9.2

 瘴気の残り香が鼻につく。

 不快な臭気に思い切り顔を顰めて、怜路は上階への階段を探した。廊下の手前では、幾人か制服姿の警察官が、仲間に救護されている。それを身軽に躱し、奥に視線を投げた。そこにも二、三人の人影がしゃがみ込んでいた。惨憺たる有様だ。

 きゅわん、と先を走っていた狛龍が振り返って吠えた。頷いて走り寄り、怜路は階段を数段飛ばしで駆け上がる。踊り場でターンした時、ぎゅっ、とバスケットシューズの靴底が鳴る。上で吠える駒龍の声が一際切迫した。怜路は、更にギアを上げる。階段の上、見えた二階廊下の奥で、遠く男の声がする。言葉は聞き取れずとも、緊迫した空気は伝わって来た。

 大きく階段を蹴って、数段飛ばして二階フロアに着地する。錫杖を構えて廊下へ飛び出した。真っ直ぐ延びる廊下の向こう、皓皓と灯る廊下の照明の下、遠く人影が幾つか重なっている。距離にして二十五メートル程度か。

「美郷!!」

 奥に鬼面の男、手前に座り込んだ美郷と広瀬をみとめ、怜路は大きく呼ばわった。鬼面の男は何かを振り上げている。あれは、鉈か。

(――やべェ……!)

 全速力で駆け出しながら、鬼へと攻撃する手段を探す。錫杖は流石に届かない。真言を唱えての呪術が間に合うとも思えない。

『きゅわん!!』

 吠えて怜路の前に飛び上った狛龍が、くるりと宙返りをして円月輪に化けた。司箭が使った投擲武器だ。目の前に出現したその柄を、怜路は躊躇いなく掴む。

 目標までの障害物はない。手前の二人はほとんど床に伏している。全力で走りながら、怜路は円月輪を構えた。廊下の幅、高さ、鬼までの距離。届く場所を見極める。

 美郷が身の内に飼っている蛇を出せば、鉈程度はいくらでも弾き飛ばせるはずだ。だが、美郷はただ尻餅をついて、為す術もなく鬼を見上げている。

「――ッか野郎!! テメェ、何躊躇ってんだ死にてェのかァ!!」

 怒鳴り声と共に、怜路は鬼の鉈めがけて円月輪を投げた。

 円月輪は鉈に命中し、鬼が仰のく。蒼い顔の美郷が、のろりと怜路を振り向いた。その唇が怜路を呼ぶように動く。

「はよ広瀬連れて、距離取れ!」

 怜路の指示に、幾分しゃんとした顔つきで頷いた美郷が、体を起こして隣に俯せる広瀬に呼びかけた。鉈を弾き飛ばされて体勢を崩していた鬼が、ゆらりと体を起こす。円月輪は鬼の足元に落ちている。次の一撃は錫杖が届くはずだ。

「待て! 篠原の相手は儂がする! 民間人が攻撃しちゃあいけん!!」

 鬼の向こうから、太い男の声が制止した。赤来だろう。

「おマワりさんにゃ、アレが生きた人間に見えンのか!? 俺にゃ死体引っ掛けた妖面しか見えねえんだがな!!」

 サングラスを下にずらした上目遣いの視界に映るのは、宙に浮く大きな鬼女面と、その鬼女面から伸びる触手に絡め取られ、繰人形となっている薄汚れた男だ。

 自失の表情で、広瀬がこちらを見ている。とにかく、あの妖面を男から引き剥がして手足を奪わなければ。そう、怜路は錫杖の石突で面の顎を狙う。

 唐突に、鬼が上を向いた。

 面の内側から、ぶわりと幾つもの触手が周囲に延びる。長い長い腕の形をしたそれは、周囲の人間に掴みかかった。

「ぐあッ……!」

 赤来が首を掴まれ引き倒される。美郷と広瀬にも数本の腕が迫る。かくん、と首を倒して、鬼が怜路らの方を向いた。青白く細長い腕が二本、奇怪な長さで怜路へと手を伸ばす。限界まで開かれた五指が、鬼の爪を立ててこちらを狙っている。

(――ッ、ヌルいことやってる場合じゃ無ェ)

