13.3

 夕飯は、この施設の名物らしい激辛うどんに二人で挑戦した。「鬼より辛い」のキャッチフレーズは少々恐ろしかったが、昨日おとといですっかり停滞していた身体の気の巡りを大いに刺激し、温泉とともに美郷の体を芯から温めてくれた。ところが、思いのほか怜路のほうがダメージを受けたらしい。食後、「まだ口の中がヒリヒリする」と嘆きながら、店の軒先にある自販機で無炭酸の果物ジュースを買っていた。

 既に日の暮れた、藍色の宵闇を軒の提灯が朱く照らすノスタルジックな通りを並んで歩く。奥に進むにつれて人の気配は減り、明かりを落とした建物も増えてうら寂しさが増した。湯治村は、古い町並みを模した細長い敷地の手前に温泉、中ほどに宿や飲食店と売店、奥に神楽関連の施設が配置されている。奥側の施設は、既に閉館時間を過ぎているのだ。

 美郷と怜路の本日一番の目的地は、最奥にある、日本唯一の神楽専用ドーム……ではなく、その手前の、神楽資料館と併設された寄席型の劇場である。劇場の名は「かむくら座」。神楽の歴史や衣装、演目などが紹介されている資料館と同じ建物にあり、週末の夜には神楽団による夜神楽の上演もある。

 ただし、こちらの建物も既に閉館している。ガラス張りの自動ドア越しに見える内部は暗く、「閉館中」の立て看板がドアの前を塞いでいた。

「……いや、ほんと、これは始末書案件では……」

 げんなりと呟きながら、美郷はその立て看板の横をすり抜ける。本来電源を切られているはずの自動ドアは、当たり前の顔をして開いた。先を行く怜路は、美郷の言葉に軽く肩を揺らしただけだ。

 手前にある、薄暗い非常灯に照らされた資料館やグッズショップの間を抜けた。いくつも並んだ観音開きの扉のひとつに怜路が手を掛ける。

 怜路が扉を押し開く。すると、途端に賑やかな神楽囃子の笛と太鼓、手打ち金の音が響き渡った。明らかに録音と分かる、すこし籠もった音だ。神楽――中でもスピーディーで娯楽性が高く、人気のある新舞しんまいの、それもクライマックスと分かる白熱した演奏だ。

 照明を落とされた劇場の中。目に飛び込んできたのは、舞台上のスクリーンに映し出された絢爛な舞だった。大きな鬼女の面を被った者が一人と、烏帽子姿の武者が二人。互いに武器を振りかざしながら軽快に、くるくると回る。鬼の振り乱された長い黒髪、金糸銀糸をふんだんに使って、豪華な刺繍を施した衣装の袖や裾、照明を反射する武者たちの刀。全てが、激しい囃子に合わせて華やかに舞っている。

 劇場の前側は畳敷の桟敷席、後ろ側は椅子席となっている。桟敷席最前列の、更に中央――舞台の真正面に、胡座をかく大きな人影があった。

 人影のシルエットは、頑健な男性のものだ。そして、一見して洋服姿ではないと分かる。烏天狗の面に頭襟ときん鈴掛すずかけ結袈裟ゆいげさ姿という山伏装束の大男――宍倉司箭であった。

「おう、来たか。早かったではないか」

 烏天狗の面が振り返る。

「なーに勝手に鑑賞会してやがんでェ。利用料払え、利用料」

 それに呆れた声音で怜路が答えた。

「無論だ。手前に居った福助の賽銭箱に払って来たわい」

「ホントかよ、ドングリ払いじゃねーだろうな」

 軽快なやり取りと共に、怜路が司箭と同じ枡の中に上がり込む。元より天狗の無茶振りに慣れている様子の怜路に続いて、美郷もおずおずと靴を脱いだ。今回、怜路は「天狗に社会常識を求めるだけ無駄だ」と美郷の戸惑いにはにべもない言葉を返しながら、司箭にはこうして隙きあらば軽い嫌味を言っている。

