提案
その日の晩、凛はやはり帰って来なかった。けれども今日は、はいそうですかと引き下がるわけにも行かない。
「リーチェ、少し出かけるわ」
「どちらへ行かれるのですか?」
「執務室よ凛に話したいことがあるの」
各国への挨拶の件、凛には伝えておかなければ。リーチェと連れ立って凛の元へ向かう。
しん、と静まり返った廊下で、リーチェの持つ灯りと月明かりだけが私の足元を照らした。
「凛は、何をしているのかしら」
妻である自分を放って仕事漬けの日々。隣には年頃の娘を置いて——いや、わかっている。凛が自分を裏切ることは無いと頭では理解しているのだ。それでも、そうと割り切れないのはきっとこの場所のせい。
「大丈夫ですよ」
振り返るとリーチェが微笑んでいた。
「あの方の頭の中にあるのはいつだって雷麗様ですもの」
彼女の言葉は不思議と私の胸にスッと入ってきた。胸が温かくなる。彼女は不思議な人だわ。
凛の部屋の前まで来ると、中からとても楽しそうな声が聞こえてきた。仲睦まじい男女の声。
「覚えていますか?初めて会った日の事」
女が言った。
「ああ、君は僕の向かいの席に乗ってきたよね」
男が言う。
「はい、**から出て気が付けば列車に飛び乗っていました」
二人の会話は本当に仲が良さそうで、けれど私の耳にこびりつくのは二人の会話の内容。どこか、遠い昔に私はそれを見ていた気がする。
——見ていた?
強い吐き気に襲われて私はその場に倒れ込む。
「雷麗様⁈」
私を呼ぶリーチェの声が遠のいた。心臓の音がうるさいくらいに耳の中で反響する。やめて、私はまだ思い出したくない。誰か、誰か私を助けて。
まるで海の底に沈んでいくように私は意識を手放した。それでも、波に連れて行かれるように脳が揺さぶられる。遠くに何か光が見えた。手を伸ばしても届かない幻。あれは、そう。***の頃の————。
「雷麗‼︎」
目を覚ますと見慣れた天蓋と凛の顔が見えた。
けれども私は
「やめろ、触るな‼︎」
彼を拒絶した。
「あ、違うの……凛、私……あれ、何で?……あの、ごめんなさっ」
私の態度に傷ついたように凛は俯いたまま部屋から出て行った。追いかけようとベッドから起き上がるも、すぐに目の前が真っ白になってベッドの傍に落ちる。侍女が駆け寄るも、私はその手を制して凛の後を追おうと駆け出した。
「凛様、どうなさったのです?」
廊下の先で、マーサは俯いた凛を抱きしめ、その頭を撫でている。心が壊れてしまいそうだった。いや、壊れてしまった。私は途端に自分が惨めに思えて、部屋に戻ると、呼ぶまでは誰も部屋に来ぬようにと命じた。
その日からは淡々と凛に手紙を書いた。侍女には凛に直接渡すように、マーサには見せぬようにと言っておいたらその日のうちにマーサから文句が飛んできたが、王妃と言う立場を存分に使った。
まずは、この国の貴族を呼んでの簡易的な宴をする事、次に、仲の良い国を呼んでの宴ををする事を綴った。そして、その招待状は王妃である自分が直接届けるとも。私がいくのは四つの国。張、丁、陳そして楊。これは言わば敵情視察を目的としたもの。であると同時に、張や丁など、私個人が面識のある国に私が赴く事で、これまで通りの仲を築きたいと言う意思を明確にしたいと言う気持ちもある。
発つのは一週間後。すでに、訪ねることは私的な書簡で相手方には伝えてある。そして、全ての家からそれなりの返事は返って来た。張と丁は悪くない返事。陳は少し嫌味が混じっていた。何故遅くなったのか、とかそちらより先にこちらにもてなせというのか、とか。意外だったのは楊で、心よりお待ち申し上げます、と言うたった一文だけが書かれていた。滞りなく進んでいると言う点では、順調と言える。
「反対だ」
今朝開口一番それを言うためだけに帰ってきた凛を除いては。
「反対?なぜ?」
言葉の棘は自然とできたものだが、とる気はない。凛はそれでも怯まずに真っ向から否定して来た。
「危険過ぎる。どうしてもと言うのなら僕も一緒に行く」
「そうしてくださると有り難いけれど、貴方には仕事があるでしょう?せっかくマーサと過ごせるのだから此方の事は気にせず仲良くなさったら宜しいではありませんか」
決して声は荒げない。それがここの規律。思いがけない反発に面食らったように凛は黙った。フン、と鼻息を漏らして凛を追い出す。危険とは言うが、蒼家の人間にも護衛として付いて来てもらう予定なのだ。相手がよっぽど人間離れした策で私を殺そうとしない限り大抵のことは問題ないと思う。各地へ向かうと決まってから何度か訓練の様子を覗いていたが、革命を起こしただけあって鍛え上げられている。
彼らがいれば最悪の事態は免れるだろう。
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