会食
目が覚める頃にはすっかり日も傾いていた。さらりと部屋の中を通る風が心地よくて、そっと目を開けば私を連れだしてくれた男が隣で眠っている。灰色の髪は柔らかく、閉じた瞼を縁取る睫毛はとても長い。
……やっぱり整った顔だわ。――ってそうじゃない‼︎
「あ、あなたね……!」
「よかった、喉治ったみたいだね」
生娘の寝床に断りもなく入り込んでいた不届き物を怒鳴りつけようと声を荒げると、その声に目を覚ました彼がふにゃりと笑う。言われて、喉に手を当てると、確かに呼吸をするときのヒリヒリとした痛みはない。もう随分とまともに出していなかったけれど昔のままの澄んだ声が出た。
「寝ている間に治療してしまったんだけど、問題ないみたいでよかったよ」
眠たそうにあくびをして一言。彼の言葉に私の耳がピクリと反応する。寝ている間に治療、とはどういうことだろう?一度気になると納得のいく答えが出るまで気が済まないのが私の
「薬も何もこうするだけで十分でしょ?」
「何するのよ‼︎」
彼の行動に悲鳴を上げる。自慢じゃないが、口づけなんてしたこともされたこともない。本当に自慢じゃ無い。都にいたころは自分から腕に触れることはあっても、男の人から触れられたことなどなかった。相手が婚約者であろうと、だ。
初めてのことに喉元から頭にかけて熱を帯び、生まれて初めての感覚に脳が混乱する。
「あなた何をしてるの?結婚前の女性の身体に触れるだなんて、非常識だわ‼」
「
彼はそういうと、人差し指を私の唇に当てる。すると途端に声が出せなくなってしまった。口は開くが声が出てくれないのだ。次に彼は私の両手首を押さえつけ、私の着物に手をかける。正中線に沿うように開かれた服に羞恥のあまり思考が停止する私。けれども彼はそのまま喉の下へ点で口付けて行く。やがて肋骨の下まで来ると、ようやく私から離れた。自由になった手で思い切り頭を叩く。
「これでどうだろう?とりあえず炎症が起きているようなところは――――痛いっなにするのさ!」
「なにもないわ!こんなことするなんて貴方……」
「だから治療だって!君があまりにも食道を酷使するものだからこのままでは胃に穴が開いていたんだよ?」
「そんな言い訳が……痛くない?」
胃のあたりをさすって確かめる。彼の言う通りここしばらく私を悩ませていた胃の張りや不快感が消えていた。ということは、彼の言う治療とは本当のことなのだろうか。にわかには信じがたいが事実全く痛くない。
「ふふふ、元気になってよかった。そろそろ夕食の支度が整う頃だし行こうか」
立ち上がり、手を差し出してくれる彼。そっと手を重ねようとしたとき、視界に入る骨や血管が浮き出た醜い甲に手を止める。喉や胃が治ったところで長い時間をかけて失ってきた栄養までは戻らない。自分から見えないだけで、きっと顔や体も見れたものではないのだろう。
「本当に私なんかでいいの?」
都にいた頃ならまだしも、今の私は地位も美貌も何も持っていない。
それに対して彼は幼さの残る凛々しい青年の顔立ちに、健康的に焼けた肌、夜空の星をちりばめたように輝く瞳を持っていて、まるで天上人のようだ。
すっかり気後れして出しかけた手を胸元に手繰り寄せると、彼は優しくその手を包んだ。
「僕は君の気高い美しさを知っているよ。容姿なんて些細なことじゃないか。何も心配しなくていい」
柔らかく微笑む彼を見て卑下する自分が恥ずかしくなった。
——彼は私を必要としてくれている。それで十分じゃない。
「貴方が見つけてくれて本当に良かったわ」
そっと手を開いて、彼の手に絡める。彼は微笑んでその手を優しく握ってくれた。
「……僕もやっと見つける事ができて本当に嬉しいよ」
外に出るとよくわかるが私がいた建物はそれほど広くないらしい。別邸の四分の一にも満たないような小屋のような建物だったが最低限寝泊まりするには十分な広さがある。
その建物は広場を見下ろすような一段高い場所にあった。ということは、家主である彼はそれなりの位ということ。広場はこの村の中心の様で、子供たちが駆け回ったり、囲むよう色とりどりの
彼が案内してくれたのは彼の家の横にある開放的な食堂で、木製の長い机と椅子、柱と屋根だけのとても簡素な造りだった。そこに、広場や家の中にいた人々が集まってくる。彼が私に勧めたのは彼のすぐ隣の席。
「今日はマネの家が支度をしてくれた。皆命に感謝しよう」
彼の言葉にみんなが指を絡めるように手を合わせじっと黙っている。郷に入っては郷に従えというし、私も見様見真似で手を合わせた。
「それではいただこう」
言うが早いか、みんな一斉に料理を自分の皿へと盛る。今まで一人、勉強部屋で食事を摂っていた私は圧倒されてその様子をしばらくじっと見つめていた。そんな私を見かねてか隣に座っていた少女が私に料理を取り分けてくれた。
「ありがとうございます」
「……」
これも本当に自慢ではないが生まれて初めてお礼を言った。……けれど返事はなかった。反応が無いことがこれほどショックを受けると知らなかった。今までの自分は本当に褒めるところが一つもないような人間じゃないか。けれども彼女は落ち込むように項垂れる私のために飲み物を取ってくれたり競争の激しい食べ物をとってきてくれる。
――嫌われてはいないのかな?
