二十八.未明
28.1
『それが常識だろうと正しさだろうと、君を死に追い詰めるもの全てに怒っていい、抗っていい、見捨てたっていい。相手が何であろうと――』
――広瀬さん、なんて優しい人だろう。私の欲しい言葉を全部くれる……だけどもう、私にそんな言葉を受け取る資格なんてない。そうでしょう?
脳裏に響く囁きに、面へ触れようとしていた由紀子の左手は凍り付いた。
(そうだ、こんな浅ましい真似をした私に、優しさを受け取る資格なんてない)
常識に、正しさに、抗ってまで惜しむような価値など、そんな風に広瀬に心を砕いてもらう価値など、こんな出来損ないにあるワケがない。心臓から凍てついてしまうような寒々しい心地で、由紀子は左手をだらりと弛緩させた。「由紀子さん!?」と慌てた様子の声が足下から響く。
「ありがとう、ございます広瀬さん……。ごめんなさい、こんなご迷惑をお掛けして。いいんです、もう、いいんです。悪いのは、間違ってるのは私だから――この世界の『正解』を選べない私が、今から生きてたって苦しいだけだから……」
たとえ自殺という選択すら間違ったものであったとしても、「ちゃんと普通に」生きることを選べない由紀子に、生きる道などどうせありはしないのだから。諦めて、自分を燃やしてしまうのが一番なのだ。
足下に、蒼炎の気配を感じる。あとは右手の松明を、軒の下に投げ落とせば終わりだ。
――そう。だから全部、燃やし――ッ!!
じゃりん、じゃりん、じゃりん! と、鋭い金属音が由紀子の思考を――否、怨鬼の囁きを掻き消した。
オン カカカ ビサンマエイ ソワカ オン カカカ ビサンマエイ ソワカ
若い男の声が、聞き慣れぬ呪文を繰り返す。ガチャガチャと瓦を踏む複数の足音と共に、その声と金属音は由紀子の方へ近付いてきた。
「違いますよ、高宮さん」
別の声が由紀子に告げる。その声は凜と透き通って耳に届いた。
「おれたちは『何処かに在る正しさ』に従って生きる存在じゃない。『正解』は自分で決めるしかないんです。だから、貴女は貴女にとっての正しさを、自分で決めて自分で背負うべきだ」
どこか突き放すような言葉の主を振り返る。そこには白刃を片手にした、ひとつに括った長い髪を揺らす、美しい青年が立っていた。日頃は柔和で曖昧な笑みを刷いている口が、冷たく静かに言葉を紡ぐ。
「広瀬の言うとおり、貴女を取り巻く世界の『正解』が貴女を追い詰めるのなら、それは貴女にとっては正しくない。それに殺されることを選ぶのも、ひとつの選択ではありますが……それは、今日じゃなくてもいいはずだ。今日、貴女を追い詰める世界を捨てて、明日もしどこにも居場所がなかったなら、明日その決断をすればいいだけなんです」
人生を放棄する選択そのものの正誤ではなく、ただ明日でもよいと先送りすること。それは由紀子にとって、思ってもみない発想だった。覚悟していたどんな説得とも糾弾とも異なる論理が、がちがちに固まっていた由紀子の心の隙間にするりと入り込む。
「だから今、そんなクソッタレなものに殺されないでください。それくらいなら捨てればいい。逃げればいい。それは――甘えや逃避なんかじゃなくて、自分として生きるというある種の義務、正しさを自ら選んで背負うという、大人としての責任だと思います」
相変わらずオメーは厳しいなァ、と横合いから茶々が入る。錫杖はいまだ鳴らしながら、繰り返して呪文を途切れさせた怜路だった。二人は由紀子の真後ろにある鐘塔ではなく、少し離れた場所に突き出した屋根窓を使って校舎の上に出て来た様子だ。頭の中を覆っている昏い靄が少し晴れた心地で、由紀子は状況の把握を始めた。
十メートル弱程度の距離で由紀子と相対したまま、宮澤の唇が小さく動く。由紀子には聞き取れなかった短い言葉の直後、もう一度「由紀子さん!」と下から大きく呼ばれた。
「俺からもお願いだ! そんなクソッタレに殺されないでくれ!! 怨鬼にも、正解ってヤツにも、俺は君を奪われたくなんかない!!」