「狸でもあるまいに、そんな貧乏臭い真似などせぬわ。まあ、うぬらも付き合え、もうすぐ終演だ」

 言われて向けた視線の先では、いよいよ鬼が斬り伏せられて地へと倒れ伏す。「新舞」と呼ばれる、戦後に創作された新作神楽は、民衆のよく知る神話や謡曲・歌舞伎に材を取り、ことに鬼や大蛇が登場する演目は人気が高いという。それらは基本、勧善懲悪で、最後は神が鬼や大蛇を倒して終わるが、舞台の主役はどう見ても『鬼』の方だ。

(これは――紅葉狩か滝夜叉姫か……)

 舞台の真ん中で、武者二人を相手に暴れ回った鬼女。幼少期を広島市郊外で過ごした美郷にも馴染みのあるそれは、派手で美しくも恐ろしく、そして格好良くて魅力的な存在だ。物語の筋とは裏腹に、美郷は鬼や大蛇を楽しみにして神楽を観に行っていたし、恐らく周囲の大多数もそうだった。物語における「英雄」を差し置いて、彼らこそが演目の「主役」なのだ。

 そして、静櫛神楽団の演目「櫛名田姫」もその主役は題目通り、鬼女となったクシナダ姫だった。その筋書きは新舞である他の鬼女物と雰囲気を異にしており、荒ぶる鬼女であった姫が静櫛の地で安息を見付け、女神に戻るまでの物語である。実際の舞を観たことはないが、資料を読んだ限りでは随分と古いルーツを持つ演目という。

 ――なお、今から観賞するのは演目「櫛名田姫」そのものではない。司箭らが(おそらくは即興で)創作した、が生まれ、封じられる物語だ。

 舞台上に投影されたフィルムでは、鬼女を成敗した武者たちが喜びの舞を舞っている。扇と刀をひらりひらりと翻し、正面を向いた武者二人が客席に深々と頭を垂れた。沸き起こる拍手が、くぐもって割れた電子音として鳴り響く。

 拍手に応えるように、もう一度くるりくるりと舞い、武者達は退場して行った。終演である。

 フィルムが途切れると同時、投影機の光が落ちた。辺りは非常灯だけの薄闇に満たされる。

 その薄闇の中、今度は生音の笛が鳴り響いた。

 目を凝らしても、本来舞台袖に並んでいるはずの楽人達は見えない。流石はもののけ主催の舞台といったところか、虚空から笛の音が奏でられている。しばらく高らかと独奏した笛に、「せいっ!」と鋭い掛け声と共に、手打ち鉦、小太鼓大太鼓が一斉に加わった。同時に舞台上の照明が点灯する。舞台中央には台が置かれ、その上にはどうやら鬼女面が載せられているようだ。

(おお……そんな場合じゃないとは思っても、テンション上がるな……)

 妙に粋な演出が、幼い頃母親と行った秋祭り――子供が普段出歩けない時間帯の屋外で、焚火で暖を取りながら観た神楽の高揚感を思い出させる。

 広島の神楽、特に新舞はエンタメだ。舞台を降りて暴れ回る鬼を追いかけたり、舞台から溢れて垂れ下がった大蛇の尻尾を掴んだり、退屈な間は舞台下を走り回ったり。そんな傍若無人も子供にならば許される、緩い雰囲気のある娯楽だった。大人たちも暖を取るためうどんを啜ったり、燗をつけたカップ酒を舐めたりしながら舞台を楽しむ。

 いまだ広島時代の記憶のほとんどが欠落しているという怜路は、このノスタルジーを多分に孕んだ高揚感も覚えがないのであろうか。そう、美郷はそっと隣を見遣った。舞台の灯りをサングラスが反射し、横目で盗み見るその表情は判然としない。だが、口許は少し緩んで見えた。

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