27.2
怜路、宮澤の後に続いて辻の異界を出た広瀬の前には、夜闇に沈む木造校舎が、外灯の仄かな明かりに板張りの外壁を照らされて建っていた。広瀬らの出た場所は校舎の横合い、前庭の端と思しき木陰である。傍らに立つ看板は、ここが米原家の属す地区のコミュニティセンターであると示していた。
意外と近い場所に出たな、というのが最初の感想だった。恐らく、米原家からは車で十分程度の場所だ。校舎の傍らで光る屋外時計を見ると、異界の中を移動した体感時間に比べて随分針が進んでいない。中を移動した時間はゆうに二、三十分あった気がしたが、まだ午前一時半にもなっていない――つまり、十分も経過していなかった。
(これが『時間の流れ方が違う』ってヤツか……)
あれだけ異様な光景を目にした後で今更とは思いつつ、背筋が薄ら寒くなる。前の二人はこの程度慣れたものらしく、特に感慨もなさそうだ。
「守山サンに連絡しとくぞ。ここなら護法よりスマホの方が早ェな」
「高宮さんは――中、だろうね。玄関が開いてる……」
言った宮澤が玄関に視線を向けたまま、右手の日本刀を小さく持ち替えた。抜き身の白刃が仄かな光を反射し閃く。
二階建ての木造校舎中央に張り出した玄関の、観音開きの扉が片方開いていた。光源は電灯入りの屋外時計と疎らな外灯のみ、暗さに慣れた目ならば辛うじて互いの表情が確認できる程度の薄闇の中、宮澤と怜路が一瞬無言で視線を交わした。ふう、と軽く溜息を吐いて、怜路が左手で頭を掻く。
「入るしかねえだろう」
渋々といった様子の言葉だ。今のところ幸いにして武器の出番はないが、刀を扱うような場面ともなれば広瀬は邪魔かもしれない。だが、外で待機していたのでは由紀子と接触するのも難しいだろう。
「――現時点では、ただの幻影みたいだからね。でも火除けのまじないくらいは全員しておく方がいいかもしれない」
難しい顔で答えた宮澤に「火除け?」と問いかけようとした広瀬は、ふと視界の上端に動く物の気配を感じ、校舎の屋根を見上げた。
「――ッ! あれ、高宮さんじゃないか?」
少し抑え気味の声と共に玄関真上の屋根を指差せば、勢いよくその方向を見上げた二人がおのおの是と返す。広瀬の視線の先では、大きく白い鬼の面を被り、赤い着物を羽織った人影が、校舎中央に突き出た塔のような場所の窓から這い出て来ている。
「違ェねえ。美郷、広瀬頼んだ。俺は先に行って屋根まで登るルートを探す。広瀬、携帯をマナーにしろ、守山サンに連絡入れたら電話する。こっから二手に分かれることになっから、通話はその間繋ぎっぱだ」
チャキチャキと指示を出し始めた怜路に、広瀬は思わず宮澤の表情を窺った。視線の合った宮澤が無言で軽く頷いたので、怜路の指示通り着信音をマナーモードに切り替える。手早く守山へのメッセージを打ちながら、怜路が「お前ら先に行け」と玄関の方を指差した。宮澤に「行こう」と小さく促され、屋根を見上げたまま広瀬は校舎の正面へ進み出る。
「広瀬。おれと怜路は校舎に入って、どうにかあの屋根の上に登る方法を探すことになる。鬼女面を捕えるための捕縛具が、ここからじゃ届かないからね。その間、広瀬は下から高宮さんを説得してほしい。――理想は、高宮さん自身が怨鬼を拒絶できるところまで持っていくこと。だけど掛ける言葉は難しいと思う。生半可な『お説教』が通じる場面じゃない……」
そうだよな、と広瀬も頷いた。己に「理解してあげられる」ことなど何もないような心持ちだ。それどころか、広瀬の半端な共感もまた由紀子を追い詰めていたのかもしれない。そう思えば恐ろしかった。
