28.3
美郷と怜路がわが家へと帰り着いたのは、午前三時台も半ば――ちょうど、当初辻の異界に突入するつもりだった、寅の刻に差し掛かった頃だった。その予定より早く決着が付いたとはいえ、前日の午前七時半に出勤のため家を後にしてから、実に二十時間ぶりのわが家だ。食事も事務所で残業中、午後八時頃に食べたっきりで流石に腹が減っている。帰りしな、コンビニに立ち寄って買った軽食のレジ袋をガサガサと揺らしながら、怜路が玄関の鍵を開けるの様子を美郷はボンヤリ眺めていた。
日の短い時季ゆえ、まだ未明の空には曙光の気配も見えない。流石に「今日」は午前休を貰っているし、少し空腹を宥めたら埃を流してさっさと寝床に入り、できるだけ睡眠を確保したいところだ。毎週毎週、月曜日からこの調子が続くのはいささかキツい。
「ったく、毎週月曜はロクな日じゃねーな。ノンキに休み取れる状況でもねえのによ」
同じことを思っていたらしい怜路のボヤキに、美郷は力ない笑いを返す。
「だよねえ、怨鬼相手に『暴れるなら休み前にしろ』とも言えないけどさ。なんかもう今週始まって三日くらい経った感覚だよ」
ちなみに、傷心のあまり怜路に巻き付いて震えていた白蛇は、合流した司箭から「口直し」として御龍山の神酒を舐めさせてもらい機嫌を直した。今は美郷の中で一足先に眠っている気配だ。
「休み直前過ぎンと休日出勤させられンだろが。水曜くらいに暴れてくれりゃいいのにな。……一日八時間労働のところを、二十時間近く労働させられてンだ。まあもう二日半ぶんくらい働いてることになっからなあ。あー休みてえ。家ン中グッチャだぜ」
喋りながら玄関土間の灯りを点け、二人して共用リビングに転がり込む。怜路の部屋が散らかっているのは、その忙しさに拘わらず「いつものこと」であるが、流石にそこを突っ込むほど美郷も野暮ではない。それに、二人揃って業務に振り回された都合、掃除洗濯方面の家事が疎かになっているのは事実だ。普段は主に美郷が手入れしている共用部分も多少荒れている。
「とりあえず、コレで怨鬼捕縛作戦はもう終わったことになるし、あとは……靖さんに頼んでる神楽関連かあ。あ、警察署に封じたままのゾンビは一回確認しとかないとね」
上着を脱いでファンヒーターを点けると、表示された室内気温は十三度だった。ローテーブルに据え置かれている電気ケトルに、怜路が蛇口の水をたっぷり汲んでスイッチを入れる。美郷は小さな蒸しパンが三つ入った袋を買ったのだが、怜路はカップ麺をレジ袋から取り出している。胃腸の頑健な男だ。
マグカップに緑茶のティーパックを放り込んで、湯が沸くまでの短い時間を手持ち無沙汰に過ごす。テレビもスマホも、画面を点ければ何かしら情報を流してくるだろうが、もう頭が働いていないので見る気にならない。――ただ、纏まらない思考の奥で、どうにも冷めやらぬ興奮だけが熾火のように疼いていた。
「それにしても、間に合って良かった……」
沸いた湯をマグカップに注ぎ、怜路のカップ麺が出来上がるまで待つ間の、僅かな時間。守山らの迎えに乗車してから、幾度となく呟いた言葉を口に乗せる。同じ呟きへの応答に飽きたらしい怜路が、向かいで軽く首を揺らした。三分間。ただファンヒーターの唸りだけが響く。
「――随分、気に掛けたモンだな。由紀子チャン、つーか、広瀬をか?」
間が持たなくなったのか、これまで「そうだな」程度の相槌を返してくれていた怜路が踏み込む。くあり、と言葉尻に生あくびが付いていた。
「ううん――確かに、高宮さんのことも広瀬のことも、上手く行けばいいと思ってたけど……なんだろうね、何よりおれ自身のために広瀬が、高宮さんを救うところが見たかったんだと思う」
ただ雑談を振っただけだった様子の怜路が、熾火のような熱の籠もる美郷の言葉に目を瞬かせる。その様子に僅かに苦笑をこぼし、美郷は手元に目を伏せた。
