29.3
会議の終了後、怨鬼の拘束された施設を出た広瀬はその足で、由紀子が入院している総合病院へ向かった。施設から徒歩十分、一キロメートルに満たない距離にある総合病院は広瀬にもなじみ深い場所だ。時刻は午後四時半、あと三十分で面会時間は終わる頃だが、守山や西野が確保した個室は他の入院患者と離れた場所にあり、由紀子さえ了承すれば何時でも訪れることが可能だった。
(ご両親は――昼過ぎまでは、とりあえず何はともあれ葬式を終わらせなきゃなんなかったらしいからな……今からで、丁度良いくらいかもな)
米原勲の亡骸をそのままにしておくことは出来ないし、葬儀会社にも僧侶にも、そして斎場――火葬場にもスケジュールというものがある。由紀子の両親の精神的負担を想像するとやりきれないが、到底ゆっくり由紀子と向き合う余裕はなかっただろう。そんなことを考えながら、個室のスライドドアをノックする。「広瀬です」と声を掛ければ、どうぞ、と由紀子の声がした。
最上階の角部屋であるその個室は、広々としていて静かだ。他に背の高い建物がない市街地を、窓から眺めることができる。灯りの点った室内、ベッドの上ではなく窓際に置かれた椅子に座っていた由紀子が、ドアを開けた広瀬を見て微笑んだ。左手から前腕と両足に包帯を巻き、病院貸与のパジャマを着ている。いつも綺麗に括られていた髪も下ろされたままで、その体に、実際には入院するほど大きな傷病がないと知っていても胸が痛んだ。
「たびたびゴメンね。電話よりは直接顔見て話したいことがあったからさ」
言いながら、広瀬は由紀子の隣に置かれたもうひとつの椅子に座る。それを迎える由紀子の表情は穏やかだ。――少なくとも、表面上は。
「朝にもチラッと言ったけど、ご両親に怨鬼のことを全部説明したほうがいいかな、って俺たちは思ってるんだ。もちろん、由紀子さんの同意があれば……なんだけど。どうかな?」
言った広瀬に、由紀子は躊躇うように俯いた。
「――納得、してくれるでしょうか?」
「そこは、守山さんが体張るって言ってたよ。それに、お父さんは一度怨鬼を見てるし、大丈夫だと思う」
体を張るとはつまり、彼らの目の前で変化を解いて見せるということだ。広瀬自身も体験したが、なかなか刺激が強い。由紀子の両親との面識は浅いため、彼らがどのような人々であるか広瀬はよく知らない。その時点でパニックを起こしてしまわないかは、多少心配であった。
「由紀子さんのご両親、そういうの苦手な感じかな?」
「分かりません。全然縁がなかったですから……。父は普段なら、ある程度冷静になれるタイプだと思いますけど、今は……色々重なってしまってて、きっと疲れてると思います。父も、母も。だから――」
由紀子が膝に置いた両手をぎゅっと握り合わせた。その躊躇い、苦悩が、肩を尖らせる様から伝わってくる。由紀子の両親が「特殊自然災害」の存在を受け入れられるかは未知数で、彼らにとって非合理で理不尽な「特殊自然災害」を受け入れてもらうことは、彼らに相当な精神的負担をかけるだろう。それよりは、彼らにとって「合理的な説明」――たとえば、由紀子の精神的な病であるとか、存在しない誘拐犯などをでっち上げて説明する方が彼らにしてみればラクなはずだ。だが、それをしてしまえば皺寄せが行くのは、由紀子の所だった。
「ご両親が納得してくれるまで、説明は俺たちがする。二人が納得して、落ち着いた後にここに案内するつもりだ。混乱した気持ちを君にぶつけることが、絶対にないように」
広瀬から見て、最大の懸念はそれだった。我が子が怨鬼に憑かれて自死しようとしたなど、通り一遍に説明されただけで呑み込むのは難しいだろう。よって事前に、しつこいくらいに守山や西野、宮澤らに相談して説明の段取りを確認していた。
「ありがとう……ございます……」
