8.3

 人間には、苦手なモノがある。

 人間誰しも、全知全能ではない。

 当たり前の話だ。二十四時間三百六十五日、常に周囲にいる人間全員を気遣っていられるわけはない。――よって「それ」は、仕方のないことだった。

 だが、「仕方がなかった」からという理由で「無かった」ことにも、許されることもない。そんな現実も、確かにあるのだ。

 どれだけ知らなかったと言い訳したところで、どんなに自分が生来「生理的に苦手」だったからといって、自分の――広瀬孝之という人間の言動が、他人を、友人を、宮澤美郷を深く傷付けたなら、その「事実」は何をやっても取り消せはしない。

 広瀬はそう、数分後に深く深く悔恨することになる。

 宮澤を庇って押し倒したままの四つん這いで、背後を振り返った広瀬は宮澤へと振り上げられた鬼の鉈を、呆然と見上げていた。足など動かなかった。それどころか、身動きひとつ取れなかった。

(どうしよう、どうすればいいんだ!?)

 頭を占拠するのは問いばかりで、答えなど出ない。宮澤も、抵抗を忘れたように凍り付いていた。

 そこへ、廊下の奥から怒鳴り声と共に、広瀬らの頭上を掠めて何かが飛んでくる。

 金属の鋭くぶつかり合う音が響いて、鬼が仰のいた。鉈と、大きな金属製の輪が宙を舞う。宮澤が我に返ったように身じろいだ。

「――ッ、怜路!」

 ごめん、という吐息のような声は、安堵に満ちていた。

「はよ広瀬連れて距離取れ!」

 響く怜路の声は、まだ若干遠い。うん、と頷いた宮澤が体を起こす。宮澤と目が合って、広瀬もようやく体を動かせた。「行こう」と宮澤の口が動く。

「待て! 篠原の相手は儂がする! 民間人が攻撃しちゃあいけん!!」

 鬼の向こう側から赤来の制止が聞えた。四つん這いから体を起こして、顔を上げた先では鬼気迫る表情の怜路が猛ダッシュしてきている。ズレたサングラスの奥で、その両眼は銀に光って見えた。

「おマワりさんにゃ、アレが生きた人間に見えンのか!? 俺にゃ死体引っ掛けた妖面しか見えねえんだがな!!」

 言って、錫杖を構えた怜路が大きく床を蹴る。背を向けた状態の広瀬からは、今鬼がどうしているかは分からない。

 広瀬らの隣をすり抜けて、怜路が錫杖を振りかぶった。背後で赤来の悲鳴が上がる。怜路が顔を強張らせ、宮澤がはっ、と鬼の方へ振り返った。

「広瀬!!」

 血相を変えた宮澤の顔がこちらへ向く。白く透けた何か、異様に細長い腕のようなものが広瀬の視界を掠めた。その正体を追って、広瀬も鬼の方を向く。

 鬼が、広瀬を見ていた。

「ナウマクサンマンダ ボダナン インダラヤ――」

 じゃりん、と怜路の錫杖が金環を鳴らす。

 脱力したように立ち尽くす鬼の面から、幽鬼の腕が二本、広瀬へと迫る。咄嗟に頭を庇おうと、広瀬は片腕を上げて鬼から顔を背けた。宮澤の体が、その視界に入る。

 不意に、不自然に宮澤の左肩が盛り上がった。

 何事かと思う間もないまま、そのシャツの第一ボタンがはじけ飛んで、何かが宮澤の首元から出てくる。ソレは見る間に巨大に膨れ上がりながら、白くぬるりと宙を滑った。

 ――鱗だ。

 目の前を覆う白の表面で、てらりと光るものの正体に総毛立つ。

 巨大な蛇体が、広瀬に巻き付いた。

「うっ、うわああああぁぁっ!!」

 広瀬は反射的に腕を振って暴れたが、白い大蛇はびくともしない。蛇が覆う視界の向こうで、落雷のような激しい音と閃光が迸った。怜路の技が何か決まったのだろう。

 しばらく経って――否、広瀬からすればかなり長い間、白蛇に閉じ込められていたように思えたが、本当はほんの一瞬だったのだろう。ゆっくりと視界が開ける。

「――大丈夫? 広瀬」

 気遣わしげに宮澤が声をかけてくれた。その胸元は大きく肌蹴ている。確かにあの場所から、白い大蛇が出てきたのだ。宮澤の、体の中から。

「あ、ああ……」

 どう、何を言って良いか分からず、固まったまま宮澤を凝視する広瀬の前で、大きな白蛇がぞろりと宮澤に巻き付く。みるみる小さくなって、まるで宮澤に懐いているように肩にとぐろを巻いたそれに、ぞわりと背筋が怖気立った。思わずひとつ身震いする。

 それを見て、へらりと宮澤が笑った。

「ゴメン、蛇苦手だって言ってたのに……でも、怪我がなさそうで良かった」

 少し困ったような、曖昧な笑みは見慣れたもので、同時にどうしようもなく現状に不釣合いだ。

「――鬼は、どうにかなったみたいだ。立てそう? ほんとにゴメンね、怖い思いさせちゃって。危害加えたりしないから、大丈夫」

 あはは、と乾いた笑いと共に、宮澤がするりと白蛇を撫でた。そして、まるで広瀬から距離を取るように立ち上がる。――その距離が取り返しのつかないものだと、ようやく広瀬は気付いた。

 待て、と手を伸ばそうとしても、口も腕も凍り付いて動かない。どっ、どっ、と心臓が内側から広瀬を殴っていた。

 這いつくばったままの広瀬に手を伸ばすことすらせず、ただ立ち上がって宮澤は一歩退く。その顔には、「能面の笑み」が張り付いている。

 ――その微笑みが一瞬、深い慟哭の顔に見えた。


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