お皿が空になり、みんな満足そうな顔を浮かべる頃、いつの間にか彼らの視線は私に集中していた。居心地の悪さに隣を見ても私を連れてきた張本人は気づいていないのか食べる手を止めない。
「あの……」
声をかけようとしたとき、食べ物を散々運んできてくれた親切な少女が私の腕を軽くつかんでそれを制止する。吸い込まれそうなほどきれいで真っ黒な瞳と目が合って、出かかった言葉がつっかえる。まるで“今は食べさせてあげてください”と言っているように見えた表情に、それもそうかと彼の食事が終わるのを待った。
やがて彼の腹が満たされる頃、誰かが彼に問いかける。
「その女性は誰ですか」
その一言を皮切りに、その場にいた人々が思い思いの質問を投げかける。
「私の嫁だ」
彼の言葉に一瞬音が消え、またすぐに空気がざわつく。そしてその中で私に突き刺さる視線がちらほら。目線だけ動かしてみれば、それは全員女性だった。その中でも特に目立っているのは四人。一人目は、彼の斜め前に座る赤がとてもよく似合う気の強そうな女。二人目はその女の隣に座る黄がよく似合う一見おとなしそうな女、三人目は私の斜め前に座る緑が似合う可憐な女。そして四人目はその隣に座る私に料理を取り分けてくれた青の似合う綺麗な女。彼女たちを見ていると、彼は私に彼女たちを紹介してくれた。
「赤い着物がリーチェ、黄色い着物がフェウで緑の着物はマーサ、青い着物がマネと言う。彼女たちはかつて私の花嫁候補だった女達だ」
彼の言葉にぎょっとする。つまり、彼女たちにとって私の存在は、私にとっての姉ではないか。とんでもない修羅場を予感して、頭の芯から血の気が引いていく。が、彼女たちは思いの外安堵したような表情を浮かべているようにも見えた。
「それと、言い忘れていたけど、僕は
「丁寧な挨拶感謝いたします。
腕を顔の前で重ね膝をついて頭を下げる。李族での作法は知らないが、これがこの国において最大限の敬意を表す作法だ。少しでも伝わればと、これまでで一番丁寧に指先一本に至るまで気を遣ってして見せた。そんな私に、彼は頬を掻いて苦笑する。
「そんなに畏まらないで。僕たちはもう家族になるんだから」
「いえ、たとえ家族であろうとも礼儀は重んじるべきです。それに今は最初のご挨拶、いいかげんにはできません」
頑固な自覚はあるが、受け入れてくれる人たちのためにも、これまでの自分を断ち切るためにも、きちんとけじめをつけておきたかった。そんな私の頭を凛は優しくなでる。
「もう十分だよ」
「はい」
顔を上げたところで、リーチェと目が合った。よく見ればリーチェの半歩後ろに三人が、そのさらに後ろに村人たちが並んでいる。みんなを代表するように一歩前に出ると見た目に反してか細い声で歓迎の挨拶をしてくれた。
「私たちは雷麗さんのことを心から歓迎します。……そしてどうか凛様のことをお願いします」
老若男女すべての人が頭を下げる。その光景はかつて都で見たものと、重なり自然と足が震える。
自分が散々軽んじてきた人々、そして当然のことではあるが、その誰もが私を見捨てた。思い出す、誰も見送ってはくれなかった。当然だ、彼らが頭を下げていたのは私では無いのだから。数年前の景色が呪いのように私の喉奥を締め付け苦しくなって上手く立てない。
けれども肩に回された優しい手がそんな私を支えてくれた。
——そうだわ、あいつらと今目の前にいる人達は違う。私を追い出しその生死に関心さえ持たない彼奴等と、私を受け入れてくれるこの人達。
叶うなら、この人達の期待に応えられる私でいたい。
「こちらこそ、これからよろしくお願いいたします」
この李族で私の第二の人生が始まるんだ。
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