9.3

 由紀子が警察官に送られて自宅に帰りついたのは、午後九時半頃のことだった。吉田町にある警察署から自宅までは、車で二十分ほどかかる。

 県道脇に建つ、黒い瓦葺きの土塀に囲まれた由紀子の家には、『高宮』ともうひとつ『米原』という別の姓の表札がかかっていた。実は、この家は由紀子の母親の実家なのだ。由紀子の母親は、夫の高宮に嫁いで姓を変えたものの、夫婦は妻の実家である米原家の家に暮らしていた。

 車を降りて、送ってくれた警察官に頭を下げる。パトカーは他人目につくからと一般車で送り届けてくれた警察官は、最後に気遣いの言葉を残して帰って行った。煌々と光る玄関灯に出迎えられて、由紀子は玄関の引き戸を開ける。

「ただいま」

 おかえりなさい、と奥で母親が返事する。玄関脇にあるリビングのドアが開いて、母親が顔を覗かせた。

「大丈夫? 大変じゃったねぇ……お父さんはまだまだなんよね」

 由紀子の母親、小枝子は眉根を寄せ、心配そうに顔を曇らせながら由紀子をリビングダイニングへ導く。小柄で痩せ型の小枝子は、趣味のテニスを介して夫――由紀子の父親、仁志と知り合った。自身も昨年までは別の高校で教鞭を取っていた人物である。

「うん。犯人と面識があるからって……」

 ダイニングテーブルには、二人分の夕食がラップをかけて置いてある。由紀子の分の皿を電子レンジにかけながら、小枝子は「そう……」と溜息を零した。茶碗に自分で飯をよそい、椅子に座った由紀子の隣で何かがチカリと光る。小枝子の携帯電話だ。着信を示す緑色の光が点滅していた。

「お母さん、携帯」

 温め直した肉じゃがの皿を出してくれた母親に、由紀子はそれを示す。しかし疲れた顔の小枝子はゆるく首を振った。

「エエんよ、どうせ兄さんからなんじゃけ」

 米原家には本来、古めかしい言い方となるが「跡継ぎ」である小枝子の兄がいる。だが、由紀子の伯父にあたるその人物は、上京しており連絡も途絶えがちだった。彼から連絡が入る時は大体決まっている。――金を無心する時だ。

「そっか……」

 それ以上何も言えず、由紀子は箸を取る。いただきます、と小さく呟いて手を合わせた。

「……お父さんが、誰かに恨まれるようなこと、しとるはずないのにね」

 由紀子の食事を傍らで見守りながら、ぼんやりと新聞のテレビ欄を眺めていた小枝子がこぼした。

「うん」

 由紀子も頷く。由紀子の父親である仁志は、生徒から慕われる教師だ。巣立った教え子たちが「恩師」として慕い、連絡を取って来ることも多い。仁志と広瀬を襲ったという男は恨みを持っていた様子らしいが、きっと何かの勘違いか逆恨みだろうと由紀子も思っている。

「お父さんはほんまに、よく出来たええ人なんじゃけえ」

 それは半ば、小枝子の口癖のようなものだった。仁志が高宮家の次男だったこともあり、由紀子ら親子三人は米原家で暮らしている。身勝手な「夢」ばかり追いかけて家の面倒を見ないばかりか、職も不安定で経済的に迷惑をかけ続けている兄に対して、窮屈をこらえて米原の家と田畑の面倒を見てくれる仁志を小枝子はいつもそう言って称えていた。

「うん」

 小枝子の兄――由紀子にとっては伯父となる米原真人は、高校を中退して舞台俳優を目指し上京した。しかし彼の俳優としての生活は軌道に乗らず、三十五年経った今でも、職も東京での住所も安定していない。真人の住民票は未だこの家にあり、彼の健康保険料等は、米原家の世帯主である由紀子の祖父が支払っていた。

「ユキちゃんも、お父さんみたいなしっかりした人、見つけんさいね」

 これもまた、小枝子の口癖だ。

「うん……」

 由紀子はそれに、毎度苦笑い半分で返す。

「そういえば巴市役所から来とっての、ユキちゃんの先輩はどうなん?」

 どうって、と由紀子は困惑する。広瀬も宮澤も、由紀子が一方的に名を知っていただけの同窓生でしかない。

「普通に、一緒に仕事してるだけ」

「そうなん? どっちも長男さんなんかねえ。ええご縁があればいいのに」

「さあ、知らない。そんな話までしてないし」

 母親のことは好きだが、この系統の話題だけはどうにも乗り気になれない。そそくさと残りのおかずを口に詰め込み、茶碗にあった最後の一口も押し込む。丁度良く温まった茶でそれらを流し込み、由紀子は「ごちそうさま」と手を合わせた。特に食い下がるでもなく、小枝子は「ごゆっくり」と返して食器を回収してくれる。

