説得
「僕は反対だ」
「そうですか」
あの日から、今まで会えなかったのが嘘のように毎朝帰って来てはそう言う。他にも、何かと理由をつけて此方へ来ては考え直すようにと言って聞かない。そもそも相手方には既に話はつけてあるのに今更なかったことにはできないのだ。凛だってそれはわかっているはずなのに。
「どうしてもと仰るならそれまでに仕事を終わらせるのが最善の策ではありませんか?」
こんな所で油を売ってないでやるべき事をやりなさいよ。私が発つまであと二日。……いい加減諦めて欲しい。宙の事を思えば時間が足りないくらいなのに。
「……凛、私は天と梓雨に約束したの。必ず宙を助けるって。それは、凛も同じでしょう?だから、これ以上邪魔をしないで」
今までよりずっとキツい言い方をした。そうすることで、彼が目を覚ましてくれたらと思ったから。凛は納得はしていない様子だったけれど、それ以上は何も言わずに執務室へ向かった。
「強引すぎたかしらね」
独り言と言うには大きな呟きに、傍で控えていたリーチェは私を励ますように「いえ……」とだけ言ってくれた。
「今はとにかく、宙の事を最優先で考えたいの。凛から逃げていると言われれば、否定はできないけれど」
マーサと彼の事が脳裏を過ぎって、毎晩すすり泣く。それに反応するようにここ数日は吐き気が止まらない。体は覚えているのだ。“あの日々”を。久しく忘れていた胃の不快感は、再び私を苦しめる。思わず胃液を袖に付けてしまった。痙攣するようにびくりと吐いたあの時だ。心配そうに休むよう勧めるリーチェに、大丈夫と気丈なふりをした。今日は梓雨と天が会いにくる。控えていた侍女に書物で散らかった部屋を片付けるよう伝えて、私は着替え直した。そして、普段はあまりしない化粧を施して、顔色の悪さも隠す。
実は、日を追うごとに梓雨からは、やはり考え直そうと言う旨の言葉を度々言われていた。けれど、その度に不安を取り除いてやるしかなかった。それなのに、今私がここで元気がない事を知られてしまったら、梓雨も本格的に私を止めるだろう。
「大丈夫。私は大丈夫よ……」
言い聞かせるように呟いた。
——お前は大丈夫だよ。俺が保証する。
不意に、懐かしい声でそう聞こえた気がした。懐かしい、とは言っても私はその声の主を知らない。ただ、涙が思わずこぼれるほど温かいその声は、不思議と私の心を癒してくれた。
「王妃様、支度が整いました」
鏡を見せるリーチェの微笑みが誰かと重なる。
「ありがとう。行きましょうか」
私が部屋へ行くと、すでに二人は待っていた。けれども、その部屋にいたのは二人だけではない。その向かいに座るのは黒髪の少女……マーサだった。
マーサは私に気がつくと、小さく口角を上げて私を挑発する。いったい二人に何を吹き込んだのか。二人をチラリと見れば、その視線は決してマーサを許容してはいなかった。
「それでは、私は失礼します」
丁寧なお辞儀をしてマーサは去っていった。彼女の揺れる三つ編みが壁の向こうに消えた頃、梓雨は悪態を吐く。
「何だよアイツ。なんで凛様はあんな奴と仕事をするんだ」
「あんな奴って……マーサは側近として凛を支えているのだから、言葉には気をつけないと」
嗜めつつも言葉自体は否定しない。気持ちは私も同じなのだ。不貞腐れたように返事をする梓雨、けれどすぐに心配そうに私を見た。
「最近の凛様、おかしいよ。雷麗の事放っておいたり、邪魔したり……」
「そうね。でもきっと凛にも事情があるんだわ」
梓雨が私を呼び捨てにする事をきっと侍女達は赦しはしない。だから、この時間は人払いをしてあった。
だからこそ、少し込み入った話をするのにも適している。
「彼がもし、マーサを選んだとしても、今回の事だけは私が必ず何とかするから、だから心配しないで」
「俺が心配してるのはっ!……そう言う事じゃない……」
「……ええ」
それがわからないほど私だって馬鹿じゃないけれど、その優しさを受け入れられるような器を、私はここでは持てない。はぐらかすように、私は話題を旅の方に移した。
「……今日呼んだのは、二日後からについて、説明したかったからなの」
二日後、私達は城を出て張の国を訪ねる。野心家な一族だけど、現王の娘とは歳が近いこともあり幼い頃からの友人だ。だから、決して私を無碍にはしないだろう。そこでは二日間ほどの滞在になる。とても駆け足な予定だが、向こうもそれについては了承してくれている。寒さの厳しい北の地に住む彼らにとっては今の時期人をもてなす用意もあまり無いからだろう。
その次に向かうのは丁の国。いまいち考えの読めない一族だが、私のわがままを知りつつも大人な対応を貫いた王子がいた。彼は丁一族始まって以来の秀才と謳われている。今回の事も彼がとりなしてくれていた。丁の国では滞在が三日間ほど。これに関しては、完全にこちらの事情だったが、丁の王子はそれで構わないとの事。
丁の次は陳。この国は滞在が最も長く一週間もある。王は気難しく嫌味ばかりの男だが、特に私のことは嫌っていないようで、むしろ元婚約者であり、凛に殺されたこの国の元王子を煙たがっていた。学がない愚か者だと酒が入るといつも言っていた。決して凛に勉学の素養があるわけではないが、陳の王が嫌うほど馬鹿ではない。今回は凛が同行する事もないが、もし来たとしても良好な関係を築けていたと思う。
最後は楊。五日の滞在期間の間に、私達は宙を探し出し、何とか連れ出す算段を付ける予定だ。もしくは、その糸口だけでも見つけたい。未来の王妃と言われていた時代でも、楊との関わりは無いに等しい。確かあの頃は老婆が王と呼ばれていた記憶があるが、梓雨達の話によれば世代交代があったようだ。そうなると、私にもわからない事が多い。油断はできない分、いざと言うときに備えておかなければ。
「あなた達は私の側近として連れて行くから覚悟と準備は念入りにね」
「……本当に良いのか?」
「え?」
「今行くことが、雷麗のためになるとは思えないんだ」
私は大丈夫。そう伝えたくて梓雨の頭を撫でようとしたとき、天が口を開いた。
「僕も嫌な予感がする」
「大丈夫よ」
この時、私は二人を抱きしめた。弟にするように、優しく優しく抱きしめた。
結果として、急いたことを後悔することになる。
私はこの旅の中で死んだ。
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