13.4
――山里は ものの寂しき 事こそあれ 世の憂きよりは 住みよかりけり
緩やかなテンポの楽と謡われる和歌に合わせて、楚々と舞台上――鬼女面の手前に歩み出た人影があった。豪奢な打掛に、緋袴と白い小袖。片手に広げた扇、片手に小ぶりな弓を持ち、通常の神楽に使われるカツラでは絶対に拝めないような、見事な垂髪をその足下まで揺らしている。――御龍姫だ。
(本物の姫神が舞うのか……大丈夫なの、これ)
舞はそれだけで呪力を持つ。芸能であると同時に呪術の一種だ。そう、背中に冷や汗をかく美郷など知らぬ様子で、御龍姫は楽しそうにくるくると嫋やかな舞を見せる。一方では扇が見る者を幻惑するように翻り、もう一方では弓が鋭く空を裂いた。
(
姫神の舞に酔いしれる頭の片隅でそんなことを考える。弓は武具であると同時に、破魔の呪具、さらには占具でもある。――姫神が、それを持つ意味は何であろうか。
扇と弓を天へと掲げ、ぴたりと正面に動きを止めた姫神が口を開く。同時に楽もぴたりと止んだ。独特のテンポをした口上が始まる。
「そもそも此の処に進み出でたる者は、出雲は
名乗りの口上を、柔らかくも凛と通った姫神の声が紡いだ。口上が終わると同時、再び楽が鳴り響いて姫神は舞い始める。ゆるりゆるりと舞いながら舞台中央の鬼女面を躱し、姫神は舞台奥の上段部分へと上がる。綺麗に打掛の裾を捌いて正面を向き、弓を掲げ、扇で顔を隠して静止した。
続いて、舞台の袖からもうひとつ人影が現れる。その人影もまた楽に合わせて扇と御幣を翻し、ゆっくりと舞いながら舞台中央、鬼女面の置かれた台の傍らへと歩み寄った。
こちらは、平民らしき質素な水干姿の男だ。――その顔には、普段であれば男神を演じる時に着ける凜々しい男の面を被っているが、よく見ればその面の上、折烏帽子との間に一対の三角耳が覗いている。おそらくは御龍姫の従者である狗賓だろう。
「そもそも此の処に進み出でたる者は――」
狗賓は名乗る。静櫛郷の田畑を古くから開拓した郷士家の当主である。日頃より溜めたこの世と里人への怨みは深く、今、櫛名田神社の姫神に願って鬼となり、鬼女面に取憑いて世に仇なすつもりである、と。
口上を述べた狗賓は、鬼女面とその奥に立つ姫神の前に跪くと、御幣を捧げて祈り始めた。途端、太鼓の音は激しく速く、笛の音もおどろおどろしく乱高下を始める。
大きく御幣を振って身体を揺らす狗賓の背中が、「ダダン!」と打ち鳴らされた太鼓の音に打たれて痙攣した。そのまま舞台上で頽れる。
一拍の後に舞台は暗転し、すぐさま再び灯りが点いた時には、狗賓は傍らの台上に置かれていた鬼女面を着けていた。上段には暗色の幕が引かれて、御龍姫の姿は消えている。
隣で怜路が「おぉ……」と感嘆の声が漏らす。やたらと気合いを入れて、新舞のエンタメ的な見所が再現されていた。舞台の暗転や舞の途中など、一瞬の隙に面を着けたり変じたりする「早変わり」も、新舞の見所のひとつだ。美郷も苦笑混じりの吐息を零す。
それまでと所作を変え、大きく四股を踏むように股を割って片膝を突き、御幣を構えた狗賓が腹の底からの野太い声で口上を述べる。
「あァら嬉しや、我が一念神へと通じ、今悪しき妖術を授かりたり」
それまでの平板気味なものとは一転、激しく抑揚をつけた口上の最後に向けて、太鼓と手打ち鉦が忙しく鳴り響いて場の緊張を高める。
「さればこれより里へと打ち出でて、憎き者共を喰らい殺さんと思うなァ――りィ――!!」
掲げた御幣を、鬼女が大きく床に打ち付けた。同時に、ダンッと強く足を踏み鳴らして立ち上がり、激しく舞い始める。楽の拍子も激しく速い。
