13.2
今度こそ体を洗い、まずは露天風呂へと出てみた。時刻は午後三時を少し回ったところ、日はだいぶ傾いているが、見上げる空は澄んだ青だ。丸いシルエットの岩を配された浴槽のへりには厚く湯の花が積もり、周囲の植木は夏の日差しに疲れた様子の葉を風にそよがせている。湯気を湛える水面には僅かに木漏れ日が揺れ、湯口から落ちる湯が同心円の波紋を立て続けていた。
この施設は、山の上の別天地である。建つのは緑里町中心地の傍らにある、ほんの小さな山ではあるが、麓も静かな農村だ。貸し切り状態の露天風呂も喧噪とは無縁だった。施設の機器が奏でる重低音と湯の流れ落ちる高い音、スピーカーから控えめに流れるリラックス音楽、あとは小鳥の囀りや葉擦れの音ばかりが空間を満たしている。到底「静寂」とは言いがたいが、神経を刺激する音のない穏やかな場所だった。
「はー……。気持ちいいな~」
内湯より少し熱めの風呂に身を沈め、美郷はしみじみと吐息を漏らした。隣で首まで湯に浸かった怜路が、それを聞いて「ジジイだな」と笑う。
大浴場自体が数年ぶり、前回入った時はまだ、身体に何の不調も抱えていない十代の頃である。当時は温泉のありがたみもさして分らなかったので、今まで入れぬことを不便に思っても来なかったが、こうして心身共に疲労困憊している時に入ると、有り難さが身に沁みた。
体を芯から温める湯と、顔を撫でるひんやりとした風がなんとも心地よい。
結局、昨日は晩もさして食欲が湧かず、ゼリー飲料を飲んで早々に布団を被った。今朝は流石に空腹を感じ――さりとて、冷蔵庫の中身に消化の良さそうなものが何かあったかと、布団の中で思案していたところ、枕元のスマホが怜路からのメッセージを通知した。曰く、雑炊を作ったから食べられそうならば出てこい、と。
無論、ありがたく頂きに母屋へと参上したのだが、大家の甲斐甲斐しさと昨晩晒した醜態を思い返すにつけ、非常に尻のこそばゆい思いがする。しかし実際、先週末の美郷は巴で抱えていた仕事の片付けを最優先にしたこともあり、体調が思わしくない中で自炊をするには、あまりにも部屋にある食材が乏しかった。体調面でも環境面でも、怜路が見せる懐の深い配慮に甘え切る以外になかったのだ。
(絶妙に、当たり障りのない場所狙って混ぜっ返して来るのも、多分こいつ流の気の利かせ方なんだよな……)
軽口は叩くが、美郷が踏み込まれたくない場所は器用に避けて通る。隣で調子っ外れの鼻歌を歌いだしたチンピラなナリの大家は、真の意味で「コミュ力」というやつが高いのだ。相も変わらず、何から何まで敵わない。
「どした?」
ボンヤリと物思いに耽っていた美郷の視線に気付き、怜路が器用に片眉を上げる。トレードマークのサングラスもシルバーピアスも取り払われたその顔は、若々しい精悍さと愛嬌を持ち合わせた、文句のつけようがない美男だ。いつもはワックスで逆立ててある髪も、先ほど洗っていたため落ち着いている。水面に反射した陽光が、丁寧に根元まで染められた金髪と、緑銀の眼を鮮やかに照らしていた。
普段、ファッションがもたらす印象が強すぎて見逃されがちだが、男性的に整った顔の造作や無駄なく鍛え上げられた体躯は、十人並の出で立ちであっても人目を集める、見映えのするものだ。
「や――……。なんか、随分なイイ男を、おれが占有してるなーと」
あっはは、と、軽やかな笑い声が言葉に続いて口から転び出る。照れくささと嬉しさが半々の、胸の奥が浮き立つような心地だった。
(一緒に、なんて口約束で構わない。本当に連れて行くなんて、流石に許されないでしょう)
美郷の意気地のない言葉を否定せず、「共に」と言って寄り添ってくれた。それだけで十分だ。弱音を受け止めて貰えただけで、湧いてくる気力というものはある。
何言ってんだお前、と、怜路が呆れた様子で顔を歪めた。
「おだてても、家賃はこれ以上負けねーぞ」
「わかってるよ。……ありがとう、昨日も、おとといも」
窮地を救ってもらったことと、看病してもらったこと、両方への感謝を込めて言葉を紡ぐ。居心地悪そうに視線を逸らした怜路が、明後日の方向に「おう」と返事した。こういった辺りだけ、やたらと照れ屋でスマートさとは無縁らしい。話題の深追いはせず、美郷は雲ひとつない空を見上げる。
