シシ病
先に帰った私は、凛の家にある道具の確認と手入れをする。埃を被ったそれらは今のままではとてもじゃないが使えない。どれも古い型だが丁寧に使われていたようで特に破損は無く、そもそも叔母のお下がりを使っていた私には使い慣れた物だった。
——凛のお父様が使っていたのだろうか?
そう考えて頬が緩む。凛のことを何も知らない私にとって、彼の背景が見える情報は嬉しかった。未だ彼自身の事を好きなのかは分からないけれど、好きになるために彼のことが知りたい。
——本音を言えば、昨晩の事もあって凛が信用に足る人物かは分からないけれど、私の前で無邪気に振る舞い、私のためにと行動してくれる彼を心から信じたい自分もいる。
「でも、踏み込む勇気はまだないのよね」
現状私にとっては束の間の幸せであるこの時をまだもう少し楽しんでいたい。詳しいことはわからないけれど、彼について知ることに対し、私自身が漠然とした恐怖を感じている。
そしてそれは彼だけの問題では無いと考えている。
彼が言った“やっと見つけた”の意味が分かれば答えは出るのだろうか——。
「やめやめ!気が滅入るだけだわ」
両の頬を掌で叩いて嫌な思考を追い出す。とにかく今は村の人と打ち解けるためにも早く薬作りの支度を済ませなければ。
あらかた拭き終えた私は消毒用の湯を頼もうと立ち上がる。その時、ちょうど家の戸が開いた。
「遅かったわね、今からマネ様の家に行くから薬草はそこに……って、マネ?」
凛が帰ってきたと思っていた私はマネの姿を見て固まる。先ほどの恨みも込めてきつい言い方をしてしまっただけに、マネの反応が怖い。
しかし、マネは何も言わずにただ立っているだけ。よく見ると肩で息をし、発汗が酷い。駆け寄って支えるように肩を回せば、マネの体がだらりと私に預けられる。
額は熱く、私の声が聞こえないのか呼びかけに返事はない。
「顔は白くて目の下には赤い筋……まさかシシ病?」
シシ病とは、数年前に都で流行った感染症の一種で、普通の人はまず罹らない。と言うのも、これは人為的な事件に未知の病原菌が合わさって広まった病なのだ。
人為的というのは、当時、都を騒がせていた通り魔事件の事で、このシシ病は切り傷などの傷口から入り込み全身に回る。そして何故か罹患者は皆この事件の被害者だった。
幸い罹患者から感染した人々の症状は軽く直ぐに完治したが、傷口から感染した人々は誰も助からなかった。
そしてマネの症状は、傷口感染者によく見られた
「ごめんね」
一言断ってマネの服を脱がせると、背中に何かに引っ掻かれたような大きな傷痕があった。まだ幾分新しく見えるそれは直ぐに処置をしなかったせいか化膿している。
「酷い傷……」
私は家を飛び出してマネの家の戸を叩く。慌てたように飛び出してきたマネの母親に沸騰させた湯の用意と清潔な布の準備を頼むと、家の前にいた凛から籠を受け取りマネの元へ戻る。
「どうしたの?」
私の様子に異変を感じたらしい凛は、マネを見て目を見開いた。
「マネがシシ病に罹ってしまったみたいなの!お願い、凛なら背中の傷を治せるでしょう?」
「……ああ」
「お願い助けて!」
悲鳴にも似た声で叫ぶ私に、凛は冷めた声で「雷麗がそう言うなら」と呟いて、マネの背中に触れる。
背中の傷を凛に任せ、私はマネの母親が持ってきてくれた熱湯を使い道具を消毒する。
「凛様、何をなさるのです‼︎」
マネの母親がマネの様子を見に奥へ消えて直ぐ、そんな声が聞こえてきた。何事かと部屋へ行くと、突き飛ばされたような凛と、マネを守るように抱きしめるマネの母親の姿があった。
「どうしたんですか?」
私がマネの母親に尋ねると、彼女は魚のように口を開けるだけで声にならない。
「リョウ、僕は今君の娘を治療しているんだよ」
凛は笑みを浮かべて二人に近づくと、マネの母親の額を人差し指で後ろに押した。何の抵抗もなく倒れたリョウは、その様子からどうやら眠ってしまったらしい。凛は中断された治療の続きをしながら私に薬を急ぐようにと指示を出す。我に帰った私は戻って薬草の選別をする。
月香の葉、春報の蕾に腐衷茸の傘、そして、最後は露梅の葉。これらを一つ一つ丁寧に煮出し、混ぜる。
「できた!」
薬を手に戻ると、ちょうど治療を終えた凛がマネに布団を掛けていた。
「できた?」
「ええ」
「じゃあ、僕はちょっと出てくるね」
布団を捲ると傷なんて嘘のような綺麗な背中が見えて、安堵のため息を漏らす。マネに服を着せて仰向けにすると、抱き上げて口から少しずつ煎じ薬を流し込んだ。
そうして二時間ほどで煎じ薬が無くなった。マネの目の下の特徴的な赤は薄くなったもののまだ完全には消えていない。
それを見て私はマネを寝かせると、再び薬を作る。
この病気に罹った人が亡くなった理由に、この手間が挙げられる。症状が軽い人々は意識もあり、自分で薬を飲んだが、重い人は誰かが飲ませてやらなくてはならない。しかし、常に誰かが見張るにしても限界がある。
国は症状の軽い人々を優先的に看病し、重病人を見捨てた。
その声が私の元に届くことはなかったけれど、私だって人の子だ。被害者の情報に目を通すたびに心が痛んだ。
シシ病の最期はお世辞にも美しいとは言えない。目の下から始まって全身に赤紋が広がり、最終的にそこから皮膚が裂ける。それを防ぐためにも、私は素早く正確に薬を煎じていく。
途中からはリョウも目を覚まし、私が作っている間マネに薬を飲ませてもらうようにした。
白む空の中、最後の一滴を飲み終えて穏やかな寝息を漏らすマネを見たところで私の意識は途絶えた。
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