「じゃあ、またお父さん帰ってきたら……」

「先に風呂入りんさい。沸いとるけ」

 自室に引き揚げる由紀子の背に、小枝子が声をかける。はぁい、と返事して、由紀子は二階にある自室へと階段を上がった。

 大正時代築の米原家は、由紀子が生まれる少し前――高宮夫妻が米原へ入ることになった時改築された。由紀子の自室である二階へは、少々急な階段を上る。カーペットを敷かれた洋間の六畳が由紀子にとっての我が城であるが、現在は大学近くのアパートに一人暮らしをしているため物は少なく、どことなく雑然としている。卒業研究とインターンを兼ねて、実家に戻って来てからまだ二週間も経っていない。

 十年来の付き合いであるベッドのスプリングを軋ませ、由紀子はスーツ姿のまま掛け布団の上にひっくり返った。

「疲れた……」

 自身に身の危険を感じたわけではない。父親を狙ったという「鬼」の姿も、由紀子にはほとんど見えなかった。だが、警察を呼んで、署まで同行して、聴取を受けてと極度の緊張の中目まぐるしく動いたため、それ以前の出来事――昼間から、広瀬らと調べ物をしていた夕方までのことが、まるで昨日か一昨日のように遠く感じる。

 いつもの習慣で、スマホを鞄から取り出し通知をチェックする。母親は風呂に入れと言ったが、少し休んでからにしたいところだ。無意識にSNSのアイコンをタップする。フォローしているのは著名人や企業・組織の公式アカウントと、サークルやゼミ関連の友人・知人がほとんどだ。

 その中でひとつだけ、どちらのカテゴリにも属さないフォローアカウントがあった。

 アカウント名『AZAMI《アザミ》』。小学校以前から付き合いのある、いわゆる幼馴染の正岡亜沙美まさおかあさみだ。中学校までは同じ学校で、高校はそれぞれ地元を離れた。由紀子は隣町の私立進学校へ、そして亜沙美は、大阪にあるダンス部強豪校へと進学した。

「……あっ! 更新されてる」

 一年以上更新の止まっていた『AZAMI』のアカウントがタイムラインに現れているのを見つけ、由紀子は体を反転させた。俯せになって、小さな液晶画面を覗き込む。

 高校卒業後、亜沙美は進学せずに上京し、仲間たちと小さなダンスグループを結成した。結成したての頃は、その広報も兼ねてか熱心に更新されていた『AZAMI』のアカウントだったが、二年もしないうちにグループ自体の活動も疎らになり、アザミの更新頻度も落ちた。――ダンスグループの運営が思わしくない様子だった。

 最後に由紀子が亜沙美の顔を見たのは、昨年夏に短期インターンシップで由紀子が東京に行った時だ。亜沙美は中学を出て以降、広島に戻って来たことはない。

「えっ。なにこれ……」

 最新記事のタイトルは、『ダンサー、引退します』というものだった。

 咄嗟に、悪い想像が脳内を駆け巡る。怪我か、経済的な事情か、あるいは。

『今日は、AZAMIを応援してくれていたみんなに、ご報告があります。。。』

 独特の、四行も五行も空く改行を指でスワイプする。

『ダンサー“AZAMI”は、死にます。。。』

 死、という不穏な単語にヒヤリとする。

『みんな、今までありがとう。。。AZAMIのことは忘れていいよ。。。。じゃあね、ばいばい。。。』

 タイトルが「引退」で、「ダンサーとしてのAZAMI」が死ぬ、という内容であれば、亜沙美本人に命の危険があるわけではないだろう。だが、全く理由に触れられていない本文は、余計に由紀子の心をざわつかせた。

(なんで、こんな立て続けに……)

 嫌なことは起こるのだろう。

 SNSアプリを閉じて、ホーム画面をスワイプする。プライベートの連絡用に使っている、チャットがメインのアプリケーションをタップした。大学関係や就活、企業公式アカウントの宣伝メッセージに埋もれた、亜沙美とのチャットを探し出す。去年夏の、待ち合わせのメッセージに既読マークがついていた。以来、特にメッセージも送っていない。

(時間、まだ大丈夫だよね。どうしよう……事情、訊いてみようか……)

 しばし、悩む。

 いまでこそ、まったく違う道を歩んでいるが、由紀子と亜沙美は同じものを愛好する同士だった。小学校の全校生徒が二百人に満たないような過疎高齢化の町で、「女子」として「当たり前」でないものを愛好する同士は貴重だ。由紀子と亜沙美は互いに、中学校を卒業するまでの間、自分が好きで興味のあるものを話題にし、共有できる貴重な相手だった。

 由紀子は『AZAMI』を応援していた。なぜなら、亜沙美の選んだ道は由紀子にとって「憧れの道」だったからだ。

 二人の共通の話題、それはいつも神楽だった。

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