温泉
案内されたのは離れのような静かな場所に建つ部屋だった。それほど広くは無いが、居心地の良いその部屋は、どこか
「凛様、
「温泉、入ってきたら?」
小さな窓から差し込む光は、凛に影を落とした。
「凛からどうぞ」
彼に対しての疑念が消えたわけでは無いが、凛とてここまで追いかけてくるのは流石に疲れただろう。それに、桜綾との対話は私だって疲れてしまった。ここは凛に譲るべきだろう。
「じゃあ一緒に入る?」
予想だにしなかった返答に反射的に彼を見る。凛はいつの間にか私の目の前にいて、いつもと変わらない笑みを浮かべていた。
「はぁ?!な、何を突然‼︎」
何か言おうと口を動かすが、どれも音にならない。きっと凛の目には餌に群がる鯉のように写っていることだろう。
「だって僕たち夫婦らしいこと何もしてないじゃない」
拗ねたように唇を尖らせる凛。“夫婦らしいこと”とはつまりそう言うことで、私は頭が真っ白になる。
「それは、でも、だって私……」
「村にいた頃はまだ雷麗の身体も本調子には見えなかったし気を遣っていたけど……こっちに来てからはマーサに邪魔されてばっかりだったしね」
心底うんざりしたように言う彼に疑う心はすっかりなりを潜めてしまった。そうして
「雷麗はちゃんと変われているよ」
「え?」
はぐらかすように頭を撫でられる。手首越しに見える口元は緩く弧を描いているが、彼は本当に笑っているのか、それとも安心させるためだけのものなのか。どちらにせよ、この手の温もりに安心感を覚えた。
「雷麗って本当にずるいよね」
「……どう言う意味?」
「いや、わからなくていい。むしろそのままでいて」
意味がわからず首を傾げると、こちらへ走ってくる軽い足音と、それを追いかけるような少し重い足音が聞こえてきた。
「待て!天!」
どうやら天と、天を追いかける梓雨のものらしい。あっけに取られる私は凛と顔を見合わせてどちらからともなく笑ってしまう。
「凛様!雷麗様!」
勢いよく扉が開き、嬉しそうに微笑む天と、すっかり疲れてぐったりしている梓雨が現れる。
「温泉!凄いよ‼︎」
これほど目を輝かせている天を私達は初めて見た。
…
二人の案内の元、凛と共に裏に回ると柵の向こう側に湯気が上るのが見える。ほんのりと香るのは好みの分かれそうな温泉の匂い。その証拠に梓雨は顔を顰めた。
「あら、入り口は二つあるのね」
見れば温泉を囲うようにして立つ木製の柵には戸が二つある。それに反応したのは凛。
「一緒に入れないってこと……?」
「やめて凛、梓雨がもの凄い顔になっているわよ。子供の前では自重して」
見た事がないほど打ちひしがれる凛と、心底気持ち悪そうにしている梓雨に、もはや温泉にしか興味のない天。混沌とした状況を放置して私はさっと戸を潜った。
先ほどまでより香りが強くなる。戸の内部は脱衣所で、床の方が温かい。地熱を利用しているのだろうか。さっさと服を脱ぐと、外に出る。途端に身体が冷えて私は急足で温泉に近づいた。
掛け湯をして体を慣らしてからゆっくりと浸かる。適度な温かさは縮こまった体の血流を良くし、疲れが溶け出すような心地に包まれる。と、隣からも賑やかな声が聞こえてきた。
「天、走るな。転ぶと危ないぞ」
流石梓雨は面倒見がいい。
「掛け湯を忘れずにな。お前達は身体が弱いからショックで心臓が止まるぞ」
凛の余計な一言で二人の声は止んでしまったが。相当怯えてしまったようで、向こうから聞こえてきたのは温泉の入り方を教える凛と素直に従う二人の返事。
まったく、凛はもう少し言葉を選べないものかしら。
なんて、
「心配するな、掛け湯さえすれば問題ない」
凛の声の後に二人が気持ち良さそうに息を吐く声が聞こえてきて、私は堪えていた笑い声を漏らしてしまった。
「雷麗、聞いてたのか?!」
ギョッとする梓雨に、バレてしまってはと声をかける。
「ええ、ずいぶん賑やかだもの」
「そっちはどう?」
「一人でゆっくり浸かるのも悪くないわ」
「ちぇー僕も雷麗と入りたかった……」
凛の言葉に先ほどまでの梓雨の顔が浮かんだ。きっと今も心底嫌そうな顔をしている事だろう。私の予想は当たっていたらしく、隣からは「梓雨、さっきからその顔……やめなさい」なんて嗜める凛の声が聞こえてきた。
「凛こそ、いい加減にやめたら済む話だわ」
梓雨に助け舟を出せば「そーだそーだ」と聞こえてくる。凛の「雷麗?!」と言う悲鳴は無視よ、無視。
……そういえば、天が静かだ。
「天は何をしてるのかしら?」
「天ならジジイみたいに楽しんでるぞー」
「ジ?!……梓雨酷いよ……」
パシャリと音を立てて天の声に
“いつか、僕を必要としてくれる人が現れるだろうか”
低い声が自分の身体に響いた。
頭が痛くて、痛くて、早く出ようと立ち上がるも、視界が揺れて湯船に膝から崩れ落ちる。きっと水面にぶつかった衝撃が大きな音になって隣に聞こえているはずなのに、不思議なことに私の耳に音は届かない。それどころか、湯の熱さえ、何も————。
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