九.狛龍

9.1

 怜路が介護医療院へ到着したのは、美郷と広瀬よりも五分ほど遅れてのことだった。

 闇に沈む医療院の敷地を前に徐行し、駐車場入り口を探していた時のことだ。どんっ、と殴るような突風が車体を揺らし、怜路はブレーキを踏む。数秒を置いて、医療院の照明が全灯した。

 どうやら味方側の術だったと判断し、怜路はブレーキから足を離す。再びゆるりと動き始めた車に、制服警官が駆け寄って来た。その奥では車のヘッドライトを、Keep Out と書かれた黄色いテープが反射している。

「止まって止まって!」

 赤く光る誘導棒を大きく振りながら停車を指示され、怜路は大人しく従って運転席の窓を開ける。丁度良いので、この警官にことの成り行きを聞こうとして気が付いた。

(やべェ……俺、自分だけで巴市役所の関係者だっつーの分かるモン、何も持ってねーわ……)

 覗き込んでくる警官の表情は厳しい。元より、怜路の出で立ちは非常に警官受けが悪いのだ。凶悪犯の立てこもりなどという、田舎では滅多に出会わないであろう現場に立ち会った若い警察官は気が立っているのか、初めから臨戦態勢である。

「この建物の敷地は現在封鎖中です! ここでUターンして!」

 野次馬の類と思われたらしい。待て待てと相手を制して、怜路はひとまず己の立場を証明してくれそうな人物と部署を挙げる。だが、それはあえなく空振りに終わった。

「――特殊自然災害? 言うんが何かは分からんけど、もし協力要請の必要があれば警察から連絡するけぇ、一旦帰っとって下さい。エエね?」

 あからさまに適当にあしらわれ、怜路は内心頭を抱えた。『特殊自然災害』の存在を知らないであろう警察官を、説得する言葉が見つからない。渋々と頷き、ウインドウを上げる。Uターンができるほどの道幅はないので、病院の前を通過して別の場所に抜けるしかなさそうだ。

 ちっ、と盛大に舌打ちし、イライラと煙草を取り出す。一本銜えてウインカーを出し、アクセルを踏んだ。

『きゅわん!』

 後部座席で、妙に抜けた高い鳴き声がする。

「しゃーねーだろ、人間やってりゃオマワリ敵に回すと面倒なんだよ」

 心底面倒臭く、振り返りもせずに怜路はそれをあしらう。

『きゅわん! きゅわん!!』

 しかし、犬のようで微妙に違うその鳴き声――一応、吠えている声は止まらない。

「だーっ! も、うっせェ!! オメーが鬼の居場所外したんじゃねェか!」

 ばっ、と後ろを向いて怜路は噛み付く。後部座席に座っていたのは、犬――では、ない。

『きゅわん!』

 窓に湾曲した猛禽の爪をかけ、柴犬ほどの「なにか」が吠える。ふんっ、ふんっ、と鼻息が窓ガラスを曇らせていた。その胴は大きな魚鱗にびっしりと覆われ、腹は蛇の鱗、背にはたてがみ、脚は虎のようである。枝分かれした鹿の角の下で、牛の耳がぴこぴことせわしなく動いていた。顔は――駱駝なのであろう。伝説に従えば、であるが。尾は太く短く魚のようで、ちょうど尾鰭が伸びるようにふさふさとした毛が渦を巻きながら揺れている。

 この謎の生物は、怜路が司箭から借り受けた神使であった。御山の使いゆえ、龍のような姿をしている……が、フォルムは犬だ。兎のものとも鬼のものとも言われる眼はきゅるりと大きい。御龍山に登ろうとした時、美郷の足元を掬ったモノはこれだった。神社の境内に、狛犬ならぬ狛龍として置かれているうちの一体である。

『きゅわん!!』

 ばりばりと窓枠を引掻きながら、狛龍が騒ぐ。たまらず再び怜路はブレーキを踏んだ。鷹の爪で引掻かれた内装はボロボロであろう。

「何だってンだテメェ、サツに睨まれてンじゃねーか! 一旦離れて誰か連絡つけるしか……」

『きゅわん!』

 こんこん、と、後部座席の窓を叩く者があった。夜闇の中、逆光に薄く浮かぶ人影は安芸鷹田市役所のジャンパーを着た初老の男――守山だ。

「狩野さん、申し訳ありませんな。私が説明しますけえ、ここに車を停めてはよう中へ。だいぶん拙いようです」

 その緊迫した声音に、怜路もにわかに緊張する。返事と共に素早くエンジンを切ると、狛龍と錫杖を抱えて怜路は守山の背を追った。視界の下端、サングラスのフレームから外れた場所で、太く長い狐の尾の先が不機嫌に振れている。

「何て聞いてる。アンタも外ってこたァ、中に居ンのは美郷だけか」

「宮澤さんの他に広瀬さんと、巴署の刑事さんが入られたそうです」

 焦りの滲むその言葉に、怜路は「げっ」と思わず声を漏らした。呪術者が美郷だけというのも拙い話だ。しかし、怜路が反応したのは話の後半である。

「赤来のオッサンが来てやがんのか」

 赤来刑事は顔見知りだ。それも、あまり見たくない方の顔見知りである。巴生活一年目に、何度も職務質問をされた仲だ。当人に霊感はないというが、「刑事の嗅覚」とでも呼ぶべき全く別の第六感が侮れないベテラン刑事だった。

「お知り合いですか」

 今回の事件まで警察と関わることなどなかったという守山に聞き返され、怜路は曖昧は返事をする。進入禁止のテープ前に立つ男が、守山へ会釈した。鬼面盗難の捜査を担当している、安芸鷹田署の刑事だそうだ。実際に「盗めた」犯人など存在しないであろう盗難事件を追っている、気の毒な人物ということになる。

 簡潔なやりとりの後、守山が怜路に向き直った。

「先程聞いた様子ですと、鬼の瘴気で中のもんはみな動けんようです。宮澤さんらは鬼を追うそうですけえ、私らは下から順に浄化して上がりましょう。準備を手伝うてくれてですか」

 咄嗟に頷きかけて、迷う。一刻も早く、美郷と合流したい。否、すべきだ。そう感じるのが己らしからぬ焦りなのか、何かの予感なのか判断がつかない。

(美郷一人……あの突風、それから……)

 胸の奥にわだかまる「嫌な予感」を解きほぐしていく。何かもうひとつ、心に引っ掛かっていることがあるはずだ。

(――そうか、広瀬のアホが)

 蛇が嫌いだと、言っていた。

『きゅわん!』

 当たりだ、と言わんばかりに、小脇に抱えていた狛龍が鳴いた。

「すまねェ守山サン、俺ァ先に美郷の援護に行く。あいつ一人で一般人のお守しながら、鬼の相手は荷が重ェだろう」

 言い置き、返事を待たずに地を蹴る。担いだ錫杖がじゃらりと鳴った。狛龍は怜路の腕から抜け出して、先導するように前を駆けている。建物入り口の周囲を取り巻いている警察官たちが、狛龍の珍妙な鳴き声に次々と振り返った。追って走る怜路を見とめて瞠目する。

「っらァ、緊急だどけやがれェ!!」

 言って、右肩の錫杖をぐるりとひと回しすると、避けてのけ反るように人垣が割れる。その隙間をすり抜けて、怜路は建物内に飛び込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る