そう礼を述べながらも、由紀子は俯いたままだ。広瀬は迷いながらも、少し距離を詰めて彼女を覗き込んだ。そろりと伸ばした右手は、結局由紀子の手には触れず宙に浮かす。
「まだ、何か不安があるなら教えて欲しい。対処は絶対に考えるから」
言った広瀬に、由紀子が僅かに吐息を震わせる。躊躇うように息を詰めて、震える小さな声で言った。
「――怖いんです、私のやってしまったことを、知られるのが……。きっと、悲しませてしまう。今だって辛いのに、もっともっと悩ませてしまう……それは、どんな説明をしても多分逃れられなくて、取り消すことも、隠すことも無理なのは分かってるんですけど――なんとか逃れる方法がないかって、そればかり考えてしまって……臆病者でごめんなさい、でも――」
「由紀子さんは、優しいな」
言って、広瀬は浮かせていた右手で、そっと震える由紀子の手に触れた。「そんなんじゃないんです、私」と由紀子が肩を戦慄かせる。それに「いいや」と返して、広瀬は椅子から離れ、由紀子の傍にしゃがみ込んだ。
「ご両親を悲しませたくない、怖がらせたくない。悩ませたり、辛い思いをさせたくない。そうだろ? でもさ、覚えといてくれ。本当に親しい相手、大切な相手に、そういう悲しい辛いことを隠される方が辛いんだ。由紀子さんがそこまで想うご両親が、由紀子さんのことを大切に思ってないワケない。さっき由紀子さんが言ったように、これはもう起こってしまったことで、取り消すことはできない。――だったら、隠されるよりは分かち合う方が絶対にマシなんだ。これは俺自身の経験。何もできないかもしれなくても、せめて知らないままでは居たくないんだよ、由紀子さん」
分かち合えるほどの存在でありたかった。何も知らないまま素通りなんてしたくなかった。相手が己にとって「特別」であればあるだけ、そう思う。
高く小さな嗚咽と共に、ぽたりぽたりと広瀬の右手を温かい雫が濡らした。嗚咽を殺して震える小さな手を、広瀬は一定のリズムで優しく叩く。しばらくの後、大きく啜り上げた由紀子が、まだ震える声で笑った。
「ありがとう、ございます……。せつめい、おねがいします……」
それに「ああ」と頷き、そっと立ち上がった広瀬は守山に連絡すべくスマートフォンを取り出す。守山はワンコールで電話を取って、すぐに準備すると言ってくれた。
――由紀子に迎えが来るのは、恐らく日が暮れてからだろう。それまで広瀬は、自身の把握している現在の状況について情報共有を行うことにする。怨鬼の成り立ち、櫛名田姫の演目と「それ以前」の舞、前回どう怨鬼が封じられたのかや今後の作戦など、話す内容は沢山あった。
現状、おそらくは偶然にも高宮家自体が大きく怨鬼の被害を被っているが、そもそも由紀子は「知識を持った協力者」である。広瀬自身は全く知らなかった「荒平」についても、必死にメモして来ていた説明を読み上げてみると、由紀子はすんなりと頷いた。
「荒平は、実際の演目を生で観たこともあります。『姫』になった場合、どんな舞になるのかは私も想像がつきませんが――凄く興味深いですね。どうして静櫛だけ女神になったんだろう……」
そう熱心に考察を巡らせる由紀子の目は、知的好奇心と興奮できらきらと輝き、先程までの消沈した様子が嘘のようだ。両親との対話について、ひとつ思い切れたのも理由ではあるだろう。だが何よりもそこには神楽へ対する「好き」という感情が漲っている。
「由紀子さん、ホント神楽のこと大好きなんだね」
ついそんな、しみじみとした感想が洩れてしまい、ぱっと顔を上げた由紀子が頬を赤らめた。
「あっ、ええと……はい。――ホントは、舞い手になりたかった、んです。神楽に限らず、舞台芸術系全般が好きなんですけど……神楽は本当に、特別で……」
「そっか。――あれ、そういやウチの高校にも……俺たちの時って、伝統芸能同好会は休部だったんだっけ?」
