっぱいは医師の指示で休養されています。こうご説明するとご心配かと思いますが、その分――って言うとちょっと変なんですけど、今の彼女には。全身全霊、そしておそらく背水の陣で取り組んで来られます。――だよね、広瀬」

 宮澤の確認に、広瀬はしっかと頷いた。

「ああ。僕たち市役所組としては、インターン生で怨鬼の憑依も経験した高宮由紀子さんを、姫荒平の舞手に推薦します」

 驚き、戸惑い、納得、それぞれが交じり合った反応ではあったが、広瀬らの提案は了承された。

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