二十七.辛さ
27.1
燃やしてしまおう。
そう心に決めて突っ切った辻の先は、唐突に終わっていた。
道が途切れ、真正面には蒼い炎の巻きつく瓦礫がある。具合良く、持ち運べそうな木切れが由紀子の方へ突き出しており、その端を掴んで引っ張ると、蒼炎を松明のように掲げることができた。
この炎で燃やすのだ。そう歩を進めれば、唐突に視界が変わる。先程までの焦土は消え失せ、目の前には由紀子の卒業した小学校――現在は廃校となり、地域のコミュニティセンターとして使われている木造校舎があった。
(小さな、ちっぽけな私の世界。出来損ないで、何ひとつ思い通りにできない、取るに足らない私……。燃やしてしまおう。壊してしまおう。終わりに、しよう)
――八雲立ち 出雲八重垣 曇り籠め 雨ぞ降らまし ただ怨む身に
櫛名田姫が怨み呪ったものも、由紀子が燃やしてしまいたいものも、きっと同じだ。同じ、「私」を憎んで鬼女になったのだ。無力で、出来損ないで、何ひとつ思い通りにできない己を怒り、怨んで。
(だけど……だけど、せめて跡くらい残させて)
振袖の裾を引き摺って歩き、蒼い炎で校舎のほうぼうに火を付ける。じわりと燃え移った炎は藍色に揺れて校舎に舞いつくが、木造校舎の外壁が焦げて煙を上げる様子は見えない。由紀子にはぼんやりと確信があった。これは、全ての準備を済ませて由紀子が望めば、たちまち現実の炎となって校舎を燃やすのだ。
ぐるりと一周、火を付け終えた由紀子は、正面玄関から校舎の中に入る。施錠は手にした蒼い炎で簡単に壊せた。丁寧に磨かれた木の床を前に靴を脱ごうとして、そもそも履いていないことを思い出す。もう足の痛みもあまり感じない。それだけでなく、見る物、聞く音、肌感覚も全てがどこか遠い。
木造二階建ての校舎はそこまで古い歴史のあるものではなく、平成期に「地元の木材で作った、温もりある学び舎を」と新築されたものだ。しかし由紀子が進学して地元を離れている間に、学校の統廃合で廃校となった。
ここは、由紀子が友と同じ夢に憧れ、語らった場所。由紀子が帰属する「地元」、そして由紀子が「辛さを認めて欲しい」と望む「世界」の象徴だ。
(過去の言葉を悔いて欲しいとか、省みて欲しいとまで望まないから……。どうか世界が、価値観が、踏み潰したモノが在ったことを知って欲しい)
由紀子が燃え尽きて消えても、せめてその焦げ跡くらいはこの世界に残したい。辛い思いをした者の在ることを認めて欲しい。
のろのろと階段を上る。目指すのは校舎中央に据えられた塔屋――二階建ての屋根から突き出した鐘塔だ。中には鐘ではなく校内放送のスピーカーが設置されている。小学生の頃、放送部だった由紀子は部活の一環で入ったことがあった。
二階から鐘塔への登り口は一、二階を繋ぐ広々とした階段とは異なり、天井のハッチを開けて引き出す梯子だ。ハッチを開けるための開閉棒も、昔と変わらぬ場所に置かれていた。引き出した梯子で小さな鐘塔に上がり、天井が低いため膝立ちで、正面に設えられた観音開きのアーチ窓に近寄る。窓を閉じている閂に蒼い松明を近づければ、閂に掛かった錠前がぼろりと朽ちて床に落ちた。
閂を抜いて窓を開け、身を捩って狭い窓から校舎の屋根に降り立つ。ぼんやり蒼白く光る足下が、瓦屋根のすぐ下まで、蒼い炎が木造校舎の壁を這い上って来ていることを知らせる。
由紀子は顔を上げた。鬼女面に開いた二つの小さな穴の向こう、二階建て校舎の屋根からは、真夜中の緑里町集落に道路照明や防犯灯ばかり白く光るのが見えた。狭い視界に自宅の方角を収めて、目を閉じる。
(こんな真夜中、誰も気付かないかも……でも、それでいいのかもしれない。朝になったら全部焼け落ちてて、私の骨が転がってるだけ。ごめんなさい。弱くて出来損ないの身勝手な娘でごめんなさい。与えてくれたものに応えられなくてごめんなさい。こんな、醜い真似をしてごめんなさい…………でも、でもどうか。せめて跡くらいは残させて」
由紀子の死程度では、この世界の疵にすらきっとならないけれど。慈しんでくれた人々を悲しませるのも分かっているけれど。由紀子はもう限界で、許されるためには死より他になくて、由紀子が死ねば誰にも知られぬまま消える「苦しみ」が、それでも在ったことをこの世にどうしても残したいのだ。
右手に持っていた、蒼炎を燃やす木切れを前へ掲げる。手を放し、落ちた炎が校舎の屋根に触れた瞬間、着けて回った火が現世に立ち現れるイメージを脳裏に描いた。
(手を放すだけ。それで、全部終わる――)
苦しさも、悲しさも、何もかも。全て炎に包まれて終わる。
「――高宮さん!!」
下から誰かに呼ばれた気がして、由紀子はハッと目を見開いた。そんなはずはない、空耳だと自嘲する。そんな都合の良い存在など、居るわけがないのだ。それを思い出して目を伏せた。
(広瀬さんの声みたいに聞こえた……ふふ、この期に及んで浅ましいな)
きっと由紀子の願望がもたらした幻聴だ。ほんの僅かの間、少しだけ親しくお喋りしてくれただけの高校の先輩が、こんな所に来るはずがない。由紀子にとっては、学生時代に遠く壇上に見上げた相手だ。思わぬ縁で再会し親切にしてもらいはしたが、相手にとっての由紀子がそんなにも「特別」なはずはない。
「高宮さん! そこから動かないで!! 必ず、必ず助けるから……!!」
今更の未練などさっさと断ち切れ、と頭の中の声が囁く。確かに今更だ。己がそんなにも広瀬に何か期待していたとは思わなかった。今の今まで、彼の存在すら頭から消えていたというのに。
(なんで、今更――)
「高宮さん! 高宮さん!! ――何か答えてくれ、由紀子さん!!」
不意に、左手首に熱を感じた。いつの間にか遠のいていた体の感覚が、一気に引き戻される。まるで薄皮一枚隔てたように遠かった世界がリアルになり、足の裏の痛み、頬に当たる深夜の冷えた空気、狭い視界に重たい頭、ささくれる木切れを握った手のひらの刺すような不快感も、突然由紀子になだれ込んできた。
「えっ……?」
まさか、本当に。思わず由紀子は足下へ、屋根の下の校庭へ視線を落とす。深夜も点る防犯灯に照らされて、確かにそこに人影があった。由紀子の視線が動いたことに気付いてか、その人影が数歩校舎へ駆け寄る。
――あんなの、まやかしだ。早くその松明を校舎に落とそう。燃やして、全部終わらせよう。
由紀子と同じ声をした誰かが頭の中で急かす。
「俺の声聞こえてるよね。大丈夫、動かなくて大丈夫だから、そのまま助けを待って! 俺の話、ちょっとだけ付き合っててよ――」
頭の中の声を打ち消すように、少し和らいだ声音で広瀬が喋る。由紀子はそれ以上の身動きが取れないまま、ただ黙って広瀬の姿を見下ろした。
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