じんわりと、再び左手首に温もりを感じる。それに触れたい、と心から由紀子は思った。出来損ないでも、正解を選べなくても、独りぼっちにはならないのかもしれない。だが松明を握り締めた右手はすっかり強張って、動かす方法を忘れてしまったかのようだ。蒼炎を燃やすそれを、足下に置くことすらできそうにない。体中に何かが巻き付いて、由紀子を縛めているようだった。
事ここに至って、由紀子は己の状態を自覚した。由紀子は、鬼女面の怨鬼に憑かれ、その体を支配されているのだ。自覚した途端、己の意志だけでは指一本、爪先の向きひとつ自由にならないことに気付く。
由紀子の動揺を悟ったかのように、宮澤が「大丈夫」と穏やかに言った。
「広瀬と怨鬼や『正解』、どちらを選ぶかもう貴女はとっくに決めてるはずだ――だって、その左手で火を消したんだろ? 君の左手は、君の意志に従うよ」
言われて、痛覚を思い出す。左手の指先から手の平まで、いくつもの箇所にじくじくと火傷の痛みがあった。――一度は納屋に着けようとした火を、慌てて叩き消した時の火傷だった。ブレスレットが目に入って何をしているのか気付き、咄嗟に左手で火を消したのだ。そして、由紀子は全てから逃げ出した。
思い出した瞬間、右手の松明から蒼炎が消えた。足下を焦がしていた炎の気配も、一瞬で消え失せる。
由紀子は痛み火照る左手に力を込めた。全身にくまなく絡みついて由紀子を縛めている縄が、左腕だけ緩い気がする。腕を上げ、鬼女面に触れる。脳内に悍ましい絶叫が響いた。
――どうして!! どうして!! 私とお前は同じではないの!? 一緒に全部燃やすのではないの!?
これは、怨鬼の声だ。世界を憎み、己を怨み、何もかも壊すことを望んだ者の声だ。その憎悪と怨嗟の根底に、どうしようもない哀しみを抱えた者の声だ。ほんの一瞬、その哀しみの鱗片を由紀子も共有したのだ。
「由紀子さん!!」
由紀子の名を呼ぶ声が聞こえる。全部捨てて逃げても良いと言ってくれた声が。誰かを傷付け、何かを壊すくらいならば――自分を殺すよりも前に、逃げても良いと。
(逃げた先に何もなかったら……その時こそ、諦めればいい。ただ、それだけ。だから今は)
鬼女面の端を掴む。一体何の力で己の顔に張り付いているのかすら分からないそれを、力一杯引き剥がした。腕に、胴に、すさまじい抵抗と圧がかかる。遠く、由紀子を呼ぶ声や呪文、錫杖の音が聞こえる。
由紀子の顔に面を括り付けていた何かが引き千切られる感触と共に、ゆっくり視界が開けた。夜風が頬に当たる。引き剥がされる鬼女面が、由紀子の脳内一杯に濁った絶叫を響かせた。
どん、と風圧に弾かれて、由紀子は大きく体勢を崩した。鬼女面の放った圧だった。
ぐらりと体がよろけ、立て直そうと無意識に出した足が空を踏む。校舎の軒すれすれに立っていた由紀子の体は、宙へ投げ出されていた。
「えっ――」
襲い来る自由落下の浮遊感。全身を斬る夜の空気と、若い男性の叫び声。真っ白になった頭が、ようやく「落ちる」ということだけ理解した。猛スピードで移ろう視界の真ん中、見上げる空の星だけが、妙にはっきりと見える。星だ、と、ただそれだけ由紀子は思った。
「――由紀子さんッ!!」
必死の叫び声が聞こえる。ああ、これで幕切れなのだ。なんと呆気ないことだろう。そう諦めに似た感想を抱いた瞬間だった。
ぶわり、と下からの突風が由紀子の体を突き上げた。上下から圧がかかり、四肢が軋む。思わず由紀子は悲鳴を上げた。
一瞬の衝撃を経て落下速度が鈍ったのち、今度は横に煽られる。視界の端を、校舎から張り出した玄関の屋根が掠めた。
『ハーッハッハ!! 間に
上空から、風の唸りにも似た野太い声が笑う。それに何事か怜路が喚き返すこえが聞こえた。そして――
「由紀子さん、よかった、由紀子さん……!」
間近で聞こえた広瀬の声と共に、由紀子の体は温かい腕に抱き留められた。
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