鬼女面の件を担当するにあたり、付け焼き刃で仕入れた神楽の知識によれば「鬼拍子」という、いわゆる「悪のテーマ」らしい。しかしながら、幼い頃の記憶に残るそれは、耳にすれば「これぞ神楽」とテンションの上がるアップテンポな拍子だ。実物の鬼は心底ご勘弁願いたいが、広島の神楽に登場する鬼は、やはりどうにも神楽の主役なのである。
しばらく男の変じた鬼女――実際には、現し身を捨てた男が鬼女面へと憑いたのだが、そこは舞台上の演出である――が激しく舞う。静止すれば顎を突き出し、大股に腰を落として、両手を今にも襲いかからんとばかりに振り上げては、
やがて鬼女は周囲を威嚇しながら退場し、鬼拍子が終わる。
途切れることなく、次の神拍子――鬼拍子よりも優雅で明るい雰囲気を持つ「善のテーマ」が流れ始めて、向かって左手の花道から二つの人影が舞台へ進み出た。ひとつは狩衣に烏帽子姿で、手には御幣と鈴を持っている。続くひとつは武者姿で、こちらは弓矢を手にしていた。両者とも、男神の面を被っている。
「そもそも此の処に進み出でたる者は――」
――備後国にある神社の社人であり、様々な祈祷を行って鬼類を鎮めてきた
少々嗄れた老女の声で口上を述べ終わった太夫は、鈴を鳴らしながら従者を連れて舞い歩き、舞台を一周してその中央で、客席に背を向けて立ち止まる。ちなみに「太夫」とは、当時における美郷や怜路の同業者、すなわち託宣や加持祈祷などの呪術を専門とした民間宗教者の一種である。
そうして向けられた太夫の尻には、見事な銀色をした狐の尻尾が覗いていた。――御龍姫の侍女をしている老狐であろう。付いて歩く武者姿の方は、どうにも狸の尻尾が見えているが、御龍山で狸の知り合いは記憶にない。未だ面識のなかった御龍姫の従者であるか、司箭の知人などであろうか。
(何というか、シュールだなあ……)
どうしても、そんな感想が脳裏をよぎる。狐と狸が人間に扮して神楽を舞っているのだから、仕方が無いといえばそうだ。
ふと我に返ってしまった美郷をよそに、姫神が坐す上段へ向けて深々と一礼した太夫と武者は、向かい合って舞い始めた。太夫の持つ鈴が、ゆったりとしたリズムでしゃりん、しゃりんと鳴り響く。どちらも――そして鬼役の狗賓もであるが、流石は古き姫神と縁のある者たちで、その舞は見事であった。
太夫が何事か唱えて鈴を鳴らすと同時、武者が舞台の左方に矢を射かける仕草をした。弓を引き絞ると共に楽の拍子が激しくなり、放たれれば止まる。仕草のみで矢を射た武者は、調子の戻った楽の音に合わせて太夫と共に舞台を一周舞い歩き、次は客席へ向けて同じ仕草をする。更に舞台右手、舞台奥と繰り返し、最後、真上に向かって武者が矢を射かけると同時、上段を覆う幕が開いて、扇で顔を隠した姫神が現れた。同時に、太夫と武者がその場に平伏する。
姫神が美しい声を紡ぐ。――私はこの土地の守り神であるが、邪な者に私を称える神楽の面を盗まれ、怨鬼の依代とされてしまった。今、この者らに我が力を与え、必ずや怨鬼を封じたいと思う。
そう古式ゆかしい言葉遣いで述べた姫神は、片手の御幣で太夫と武者の頭上を撫ぜた。太夫と武者は更に深々と頭を垂れ、盛り上がる音楽の中、上段の幕がするすると引かれて姫神の姿が隠れる。
『どういうこった、姫神の力を得て怨鬼になったんじゃねーのか』
隣の怜路が、小声で美郷に耳打ちした。
『うーん、本人がそう思っただけかもしれない。人か異形に成る時って、結局その人の中で変化が起こるんだろうし……おれもよく分かんないけど』
美郷も小声でそう返す。怜路は『そうかあ』と、納得したようなしないような返事と共に舞台へ向き直った。
(舞いながら四方と天地に弓を射て、神の降臨を願う所作……たしか、そういう神降ろしの神楽が県内の別地域にあったな……)
その舞で降ろす神とはたしか、その土地の
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