蟹女と乾燥女

八谷彌月


 朝起きた時になんとなく……、なんとなく学校を休みたいときってあると思う。それでも散々悩んだ挙げ句、布団から出て支度をする。

 そうやって無理矢理自分の身体を動かして電車に乗ってしまえば、諦めて教室に行く気になる。

 いつもだったら。

 だけど、今日はダメだった。

 校門に着いても自分の教室まで行く気にはなれず、そのまま通りすぎる。とはいえ、帰る気にもなれない。まあ帰っても下手したら親がいる可能性があるし。

 駅前のマックが開くまで、まだ一時間以上はある。消去法で近くの河川敷へ向かうことにした。

 あそこなら高校の最寄り駅を挟んで反対側にあるから、登校中の生徒にも見られずに済む。

 目的地までなるべく生徒の少ない遠回りの道を通る。犬の散歩で川沿いを歩いている人はいたが、河川敷には誰もいなかった。

 スカートが汚れないよう綺麗な所を探して座りこむ。対岸はサッカーができるくらい広かったが、私のいる方は縄跳びをするのすら危険なほど狭い。何をする気にもなれなかった。目の前の流るる水を唯々眺める。

 どうして皆、毎日学校へ行けるんだろう。別にいじめられてる訳でもない。行けば友達はそれなりにいるし、部活だって楽しい。ただ、どうしようもなく、ときどき全てが嫌になる。

 川をずっと眺めていてもそんな感情が水と一緒に流されることはなかったが、時間が経てば一日中休むのはまずいという気持ちは芽生えてくる。

 昼前には学校へ行くか。

 学校に着くと遅刻者は職員室に行って名前と遅刻理由を書かないといけない。私は寝坊ということにしておいた。

 先生には次から気をつけろと注意され、友達は笑って済ましてくれた。

 そのときにはもうサボっていた自分がバカらしくなる。しかし、一度サボってしまったというのは大きかった。

 一週間程経って、私はまた学校に行く気になれず河川敷へと赴く。

 こうして何回か自主休講を繰り返しているうちに私は完全にサボり癖がついてしまった。

 彼女と出会ったのは私が三日連続でサボっているときだった。


「朝から何をそんなに黄昏ているのかな」


 私と同じ制服を着た女の子が横に座ってきた。初めて見る顔だ。校内であればサンダルの色で学年が判別できるのだが、外なので彼女が何年生かもわからない。ちなみに私は二年生。緑色だ。


「もうすぐ授業始まるよ」

「ぶーめらん」

「あははは、そうだね」


 そうだねって。まあ、彼女だってサボりたくてここに来たのかもしれないし。

 あっそうだ、と彼女は自分の鞄からコンビニの袋を取り出す。中はパンが二つ。どちらもかにぱんだった。


「食べる? おいしいよ」

「じゃあ五本」


 そう言うと、彼女は右足を全部千切ってくれた。


「ありがとう」

「うむ。わたしの足五本分のはたらきを期待しているよ」


 そう言って彼女はかにぱんにかぶりつく。

 わたしはハサミが最後になるように一本ずつ千切って口に放り込む。

 なんでこの人は学校をサボっているんだろう。

 知りたいけど私は訊けなかった。訊けば責任が生じるから。わたしみたいに大した理由じゃあないのならいい。でももし不登校で――とか言われたら面倒くさい。

 何も知らないでいられるっていうのは楽だ。それを言い訳にできる。

 だから私は眺めるものを川から彼女に変えるこのが精一杯。

 かにぱんさえ食べていなければ、肩までかかった黒髪が風に靡いている彼女の姿は絵になるなと思わせる。

 食べ終わっても私たちの間に会話は無く、隣同士でそれぞれスマホを弄っていた。

 少し気まずかったが、無理に話して余計に微妙な雰囲気になるのも避けたかった。

 だいたい二時限目が終わる時間になると、一日中休むのはまずいという気持ちが芽生えてくる。今日も例外ではなく、私は彼女にそろそろ学校に行くという旨を伝える。


「そう。じゃあわたしの分も行ってきて」

「五歩分だけなら」

「学校まで行ってもらうにはかにぱん数百個はいるなあ」


 結局、私は彼女に河川敷にいた理由を訊かなかったし、彼女も私に訊かなかった。なんとなくでサボっている私からすると、理由を訊かれても困るのだが。

 彼女からするとどうなのだろう。かにぱんをかぶりついて食べるような横暴な奴だ。私の気持ちを考えてっていうのはまず無いだろう。となると彼女自身が話したくない理由があるのだろうか。

 ま、なんにしても、彼女と過ごした時間はそこまで悪くなかった。

 その後も私が学校をサボって河川敷へ向かうと、かに子は必ずいた。彼女は必ずかにぱんを食べているのでかに子と呼ぶことにしたのだ。かに子と何度か会うようになって好きな音楽や嫌いな教師の話で盛り上がることもあったけれど、決して互いの核心を突くような話はしなかった。

