第一章

籠からの解放

 国のはずれ、かつては避暑地として使われていたこの別邸はすでにその面影もなく、伸び放題の草や竹林に囲まれ終末を思わせるほど寂れていた。建物内は麓に住むかつての使用人夫婦が定期的に手入れをしているらしく、幸い目立った汚れはない。私が寝室にと選んだのはかつて尊敬する叔母が使っていた部屋。四季の間と呼ばれるその部屋は庭を一望でき、全盛期の頃はこの部屋から咲き乱れる草花を愛でていた。とは言っても今となっては伸び放題の雑草に花は居場所を追われ、見る影もないのだが。

 私がこの部屋を選んだのにはもう一つ理由があった。それは、四季の間から廊下を出てすぐ突き当りの扉、そこを出たところにある離れの調合部屋への移動がしやすいこと。庭には花だけでなく薬草も植えられており、それを叔母がよく調合していた。薬草の知識だけは数多くある勉強の中でも私が唯一進んで学んでいた学問だった。

 ――今はまだそんな気分になれないけど、いつかはね。

 そうして私は部屋を決めた。

 けれど私の心は俗世から隔離されたこの別邸で日ごとに病んでいった。“療養として連れてこられた”とは、世話に来る使用人夫婦から聞いた表向きの話。けれども誰も見舞うものはいない。私は本当に捨てられたのだと悟り、涙を流す。

 涙では足りず食べたものを吐き出した。

 それでも足りず胃液を垂らした。

 いままで使ったことのないくらい横隔膜の筋を使うが、それでも落ち着くことはなく、いつも決まって最後はだらりと四肢を投げ出し横になったまま人形のように動かなくなる。そのまま意識を失い、また目が覚め、暫く経つと孤独、後悔、屈辱、恨み、妬みが襲ってきて息ができなくなる。

 別邸へ来て一年ほどで私は見る影もなく弱っていった。

 美しくハリのあった艶やかな黒髪は細く軋み、白い陶器のような肌はくすんで荒れが目立った。自信に満ち溢れていた瞳は光を失ったように虚を見るばかり。

 いつしか麓には山の中の屋敷には幽霊が住み着いているとまで言われる有様。けれどもそんな話さえ私のもとには入ってこなかった。

 最後に聞いた外の話は姉と元婚約者が夫婦になったというもの。

 その時の発狂ぶりは手が付けられないほどで、伝えに来た使用人の妻はあまりの恐ろしさに逃げ帰った。

 私にとって、二人の結婚は理解できていた。そうなることは理解できていた。それでも許せなかったのは、私の耳にその話が入ってきたのが二人が結婚してからもう一年も経ったころだったこと。念には念をと父が言ったのだろう。こうしてどこまでも自分を厄介払いしようという肉親からの仕打ちに私の心はとうとう壊れてしまった。

 都では第一子、それも男児が生まれたとお祭り騒ぎの中、私はもうずっと布団からでることさえできていない。当然子供の話など一生耳に入ることもないのだろう。


 ――どうせ一生このままなら、


「いっそ舌を噛みちぎってやろうかしら……」


 胃液に焼かれた喉ではかつてのような美しい声を響かせることもできず、渇き掠れた小さな呟きにしかならない。


「じゃあ、僕のお嫁になってよ」


 ――え?


 突然聞こえた知らない声に反射的に隣を見る。すると、そこには腕を枕に見慣れない男が寝転がっていた。悲鳴を上げるより早く心を支配したのは久しぶりに人に会えた喜び。それを示すような温かい涙。


「泣かないで、僕は怖くないよ」


 勘違いして焦ったように弁解する彼。よく見てみれば、彼はどうやらこの国の人間ではないらしい。この国の人々は黒髪が多いが彼の髪は雲のような灰色だ。肌は浅黒く、瞳は月のように金色に輝いている。


「とても奇麗な色ね」


 そっと手を伸ばしその頬に触れる。ひんやりとした肌が心地よい。彼は私の手を取ると「連れて行っていいよね?」と私を抱き上げた。さらりと揺れた灰の向こうの黄があまりにも美しくて、私は小さく頷く。


 この日、外へ出た形跡もなく弱った体の私では間違いなく不可能なほど忽然と消えてしまったことから神隠しと麓の村では噂が立った。

 けれどもそれで合ってるのかもしれない。私を攫った男は間違いなく人ではないだったから――。

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