広瀬らの母校にも神楽を主活動とする同好会があったが、人数は多くなかった印象だ。神楽部が活発といえば、やはり広瀬や由紀子の地元となる安芸鷹田市の高校だった。
「いえ、二人くらい先輩が活動しておられたんですけど――あの時、入っとけばよかったなって、今凄く思います。人数とか才能とか受験勉強とか、言い訳にせずにやってみてれば良かったのかも。……そうすれば、ちゃんと諦められたのかも」
たしかに、そういう「憧れ」はどこにでも、誰にでもあるかもしれない。広瀬も野球というスポーツが好きだったが、自分の「好き」や才能は、甲子園に出てスカウトの心を掴み、プロ選手として野球で飯を食うほどのものではなかった。だがそう心から納得しているのは、一度「厳しい練習」と向き合う機会を与えられ、自身の実感をもって「それを選ばない選択」をしたからだ。そう思えば、あの部活を辞めて疎外感を味わった経験も悪いものではなかったのだろう。
掛ける言葉もなく、広瀬は「そっか」と呟いた。
丁度その時、個室のドアが叩かれた。「宮澤です」との声に由紀子が応える。そっと隙間を開けて顔だけ覗かせた宮澤が、手短に高宮夫妻への説明が終わったことを告げた。驚いて周囲を見渡せば、窓の外は既にとっぷりと暮れている。思ったよりも会話に夢中になっていたらしい。
由紀子にも両親の来訪を伝え、「大丈夫ですよ」と微笑んだ宮澤が広瀬を手招きする。親子三人に水を差すなという意味だろう。軽く頷いて広瀬は「じゃあ、また明日」と由紀子に手を振った。今夜退院となるのか、明日以降彼女がどうするのか、まだ何もはっきりしていないであろうが、連絡は入れるつもりだ。
個室を出て、宮澤と並んで静かな廊下を歩いていると、向こうから五十代ほどの夫婦が歩いてきた。昨晩も顔を合わせた高宮夫妻だ。広瀬らに気付いた二人が足を止め、深々と頭を下げる。広瀬も立ち止まって会釈を返し、彼らの様子をそっと観察した。
二人とも、顔には憔悴の色が濃く、夫人の小枝子はハンカチを握っている。どうにか喪服だけは着替えてきた、といった風情の少しまとまりのない服装が、更に彼らを小さく見せていた。
(宮澤が「大丈夫」って言ったんだから、大丈夫、だろうけど……)
由紀子を目の前に、泣き崩れて欲しくはない。そんな勝手な願望が頭をよぎる。余計なお節介だろうと思いつつ、どうしても我慢しきれず広瀬は「あのっ」と声を掛けた。向かい合う高宮夫妻よりも、隣の宮澤がぎょっと驚いた顔をする。
「――由紀子さんは、ずっとお二人のことを心配しておられました。悲しませてしまう、怖がらせてしまう、って。彼女自身の恐れや不安じゃなくて、お二人のことを」
だから、と何か続ける前に、小枝子が目元をハンカチで覆ってうなだれた。「ヤバい、やってしまったか」と焦る広瀬の隣から、宮澤が穏やかに続ける。
「ですから、行って安心させてあげてください。それが今、お二人にできる一番のことだと思います」
言って、道を譲るように宮澤が一歩端に寄る。広瀬も倣って反対側の端へ身を寄せた。涙と嗚咽を零す小枝子の肩をさすりながら、仁志が行こうと促す。通り過ぎる二人を軽い会釈で見送って、彼らが個室に入るのを見届けた。中の様子も気になるが、聞き耳を立てるのも品がない。身動きできず、思わず傍らの壁に寄りかかって深い溜息を吐いた広瀬に、小さく苦笑を零して宮澤が緩く拳を差し出してきた。
「ナイス駄目押し」
あれで良かっただろうか、という迷いを慰める言葉だった。
「サンキュー、そっちもナイスフォロー」
こつん、と小さく拳をぶつけ、体を起こす。
「車、市役所か?」
「ううん、もう今日は撤収だからコッチまで転がしてきてる。運んだげるよ、怜路も下で待ってるから、ファミレスで何か食べて帰らない?」
宮澤の提案に「いいな」と頷いて、広瀬は友人と共に病院を後にした。
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