 ――しなかったはずだった。

 それは私がかに子と会って三週間くらい経った辺り。その頃にはもう私は彼女と会うのが楽しみになっていた。

 私の方が先に河川敷にいて、後から来たかに子はかにぱんを貪っていた。いつも二袋食べてるのに今日は一袋で手を止めていた。

 だからといって「どうしたの」と私は訊かない。だって面倒くさいから。

 かに子がずっと黙っているのでスマホでも弄ろうとバッグを漁りはじめた時、決心がついたのか自分からサボる理由を話し始めた。


「わたしね、最近クラスでハブられてるんだ」

「うん」


 今まで私たちがあからさまに触れなかった話題だ。突然のことで何て返せばいいかわからなかったので、取り敢えず頷いといた。


「反応薄いなあ。もっとさ、こうなんかあるじゃん」

「どんなの期待してたんだよ」

「あらぁ、それはかわいそうに。わたしのふくよかな胸で泣いていいんだよ。とかさあ」

「ああ、みんながハブりたくなる気持ちもわかるわ」


 私の胸がふくよかかどうかはここでは言及しない。そして私の方からは、かに子が急に話す気になった理由も原因も訊かない。あくまで向こうが勝手に喋っているのを聞くだけだ。


「うちのクラスの女子、月毎にローテーションで無視する人決めてるの」

「こわっ。えっ、なにそのクラス。中学生かよ」

「んで、今月の対象がわたしってこと」

「はあ」

「だから反応薄いって」

「えーっ、じゃあーもぅ、かに子とは今月が終わったら会えないってことぉ?」


 精一杯の棒読みで精一杯の厚い反応をしてあげたのに、かに子の目は冷淡だった。


「感情ゼロなのを反応薄いって言ってんの。しかもかに子って……。じゃああんたはドライのドラ子ね」


 魔法のような発明品をポケットから出せるようになりそうな名前だな。悪くないだろう。否、悪い。それはただの悪口だろう。

 別に私はドライな訳じゃない。ただ人と深く関わるのが面倒くさいだけ。

 それにしても期間限定のいじめか。

 加害者と思ったら被害者に、被害者になって少し我慢すればまた加害者に戻る。誰でも被害者になり得るのなら、平等なんだと錯覚させる。だからこそ、このいともたやすく行われるえげつない行為は終わらないんだろう。

 私には関係ない。彼女のクラスの問題だ。みたいにそこまでドライにはなれないけれど。いじめというのはミイラとりがミイラになる覚悟でもなければ、外部の人間は解決できない。覚悟の準備ができていない私が何を言っても綺麗事でしかないのだ。

 かに子だって解決して欲しくて話したんじゃなくて、月が変わればもうここには来ないから話したんだろう。


「いや、まあそうなんだけどさ。解決なんて無理にしなくてもいいとは思ってるけどさ。わたしね、犯人知ってるの。犯人というか始まったきっかけとか、誰が毎月無視される人を決めてるのかとか」


 かに子は私から川へと視線を移し「どうすればいいのかな」と呟く。

 そんなざっくり言われても、かに子のしたいようにすれば、と返すしかない。


「このままでいいんだったらなにもしなくていいし、解決したいんだったら先生にでも告発しろよ」


彼女は再び私に視線を戻す。「あんたってホントにドライだよね」とでも言いたげな顔つきだ。どんなに見つめられようが私の人間性は変わらない。


「じゃあ質問を変える。ドラ子だったらどうする?」

「クラスのルールには従う」

「わお、即答」

「まあそうやって生きてきたからね。具体的にどういう状況なのかは知らないけど、ルールに従うことがマジョリティなら私もその一員にはいる。自分で戦争をする気がないのなら一番強い勢力に隷属しとけば安心じゃん」

「じゃあたとえ外部の勢力に助けを求めれば戦争が終わるかもしれない可能性があっても、それをしないってこと?」

「百パーセント円満に終結するっていうならするかもしれないけど、円満に終わるいじめなんてありえない」


 必ず誰かに禍根が残る。

 私の言ってることが間違いだとは思わない。思わないからこそ、かに子に話してるんだけど。

 一ヶ月すれば終わるいじめなら、誰かにチクって大事にするより我慢することを選ぶ。クラスのやつらもそうしてるから終わらないんだろう。


「あくまでも私がそうだってだけだから私の意見は参考にしないで」


 私が大多数を選ぶ人間だとしてもそれを参考にされたくない。責任を持ちたくないからマジョリティにいるのだ。


「わかった。ありがとう。こんな話してごめん。一番はもうここには来ないかもって言いたかっただけだから、他の事は忘れて」


 その日の私たちの会話はそれで終わった。

 その後、月末まで彼女は河川敷に訪れていたが、クラスのいじめについての話はしなかった。かに子から話さないなら私もわざわざ触れる理由がない。

 月が変わり、彼女が来なくなった。寒さが本格的にやってくる季節になって、外でサボるには少々辛くなり、私自身もサボる頻度は少なくなっていった。

 というかあまりにもサボる頻度が多かったため、学校から親に連絡がいってこっぴどく叱られた。

 結局あれ以来、私が卒業するまでかに子と出会うことはなく、彼女が後輩先輩同期だったのかもわからなかった。

 もしかしたら彼女は幽霊だったのかもしれない。だとしても、彼女が被害者にも加害者にもなったいじめは嘘とは思えなかった。

無視されるのが辛すぎて入水自殺したとか。

 ま、なんにしても根拠はない。

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