「だけど忘れないで、今、高宮さんに一番『近い』のは広瀬だ。広瀬自身の言葉を、望みを届けてあげて欲しい。広瀬と高宮さんがお互いのブレスレットを交換した時、そんなに特別な意味はなかったかもしれないけど――でも今、彼女が自分の意志でそれを身に着けてることには相応の意味があると思うよ、きっと。少なくとも彼女にとって、お前は敵じゃない」
それから、と宮澤はゆるゆる歩きながら言を継いだ。
「お前が彼女を助けたいと思う限り、怯む必要も躊躇う必要もない。嫌われたって、後で――鬼女面を剥がした後で、一発貰うか罵られればいいだけだ。おれから言えるのは、そのくらいかな」
その言葉はあまりにも「宮澤美郷としての模範解答」で、少しだけ広瀬の緊張も緩む。そうやって宮澤は、怜路を狗神から取り戻したのだ。ちょうどその怜路からの着信で、広瀬のスマホが振動し始める。画面に表示された通話ボタンをスライドし、広瀬はそのまま上着の懐に突っ込んだ。
(望むなら、手を伸ばすことを躊躇うな、諦めるな……か)
「分かった。頑張ってくる」
「うん、任せた。――それじゃ、おれは怜路を追い掛けるよ。頑張って」
言って宮澤が進む方向を変え、小走りに校舎の方へ走って行く。その背中をちらりと確かめ、広瀬も大きく息を吸って前庭の真ん中へ――由紀子の正面へ飛び出した。
「――高宮さん!!」
その視界に入るよう、大きく両腕を振って呼ばわる。だが、遠くを見遣るように顎を上げた大きな鬼女面は、全く角度を変えてくれない。
「高宮さん! そこから動かないで!! 必ず、必ず助けるから……!!」
重ねて呼び掛けるが、反応はない。
(声が聞こえない距離じゃあない……やっぱり支配されてるのか……。どうすれば――)
広瀬の声ならば届くかもしれない。広瀬で届かなければ余人の声はなお難しいと言われた。それなのに、届かない。焦る心をできる限り落ち着けて、広瀬は思考を巡らせる。
(どうすれば……何か、キーワードがあるとかか? 俺にしか言えないような――そんなもん、あるとは思えないぞ)
由紀子と交わした、今までのやりとりを思い返す。就職のこと、友人のこと、ほんの少しだけ家族のことも。あるいは、高校時代の思い出なども話したであろうか。
「高宮さん! 高宮さん!! ――何か答えてくれ」
必死で記憶を掘り返しながら、由紀子を呼び続ける。
(一週間チョイだぞ、喋った回数だって知れてる……ゆっくり話したのは確か――)
丁度一週間前、月曜日の夕方に初めて二人きりで会話したのであったか。場所は市立高校の図書室だった。
――高宮さんも『あの高宮先生の』とか言われたんだろ。
ふと、そんな軽口を叩いた時の、由紀子の表情を思い出した。初めて誰かに理解されたかのような、心底安堵したような笑顔だった。
(そうか、学校でも職場でも大抵『姓』で呼ばれるけど……俺たち個人を示すのは姓じゃない)
あの広瀬さんの、あの高宮先生の。そんな風に呼ばれることには、誇らしさもあれば窮屈さもある。怜路は自身の戸籍上の姓に慣れていないと言っていた。宮澤は「宮澤」と「鳴神」の、二つの姓で呼ばれることがあるらしい。だが彼を指し示すその名は「美郷」だ。「特別な事情」を抱えていない自分たちも、それは同じのはずだった。
「――由紀子さん!!」
広瀬は彼女の名を呼んだ。一拍の間を置いて、のろりと鬼女面の角度が変わる。由紀子が、広瀬の方を見下ろしていた。思わず数歩、広瀬は校舎へ駆け寄る。
「俺の声、聞こえてるよね」
努めて穏やかに、けれど校舎二階の屋根まで届くように、広瀬は声を張る。
「大丈夫、動かなくて大丈夫だから、そのまま助けを待って! 俺の話、ちょっとだけ付き合っててよ――」
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