十.境界

10.1

 ――身体じゅうが、内側から蹂躙されている。

 はらわたを喰い破った魔物が、己の中を這いずり回って心臓へと巻き付く。

 ぎりぎりと胸の奥を引き絞られて、美郷はもがき苦しんでいた。

 消灯時間を過ぎた暗いの一室。朦朧として、霞む視界。ベッドヘッドに置いたに必死で手を伸ばす。苦しさと痛みに唸り、呻きながら、どうにか二つ折りのそれを開いて電話帳を呼び出した。震える指でボタンを押し続け、ようやく表示させた番号の名は、『父さん』。祈る気持ちで、発信ボタンを押す。体を折り曲げてうずくまり、虚しく鳴り続けたコール音が、無情な留守番メッセージに切り替わるのを聞いた。

(駄目だ……父さんは、夜は携帯を傍に置いてないのか…………)

 美郷の父親は、ただの一般家庭の父親とは違う。その生活にどれだけのプライベートが保証されているのか、美郷からは知ることもできないほどだ。教えられている番号は父個人のものだと思いたいが、彼はいついかなる時でも息子のために動けるような、家族のためだけの「父親」ではない。

 母親はもとより行方が知れなかった。無事だとは聞いている。彼女の本意でなかったことも。だが二人とも、はどうしようもない現実だ。

 同学年の多くが既に登校していない高校三年生の三学期、深夜の寮に、美郷の他に気配など感じられない。身動きは取れず、助けを呼ぶこともままならない。否、呪術と無縁の一般人に助けを求めて、どうなるものでもない。これは、呪詛だ。世間的には、存在すらも認められていない災厄だ。

 ――今この瞬間とき、美郷をたすけに来る者は、この世に誰ひとり存在しない。

(なんでッ、僕っ……)

 諦めて発信を切り、携帯を床に投げ出す。歯を食いしばって体を丸め、美郷はきつく目を閉じた。苦しい。脂汗が流れるが、手足は冷えていく。少しでも痛みを逃がそうと両足が布団を蹴ってもがく。

 死ぬ。そう思った。窮地にあることを誰に知られることもなく、独りもがき苦しんで、自分は死ぬ。なんと惨めなことだろう。

 ――消えろ。死んでしまえ。お前が居なくなれば……お前さえ、居なければ……!

(何だ、お前は。一体……)

 頭の中に直接湧く、黒々と地を這うような、低い、低い怨嗟の思念がある。呪詛の主のものだ。

(自分で、何とかするしかない)

 救けは来ない。諦めて覚悟を決めた美郷は、己の中を這う魔物と対峙するため、ぐっと深くそれに集中した。悪意が、怨念が、怒りが、憎しみが、美郷を絡めとり絞り上げる。

(……蛇、か)

 瞼を閉じた暗闇の世界に、ぬらりと黒い蛇体が浮かび上がる。己に巻き付く禍々しい大蛇が、美郷の顔の正面に鎌首をもたげた。一対の毒牙が伸びる口を開き、黒々とした蛇が言う。

『お前など消えてしまえ。お前など死んでしまえ。居なくなれ。滅べ。お前も、当主も、誰も、彼も、何もかも。全部、全部。シネ。キエロ――』

 シャーッ、と牙から毒を滴らせて蛇が威嚇する。

「なんで……ッ!」

 自分が一体、何をした。

 ジン、と頭の芯を灼いたのは、目も眩むような怒りと苛立ちだった。鼓動が内側から美郷を殴る。息が震えるのは、苦しさからばかりではない。こんな身勝手な理不尽に、美郷は殺されなければならないのか。

「――お前が誰かなんて、どうでもいい」

 知ったことか。低く低く呟いた。心底そう思う。誰も、美郷を救けには来ない。自分でどうにかしなければ、美郷はただ惨めに独り、謂れもない呪詛に喰い殺される。ただ、それだけだ。相手が誰かも、その理由が何かも、たとえどんな遠大で深刻な事情があったとしても、

 眼前にある毒蛇の首を力任せに掴んだ。喉を握り潰そうと親指に力を込める。

 蛇が暴れて美郷を締め上げる。腕を捻じり上げられて握力が緩んだ。蛇の頭が美郷に襲いかかる。

 首元に、灼熱の感覚が迸った。歯を食いしばって痛みに耐える。口の中に、生臭い血の味が広がる。もう一度、震える両手で蛇を掴んで引き剥がす。

(蛇蠱。喰い合いに勝った蛇。使役神。もう、この状態から調伏はできない)

 蛇はおそらく、実家から送られて来た菓子に紛れていた。昼間、腹痛に悩まされた時点で気付かなかった己が呪わしい。既に蛇は、美郷の体内奥深くに喰い込んでいる。自力で引きずり出すことは不可能だ。

(蛇を、返せれば……どうやって術者と切り離せばいい……!)

 蠱毒で作られた使役は、使役主を慕い服従しているわけではない。支配の術が途切れれば、反転して己を使役した呪術者へ襲いかかる。

 一気に呼吸が苦しくなった。全身の皮膚が爛れたように痛む。腕ががくがくと震えはじめた。悩んでいる暇はない。

 目の前で毒蛇の首がのたうち回っている。

 ……閃いた方法を、一瞬だけ躊躇った。

(なんで、僕が)

 悔しさと、いきどおろしさと、恨めしさと。あまりにも強いそれゆえに、美郷は与えられる「死」を受け入れることができない。このまま黙って、むざむざと殺されてやることなど、できはしない。

 ――この世界の誰も、自分を救けてくれないのならば。

 理不尽を押し付けてくる世界に、己を見捨てる世界などに、殺されてたまるものか。たとえ、呪詛の毒蛇を喰ったとしても。

 生き残る。

 浅ましかろうと知ったことではない。その行いを指弾する者があったとして、それは自分を救いなどしなかった。自分のために動けるのは、最後に自分を守れるのは自分だけだ。ならば、その手段も他人に与える結果も、知ったことでは、ない。

「――ッちくしょう!!」

 美郷は、威嚇する毒蛇の頭にかぶりついた。

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