27.3

 説得よりも対話を。最悪、時間稼ぎさえできれば校舎へ向かった二人が由紀子を止めてくれるだろう。どれだけこの場では己が「一番特別」だと言われたところで、広瀬の中から出てくるモノが、突然変わったりはしないのだ。ならば今まで通りに、しかない。

(自分のことを喋って、高宮さんの言葉を聞いて、また俺の思ってることを伝えて……たぶん、それだけだ)

 ならばと、広瀬は由紀子に伝えたいことから――謝罪から、口に乗せる。

「あのさ、俺、由紀子さんが辛いことあって悩んでるのに、全然気付けなくてゴメン。無神経なこと言ってたなら、ホントに」

 見上げる小柄なシルエットは、その華奢さと不釣り合いに大きな鬼女面も、裾を引き摺り左の袖口が煤けた振袖も、靴を履いた様子のない足下、乱れたセミロングの髪も全てが痛々しい。右手に掲げられた、瓦礫の木片と思しき棒きれの意味を広瀬が把握することは叶わないが、彼女が何かしらの悲愴な決意を持ってそこに立っていることは分かる。

「悩んでることがあるなら、力になりたいんだ。由紀子さんに、辛い思いをしてほしくない。きっと手伝えることはあると思うから、事情を――その、由紀子さんが感じてる『辛いこと』を教えて欲しい」

 重たそうな鬼女面を下に傾け、右手の棒きれを掲げたままの由紀子は動かない。鬼女面越しに、きっとくぐもるであろう彼女の声を聞き逃さないよう広瀬は耳を澄ませた。

 随分と長く思えた沈黙の後、そろりと小さく、気力の萎えた様子の声が答えた。

「ちがう、んです」

「違う、っていうのは?」

「わたし、あるのは……だけで……。『辛い』のなんて、ほんとうは、全然……でも、わたしがだめだから……出来損ないだから、できない、んです。つらい、わけない、のに……んだから」

 その頼りない声音を、もう心底クタクタになってしまった者から零れ落ちる言葉を受け止め、広瀬は「ああ」と天を仰ぎたくなった。その感覚を知っている。広瀬と由紀子の間に、確かに在った「共感」はそこから始まっていたのだ。

 ――自分たちの、について。

「だから、わたしがなだけだから、わたしが消えるしかないんです」

 そうじゃない。そんなことはない。強く叫んで否定をぶつけるのは簡単だが、そんな安易な方法で想いが届くとも思えなかった。広瀬は深く呼吸を整え、気持ちと鼓動を落ち着ける。確かに自分たちの間には、怜路や宮澤では恐らく持ち得ない「繋がり」があるのだ。広瀬からならば、きっと由紀子へと届けられる言葉が。

「由紀子さん、俺の話になっちゃうんだけど聞いてくれ。俺もさ、ホントについさっき、似たようなコト思ったんだ。『ホントに辛いのは俺じゃないのに、俺がしんどがったら駄目だ』とか、『ノンキにを生きてる俺ごときの辛さなんて、ものの数じゃないはずなのに』とかってさ」

 自分にはそれを、否定してくれる友人がいた。宮澤の言葉は彼自身の経験と、それを自分で乗り越えてきた本人だからこその重みを持って広瀬に響いた。広瀬が伝聞としてそれを由紀子に伝えたところで、同じようには響かないだろう。だが、代わりにだってある。

「でも、違うんだ。違うんだよ、由紀子さん。俺たちだって、どんだけ普通だって、恵まれてたって、何を持ってたって抱えてなくたって、し、んだ。それは、俺は俺自身でしか認めてやれないし、由紀子さんは由紀子さん自身で認めていいんだ。――でも俺も、他の奴にそう言ってもらえたから、そう思えた」

 他人より恵まれているからと言って、全てを自分ひとりだけで耐えねばならない道理だってないのだ。広瀬は無意識に、右手で左手首に巻かれたブレスレットを握る。その手の平の熱が、ブレスレットを介して彼女の元まで届くことを願うように。

「俺は由紀子さんの事情を全部知ってるわけでも、理解できてるわけでもないと思う。でも、今ここで君を見てて、断言できることだってある。――。俺は君に、そんな辛い思いをして欲しくない。他人に比べてどうかなんて関係ない。俺は由紀子さんが、から逃れられるよう手助けしたい」

 広瀬の言葉が届いているか否か、はっきり分かるほどのリアクションは見えない。目線も表情も、巨大な鬼女面が覆い隠してしまっている。だが、彼女が動きを見せないことはすなわち、校舎の屋根まで登って実行しかけていた「何か」も、決行せずにいるということだ。己の言葉がそれを留めていると信じたい。

(怨鬼に体を支配されてる可能性もあるって言ってたな。彼女が「動かない」のは悪いことじゃないはずだ……!)

 そう内心で己を励まし、広瀬はブレスレットの巻かれた左手を、由紀子へ差し出すように空へ掲げた。

「だから由紀子さん、顔を見せてよ。君の言葉で教えてくれ。何か辛いことがあるなら、逃れたいことがあるなら、俺は逃げちゃっても捨てちゃってもいいと思う。何か辛いことを我慢して、我慢しきれない自分を駄目だって責めるよりも――由紀子さんが心から楽しいとか、幸せだって思う方を選ぶなら、それは『悪いこと』なんかじゃないはずだ。君が消えるしかないなんて、そんなこと、絶対にない」

 その断言が、無責任だとは思わない。なぜなら広瀬自身、そう言われて励まされた覚えがあるからだ。そして、を乗り越えてきた友人の姿も知っている。

 広瀬に応じるように、少しだけ由紀子の左手が動く。前へ掲げられた右手は降ろさぬままの、少し不自然でぎこちない動きだった。彼女自身、何かに――怨鬼の支配に抗っているのかもしれない。由紀子を励まそうと、広瀬は更に二、三歩前へ出た。

「そんな奴に支配されちゃ駄目だ、由紀子さん。そいつだけじゃない、君は、君を不幸にするもの全てに抗っていいんだ。に怒っていい、抗っていい、見捨てたっていい。相手が何であろうと俺は、君の味方をする。だから――お願いだ、その面を捨ててくれ」

 広瀬は決意と共に懇願する。薄暗い中、遠目ではよく見えないが、かすかに由紀子の肩が震えている気がした。

 少しでも鮮明に見ようと広瀬が両目を細める中、もう少しだけ、由紀子の左手が持ち上がった。

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