「あーあ、平日かあ。係長も広瀬も仕事中だろうなあ……なんか、罪悪感というか背徳感が凄いや」
嘆いた美郷に、上体を起こした怜路が鼻を鳴らす。そのまま一旦腰を浮かせて、浴槽縁の石段に腰掛けた。流石に茹だってきたらしい。ざばり、ちゃぷり、と湯を掻き分ける音が響く。
「療養だろーが、それも労災案件の」
「いやまあ、労災とまでは……結局、おれと白太さんが衝突しただけで、鬼の攻撃で云々じゃなかったんだし……」
白蛇を無理に御そうとして、自滅しただけだ。自己管理が未熟なだけである。我ながら、進歩がない。そう視線を落として自嘲する美郷を、怜路が物言いたげに見遣る。なにか言いかけて、諦めたように怜路も天を仰いだ。
「まあ、布団被って丸まってるだけが療養じゃねーってこった」
空に向かってそう語り、怜路がもう一度首まで湯に浸かる。数秒、そのまま沈黙したかと思うと、勢いよく立ち上がった。
「俺ァ一旦休憩。お前ものぼせんなよ」
「はーい。上がっちゃうわけじゃないの?」
「おう、白太さんの様子見に、二階上がっとく。長椅子もあったしな」
その言葉に「分かった」と返して頷き、怜路が露天風呂入り口の戸を引く音を聞きながら、美郷も半身浴に切り替えた。
風呂の後は村内で食事を摂って、司箭と彼の眷属から、怨鬼の出自やクシナダ姫の面に憑いた経緯などを教えてもらう予定だった。なんでも、湯治村の奥にある神楽専用劇場「かむくら座」を拝借して、神楽形式で上演してくれるらしい。「なにもそこまでしなくとも」と止めたいのは山々であったが、相手は
『折角、
などと楽しそうに言われれば、止められるはずもなかった。
「ふぅ……そろそろ上がるか。あーそれにしても、頭痒い!」
だいぶ蒸れてしまった。怜路の前で言えば、またぞろ「だからシャワーキャップは無ェって」などと言われるのだろうか。次の機会を見据えて、ヘアクリップを買っておこう。白蛇は、トイレで鞄に詰めて、脱衣場に留守番でもさせておけばよいだろう。
などととりとめもなく考えながら、美郷が岩の上に置いていたタオルを掴んで立ち上がった時だった。荒い音を立てて、勢いよく露天風呂入り口の引き戸が開く。
「美郷ッ……! 白太さんが……!!」
引き戸を掴んで半身を覗かせ、慌てた声で言ったのは無論怜路だ。その声音に驚いて、美郷も急いで湯を出る。
「どうしたの!?」
白蛇と同調するはずの美郷の身体に、今のところ異変はない。だが、怜路のただならぬ様子に美郷は眉を曇らせた。怜路は美郷の問いに答えず、「来い!」と引き返してしまう。肝を冷やしたまま、美郷は怜路の後を追って浴室に入り、階段を駆け上がった。
そして、白蛇がいるはずの水風呂が、目指す先に映る。
一足先に二階へ到着した怜路が、強張った顔つきで水風呂を見下ろしていた。追い付いた美郷も、その隣に並びながら浴槽へ視線を投げた。
“みっしり”
その擬態語が、まず脳内に浮かんだ。美郷は目元をひきつらせる。
小ぶりな浴槽には、何か白いものが正にみっしりと詰まっている。白いもの――要するに、白蛇の胴体だ。鼻先だけ水面から出して、白い大蛇が浴槽に隙間なく詰まっていた。
「――ちょっ!!」
――美郷!
悲鳴のように裏返った声に、ご機嫌な白蛇がいらえを返した。
「ふやけたどころの話じゃねーぞコレ。大丈夫か、戻ンの?」
呆れとも戸惑いともつかぬ色を含んだ低い声で、怜路が問う。
――おんせん、終わり?
よほど冷泉の中の居心地が良かったのだろう。名残惜しそうな声音で問いながら、のろのろと白蛇の巨大な頭が水面から出てくる。
「どうかな……温泉の霊力を、思いっきり取り込んだっぽいけど」
脱力して、がっくりと肩を落としながら美郷は怜路の問いに答えた。
「とりあえず滅茶苦茶回復したみたいだから、ダメそうなら露天風呂から外に出して、山の中に待機してもらうよ」
山の斜面にポイする気か、と呆れる怜路におざなりに頷き、美郷は水風呂から這い出して来た大蛇の頭をぺしりと軽く叩く。
「温泉終わりだ。上がろう、白太さん」
残念そうな返事と共にしゅるりと縮んだ白蛇に、美郷は心底安堵の息を吐いた。
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