「誰かの、どうしようもない理不尽に見舞われた夜に――伸ばされた手が、届くところが見たかった。助けを求めた人が救われて、救おうとした人がその願いを叶える瞬間が。『あの夜』、おれの鳴らした携帯を取ってくれる人は居なくて、助けを求めて叫んだところで誰も応えられる人は近くに居なかったけど。そうじゃないことも、あるかもしれない……高宮さんと広瀬の手の中にあった『縁』を見た時、そう思えてさ。見たくなったんだ、どうしても」
少し面食らうような間を置いて、怜路が「なるほどな」と小さく呟く。続いて、まだ湯を入れて一分半ほどのはずなカップ麺の、蓋を剥ぐ音が耳に届いた。これは割といつものことで、怜路曰く「二分弱くらいが食べ頃」らしい。
「どーりで随分思い切ったワケだ。良かったな、見たかったモンが見れてよ」
言って、ぞぞ、と怜路がカップ麺を啜る。それを聞いて思い出したように、美郷も目の前の蒸しパンのパッケージを開けた。緑茶のティーパックもマグから引き揚げる。怜路のフラットな、正負のどちらにも振れない声音が心地よい。からかわれる心配も、気遣われる心配もないからこそ洩らせる本音だ。
「うん。まあ、焦りすぎてちょっと危なかった所もあったし、反省しなきゃいけないとは思うんだけどさ……結局、おれの自己満足な部分があったワケだから。でも何だろ、なんて言ったらいいのかな――なんか……なんか、さ」
ただ袋を開けただけで、蒸しパンを取り出しもしないまま美郷は言を継ぐ。この胸の中の塊を吐き出してしまわなければ、眠れない気がして仕方がない。
「今までずっと……いつの間にか、世の中そういうモンだって思ってた気がして。どれだけ親切にしてくれる人が居ても、家族があっても、『何か起きた時』は所詮独りなんだ、いつかまた死にかけた時はやっぱり自分の力だけでどうにかしないと、救けてくれる人なんて存在しない、世界はそんな風に出来てるんだ……って。――でも、本当はそうじゃないかもしれない……なんか、高宮さんが帰って来れたの見て、ようやく? なのかな、そう思ったんだ。ただおれは、あの時は、単にちょっと運が悪かっただけかも、って」
運が悪かった、と思うことが救いになるのも、自分で不思議な感触ではある。そう美郷は少し困ったような笑いをこぼした。
(でも今なら――なんだかすごく素直に、あの夜のおれに「可哀想だったね」って言える気がする)
――あの時は可哀想だったね、運が悪かったね。だけど、次はきっと大丈夫だから。
そんな風に明日を、世界を信じることが、ようやくできるような気がする。そう思いを巡らせると、どきどきと胸が高鳴って仕方がない。
結局全てを言葉にはできないまま、手を止めて黙り込んだ美郷を尻目に、怜路は勢いよくカップ麺を胃袋に流し込む。ほんのしばらく、ただその麺を啜る音だけが、室内に生き物の気配を醸した。スープの最後の一滴まで飲み干して、怜路がカップと割り箸を置く。ふう、と満足げな溜息の後――まるで、どんな感情を込めたら良いか迷ったような、なんとも複雑な声音で怜路は言った。
「……こないだも言っただろう。その時は必ず、一緒に居てやる。だから、迷わずに呼べ」
じゃあな、お先。言い捨てるように早口に続けて、美郷の返事も待たず怜路は立ち上がり、部屋を出て行く。しばらくの間――怜路の立てる物音が彼の自室から廊下、更には風呂場へと移り、その気配が消えるまでただボンヤリとその言葉を反芻し、美郷はようやく小さな呻きを洩らした。
なかなか――なかなか、とんでもない台詞を聞いた、否、言わせてしまった気がする。それを「良かったんだろうか」と戸惑う気持ちと同時にある可能性が浮かび、美郷はなんとも居たたまれなくテーブルに突っ伏した。押しやられた蒸しパンがガサガサ音を立てながらへしゃげ、すっかり温まったマグカップの緑茶が液面を揺らす。
『頼ることを恐れるな。いつか別れが来ることも、裏切られる日が来ることもひっくるめて、それでも『今』生きるために誰かの手を頼ることにビビるな』
昨年冬にそう言ってくれた怜路はあの時からずっと――それはもう本当にずっと、美郷が気付くのを待っていたかもしれないのだ。
――美郷の隣には、ずっと怜路が居たことに。
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