十三.神楽
13.1
13.神楽
その日の午後――広瀬と由紀子が、帰ってきた守山の指示で「特殊文化財」のリスト整理をしていた頃、美郷と怜路は緑里町にある温泉施設へと来ていた。施設の名は、神楽門前湯治村。安芸鷹田市の第三セクターが運営する、温泉宿泊施設である。スーパー銭湯型の温泉施設と、レトロな町並を模した売店・食堂・宿泊棟、そして神楽上演施設が複合した小さなテーマパーク――山の上の別天地だ。
週末には地元の神楽団が神楽を上演し、施設はその名の通り温泉客と神楽ファンで賑わう。平日も、日帰りの温泉客が県内各地より訪れて、ミストサウナや露天風呂と、レトロな町並みを模した売店や神楽資料館を楽しむという。
しかし今、美郷が足を踏み入れた大浴場に、人の気配はない。
「ほんとに良かったのかな……」
今、男湯の暖簾は下ろされて、入口前には「臨時休業」の立て看板が置いてある。
「気にすんなって。つーか、しても無駄だから諦めろ」
戸惑いに立ち止まった美郷を置いて、言いながら怜路が洗い場を目指す。その後を追って歩きながら、美郷はうーん、と唸った。臨時休業の理由は、建前上「浴槽の故障」となっている。だが、美郷と怜路の目の前にある大きな浴槽は何の問題もなく、熱された温泉水を満々と湛えて湯気を纏っていた。犯人は、司箭だ。
天狗の妖術を用い、湯治村の従業員を幻惑に嵌めて、男湯を貸し切りにしてしまったのだ。平日水曜の昼下りをほんの一時間程度。経営へのダメージは、そこまで大きくはないかもしれないが、それでも美郷と怜路のため――主に美郷のために、湯治村が「
のろのろと洗い場の椅子に腰掛けようとした美郷を、怜路が止めて浴槽の脇にある階段を指さした。
「たしか、二階のサウナ横に源泉引いた水風呂があったはずだ。先に白太さん置いて来いよ、のぼせちまったら台無しだぜ」
美郷の白蛇は、形は爬虫類だが高温を苦手とする。そして、美郷は白蛇を得て以降、温泉をはじめとした大浴場に来たことはなかった。それを理由に、今回の招待を辞退しかけた美郷に司箭がしたのが、「ならば白蛇は水風呂にでも泳がせておけばいい」という提案だった。
本物の爬虫類を、公衆浴場に泳がせてしまえば衛生上の大問題である。だが、白蛇は結局のところ妖魔の類いだ。
(だから大丈夫……っていうのも、凄く変な話なんだけど……うーん)
美郷が公衆浴場を避けていた理由は、白蛇を体内に格納している時に現れる背中の鱗だ。その場所をいかに衆目に晒さず過ごすかは、白蛇を得て以降――大学一年の時から美郷にとって、大きな命題となった。今まで、誰かの前で鱗のある背中を晒したことはなかったし、その場の成り行きで見たことがあるのも、結局のところおそらく怜路だけだ。
戸惑いと罪悪感に悶々としながら、それでも指示どおりにタイル張りの階段を上がり始めた美郷の後ろを、仕方なさそうに怜路がついて来る。
トレードマークのサングラスは、脱衣場のロッカーに置き去りにされていた。今、怜路の眼に映る美郷の背中がどんなものなのか、美郷自身にもよく分らない。だが彼の緑銀の眼を前に、単に鱗だけを隠したところで、大して意味がないのは知っている。
――もぞり、と、冷たい水の気配に反応して体内の白蛇が蠢く。
真後ろに怜路の目がある状態で、白蛇が体を出たがるに任せるのか。今更ながら居心地悪く、己の腕を抱いた美郷の背後斜め下で、怜路が「しかしまあ、」と間延びした口調で言った。
「アレだな、他に客居たら目立っただろうなァ、お前」
美郷の背を眺めての素直な感想、といった響きの言葉に、つい足を止めて振り向く。
「やっぱ目立つよね、背中」
鱗の辺りに手を伸ばした美郷に、つられて立ち止まった怜路が「あん?」と首を傾げる。
「ちげーよ、頭だ頭。背中なんて色付いてるワケじゃねーんだし、湯気で霞んでりゃ大して見えねえよ。それより、どっから出て来たんだそのシャワーキャップ。男湯にシャワーキャップの奴が居りゃあ、そら目立つと思うぞ」
まあ、ロン毛でも目立つだろうが、シャワーキャップほどじゃねーだろう。なんでシャワーキャップだ。と、なぜか執拗にシャワーキャップを口撃してくる怜路に、美郷は脱力して前に向き直った。
「うるさいなあ……長いと洗うの大変で時間食うし、シャンプー合わなくて軋むのイヤだし。お湯に浸かりに来たんだからいいじゃないか」
ヘアクリップなどを使ってアップにする手もあるが、今回咄嗟にヘアクリップを調達して来ることはできなかった。よって、入浴券やタオルの券売機で一緒に売っていたシャワーキャップを買ったのだ。馬鹿馬鹿しくなって緊張がほぐれた隙に、白蛇がにょろりと体を抜け出して、先に二階へ上ってしまう。
追って、辿り着いた浴場の二階を見渡せば、サウナ室の手前――階段を上がってすぐの場所に、少し濁った源泉を湛えた水風呂があった。白い蛇体がその中へ滑り込む。サウナと水風呂の他は、休憩用らしき長椅子が数台と、体を横たえて温泉を楽しめる寝湯が設置されていた。
「白太さん、気持ちいい?」
小ぶりな――といって、家の風呂よりは二回りほど大きな水風呂の浴槽を泳ぎ始めた白蛇に声を掛ける。すいすいと泳いでいた白蛇は、持ち上げた頭を美郷へ向けて「うん!」と元気な返事を美郷の脳内に響かせた。
「じゃあ、おれたち下で体洗ってお湯に浸かってくるから。外に出たりするなよ」
「はしゃぎ過ぎてふやけンなよ~」
おのおの白蛇に声を掛け、美郷と怜路は階段を下りた。
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