笑顔

 リンの帰りはいつもより早かった。妻を案ずる旦那としては当然のことかもしれないが正直心の準備ができていなかった私は完全に不意打ちを食らってしまった。「おかえりなさい」と言ったとき私は上手く笑えていただろうか?なんて、言ってすぐに凛が私を抱きしめたのだから失敗したのだろうけど。


「君は何もしなくていいんだよ?」


 その一言は鉛のように重く、吐き気を誘発して胃の中に落ちた。反射的に涙がにじむ。穏やかで、労わるような声色が余計に苦しくさせた。

——違う、私が欲しかったのはそんな言葉じゃ無いのに。

無意識のうちに私は凛の胸板を押して距離をとる。凛の顔を見れば私の行動に戸惑ったように目を見開くだけ。ふと、それが夜空に浮かぶ月のように見えてとても恐ろしく感じた。


「違うんです。私が仕事をしたいんです。なんでもいいから役割が欲しいの」


 所在なさげな右手首を左手でつかむ。彼の目を見るのが怖くて視線を下に落とした。流れる沈黙は重くて私が何か言うべきなのかと紡ぐ言葉を探すが見つからない。ふいに凛の手が私の頬に触れた。大きくて温かい自分のものとは違う手。それは私の不安を吸い取るようで冷え切っていた心が温まる。


「だったら、貴方のできることをするべきだ」


「私にできる事?」


 思ってもみなかった言葉に彼の表情が気になって顔を上げれば、いつものふにゃりとした笑みを浮かべていた。彼はゆっくり頷くと棚に置かれた壷を手に取り蓋を開ける。


雷麗レイリーは薬草の知識があるでしょ?それを活かして薬を作るなんてどうかな?」


 薬草、確かに私は叔母に習ってたくさんの知識を詰め込んでいた。けど――。


「李族は自分で傷を癒せるのでしょう?」


 ここへ来たばかりの頃凛は私を治療してくれた。あの力から見れば、私の薬学知識なんて微々たるものだ。しかし、私の一言はなぜか凛の表情を曇らせる。


「それは僕だけなんだ。皆は自分で治すなんて不可能だよ」


 ――知らなかった。てっきりみんな好きに治すものとばかり……。無意識に口元に手を添えて、凛から視線を外す。


「そうじゃなきゃ、大量虐殺なんて成立してないさ」


 まるでその目で見てきたかのように憎しみの籠った瞳に何も言えなくなってしまった。脳裏によぎる李族の過去。あれだけのことがあったのだ李族の中で決してその怒りが風化することはなかったのだろう。李族の中でもおさである彼の家系は特にそれが刻み込まれているのかもしれない。

 かける言葉が見つからずに押し黙る私に、彼はまたふにゃりと微笑んだ。その顔はどこか作り物めいていて、背筋が凍る。息が詰まった。


「今日はもう遅いから続きは明日にしようね」


 優しく触れられた手に体が固まる。促されるまま布団に入るが、胸の中でゆっくりと膨らむ不安に凛に背を向けて眠った。少しでも胸の中の嫌な感情を吐き出したくて深呼吸する。静かに、静かに。けれども一度浮かんだ疑問はそう簡単には消えてくれないらしい。


 彼はなぜ初めから私の名前を知っていたの?

 ――私のことなんてほとんどの人が知っているはずだわ


 彼は言ったわ“やっと見つけることができた”と

 ――きっと過去にどこかで会ったことがあるのよ自分でも思い出せないほど遠い昔に


 マネが彼の存在を必死に訊ねてきたのはなぜ?

 ――それは私が突然現れたから許可を取ったのか知りたかったのよ


 なら、どうしてあの子はあんなに怯えていたの?

 ――きっと見間違いだわ。あの子が怯えているように見えたのは私が、だから、えっと


 さっき貴方は感じたはずよ。

 彼の笑顔は熱を持たないこと。

 そして思ったはずよ


 ――彼はいったい何者なの?


 疑問が頭に浮かんだ瞬間突き刺さるような視線を背後に感じて飛び起きた。恐る恐る振り向けば、四肢を投げ出して気持ちよさそうに眠る凜の姿があるだけ。安堵のため息を漏らし、考えすぎだと布団にもぐりこんだ。布の向こう側から聞こえてくる彼の寝息が痛いくらいに脈を送る心臓を徐々に落ち着かせてくれる。それからどれくらい経ったのかはわからないが、気づけば朝が来ていた。


「おはよう、気持ちのいい朝だね雷麗」


 朝日のもとで見る彼の微笑みは人にしか見えなかった。

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