 くるりと錫杖を反転させて襲い来る腕を弾き、怜路は杖頭を妖面へ向けた。

「ナウマクサンマンダ ボダナン――」

 帝釈天の真言で雷光を呼ぶ。紫電が迸り、杖頭の装飾に絡み付く。怜路は妖面めがけて床を蹴った。

「インダラヤ ソワカ!!」

 空気を引き裂く音と共に、放電が妖面を打ち据えた。細かな稲妻が触手に迸り、燃やし尽くす。妖面が男から剥がれ落ちる。同時に、糸の切れた人形のように男が頽れた。

 がらん、と、重い木製の面が床を打つ音が響く。それに、男が倒れ伏す鈍い音も重なった。男の手足は、普通ありえない方向へと奇妙に曲がっている。

 男と妖面、どちらも動かないことを確認して、怜路は構えていた錫杖をおろした。

「狩野……お前のォ……」

 よろよろと身を起こしながら、赤来が苦い声で怜路を呼ばわる。怜路は顔を顰めてそれをいなした。

「ッせえ、話は後だ。面を封じる。おい美郷――」

 怜路は封じが得意でない。得意な者に任せようと振り向いた先では、白蛇を肩に巻き付けた美郷が、はだけた胸元を掴んで棒立ちしていた。俯く様子は只事でない。その傍らでは、広瀬が呆然と座り込んで美郷を見上げている。――その様子だけで、ひとまず最低の状況であることは察せられた。

 ぐらり、と美郷の上体が揺れる。膝が崩れ、体が傾いだ。

「美郷!?」

 錫杖を手放し、怜路は美郷へ駆け寄る。仰向けに倒れる寸でのところで、どうにか怜路は美郷の体をキャッチした。がしゃん、と錫杖の倒れる音が響く。

「おいどうした、おい!」

 目をきつく閉じ、苦悶の表情を浮かべる美郷の息は荒い。かきむしるように胸元を両手で掴み、体を折り曲げて激しく咳き込んだ。怜路の呼びかけにも答えない。普段、きっちりと括られている黒髪が、乱れほつれて頬にかかる。

 最後はえづくように体を痙攣させ、ぐったりと動かなくなった。胸元を掴んでいた手が床に落ちる。

 あまりの有様に半ば呆然としながら、怜路は腕の中で動かなくなった美郷を見下ろす。妙に冷静な部分が、その肩が呼吸に合わせて動いていることを確認した。呼吸は荒いが、ただ、意識を失っただけだ。横向きのまま、怜路はそっと美郷を床へ下ろす。美郷が動けないならば、誰かがとりあえず鬼女面を捕縛しなければならない。この場でそれをできるのは、怜路だけだ。

「おい」

 美郷の正面で、真っ青な顔で座り込んでいた広瀬に声をかける。顔に絶望を浮かべた広瀬が、茫洋と怜路を見上げた。

「お前、なんか美郷から霊符やら呪具やら預かってねえか」

 言いながら、自分は美郷のポケットやウエストポーチを漁る。――鬼女面封じの準備をして出てきたわけではない。都合よく捕縛の呪具がある保証もなかった。白蛇は何故か、美郷の肩に巻き付いたまま全く動かない。こちらも気絶しているのかもしれない。

「――これ、宮澤から預かってた分全部だ」

 差し出された霊符と散米を受け取り、何枚かが邪気払いのものであることを確認する。封じには至らずとも、貼れば弱体化させることくらいは可能だろう。

(触れるか、からだがな)

 雷撃が堪えたのか、はたまた息を潜めて様子を窺っているだけなのか、鬼女面が動く気配はない。

「広瀬、電話で係長呼べ。そんから――守山サンに状況を伝えてこい。オッサンはその転がってる野郎の方を何とかしろ。面には近寄ンな」

 美郷の呼吸は荒いが、ひとまず発作のような症状は治まっている。白蛇が体内に戻りもしない状態の美郷を、救急搬送しても良いものか怜路では判断がつかない。建物内には数多く、生命の危険にさらされている人間がいる。――兎にも角にも、頼りになる応援が必要だ。

 めぼしい霊符を握って、怜路は鬼女面へと近寄る。

 遠く近く、医療機器のアラームが幾重にも重なり響いていた。

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