第21話 どうしてですか?

 明美は馬酔木から母の待つ介護施設へと車を走らせた。職場のタウン誌のほうに連絡を入れたら、みんないつも以上に頑張っているから、今日はそのまま直帰して大丈夫だと言われた。

 予定の時刻を四時間も過ぎていく道は、いつもと違って見えた。夕方の道は、ちょっと人通りも、歩く人の層も違ってくるのだと。ちょっと感慨にふけりながら駐車場に入る。

 昼間と違って車がいっぱいで、何とか一台だけ空いていた場所に車を止めた。

 むっとするような熱気が体を襲い、いそいそと施設内に入る。

「こんにちは」

 という軽やかな声がして、明美も返事はしつつも―あれほど軽やかに言えないわ―と思いながら階段を上がる。

 夕食まではまだ時間があるので、みんなで集まって食べるロビーには数人がテレビを見ているだけで、ほとんどいなかったが、介護士たちはいそいそと動いているのは見えた。

「珍しいですね、この時間に」

 といった看護師に、

「ええ、仕事で。どうしても抜けられなくて、母、大丈夫でしたか?」

 と聞いてみる。

「今日もおとなしかったですよ。ちょっと、お昼は寂しそうでしたけど、いつもと一緒で、本当に扱いやすい利用者さんですよ」

 と、どこまで本気で信じればいいのか解らないようなことを言う。

 部屋に行くと、人の顔を見るなり、

「やっと来たか薄情もん」

 と罵倒するこの人が、とても扱いやすい人とは思えなかった。

 母は明美が黙って洗濯物を袋に入れている間も、黙って椅子に座っている間もずっと罵倒し続けた。

 (よく、疲れないものだ)と思いながら、明美はぼんやりと今日の馬酔木でのことを考えていた。


 (晃平は任せろと言ったが、梓をどうやって退治する気なのだろうか? たしかに早苗にあれ以上婚約者ともめさすのはよくないとは思う。だが、あの婚約者もどうかと思う。婚約者がいながら、昔憧れていた女に言われたからと言って、早苗を馬鹿にするような男と結婚しても、南じゃないけど、幸せになれるかどうかたしかに怪しいと思う。

 南はほんとなんでもズバッと言い切ってしまう。旦那も大変だろうなぁと思う。そのくせ、周りが見えてないから、本当は、家族もみんな手伝おうとしているんじゃないのかしらね? それを、自分一人がやっていると思っているだけかも……。とか思っちゃう。

 思っちゃうと言えば、驚いたなぁ、中村君が帰ってきていたことに。彼は高校で引っ越すとき、一人残るって大騒ぎしたんだっけ? 未成年だし、寮がある高校はこの町にはないからと言って、何とか親に説得させられて、引っ越したはず。

 よく知ってるのは、晃平から聞いたから。でも、晃平に、妙子には言うなと言われた。なんせ、引っ越したくない理由が、妙子と離れたくないということを知ったら、女々しいと嫌われそうだというのだから、何ともかわいい。

 そして戻ってきて、何とも、まだ脈ありげな視線を妙子に送っていたけど、まぁ、妙子も一人だから、これから先どうにかなってもいいとは思うのだけど。どうなるかしら。ちょっと、こっちは楽しみ、)


「あんた、人の話聞いてないわね」

 母に言われ、視線を母に戻す。

「何よ、聞いてるわよ」

「じゃぁ、さっき返事したこと、了解したと思っていいのね?」

「……了解した? 何を?」

 という間もなく、母親はナースコールを押す。とたんに走ってくるスタッフたち、

「うちの娘がね、清水君と結婚するって了解したわよ」

「な、な、何? 何?」

 明美が慌てて立ち上がると、介護士たちが顔を見合わせ、納得したように急に手を叩きだした。

「いや、いや、ちょっと、待って、何?」

 明美が眉を顰めると、主任介護士が、「ちょっと、」と廊下へと案内する。

「実はですね、」言いにくそうな顔をしてから、「他の利用者さんから苦情が来まして」

 明美はばつの悪そうな顔をする。母親が他の利用者ともめたのか、それともほかの苦情か?

「実は、このところ清水君が元気がなくて、」

「はい?」

 明美が聞き返す。

「ええ。元気がなくてですね、他の利用者さんからご家族の方へと話がいって、今までなら清水君の介護が楽しかったのに、最近悩み事があるらしくて、元気がなくて気になって仕方ないって。ご家族さんからは、その所為で作業ミスがでては困ると言われるし、他の方からは、元気がない理由が何なのか突き止めてくれって。でも、それってプライベートなので、どうしようもないと言ったら、津野さんが、」

 と言葉を切るあたり、かなり確信犯的だが、かなりダメージとしては効果のできるやり方だ。

「お嬢さん、つまり、あなたが清水君と付き合うのをためらっているか、もしくはあなたにフラれたんだって話をして、それじゃぁ、清水君がかわいそうじゃないかって。だから、清水君とあなたをくっつけようっていう事になっていまして」

「いや、待ってください、え? なんですか、それ、」

「ええ。ほとんどの方は認知も患っていますから、賛成しようが、どうしようが忘れている方が多いのですが、中にはしっかりと覚えている人もいて、ご家族の方にですね、清水君があなたと付き合ってくれさえすれば、元通りになって安心するのにとかいう人も居まして。

 でも、そんなプライベートを強要するわけにもいきませんし、我々としては事を見守るだけで、清水君にはしっかりするよう指示をするだけで。

 でもあなたには言うべきじゃないし、他の方からも言うべきじゃないと口止めしていたんです」

「いや、なんでそんな、」

 明美は絶句して言葉が出なかった。

「普通、利用者の家族と、介護士にそういう話が上がるのは好ましくないのですけど、利用者さんからの印象として、清水君も、あなたも非常に好印象なのが、事の発端のようです。

 あなたのお母さまから言い出したのではなく、周りから、清水君と娘さんが付き合えばいいのにって話が出て。もちろん、それでひいきだなんだと言われたらいやだって、お母様はおっしゃっていたんですけど、そんなことはないって。むしろ、いい年のものが結婚もせずにいるほうが不自然で、そっちの方が気になると言い出して、お母様も、言いたくないと言っていたんですけど。どうしたんでしょうね、急に、」

 と困惑気味な顔を見せた。

 病室に戻ると、母は天井を見つめている。

「いい人よ、清水君、」

「ないわよ。いい? 向こうはあたしよりも年下だし、もしそうなっても、お母さんの担当なんだから、迷惑かかるわよ」

「じゃぁ、あたしが死ねば、あんた、清水君と結婚する?」

「……馬鹿、言わないで」

 ぼそっと呟いて明美は洗濯物を入れた袋を持って飛び出た。


 (何を言い出しているんだ)とむっときながらも、もし、母親がいなくなったらと一瞬でも考えそうになった自分が嫌になった。


「津野さん」

 声をかけられ、清水だと解った。素直に振り返るのは悔しかったが、自分のことを棚に上げて文句を言おうと振り返った。ひどい女だと自覚して。

 清水は困ったような顔をして、即座に、

「すみませんでした」

 と頭を下げた。

 以前、清水は体育系の部活をやっていたと聞いたことがある。だから礼儀正しくて、力強くて、この施設で一番人気の介護士だ。今目の前で謝っている姿もその調子で、明美はその姿のすっかり許してしまっていた。

「ご迷惑をかけてしまって。ただ、僕が、本当に勝手に暴走していただけで、それなのに、本当にすみません。もう、勝手にしませんから」

 明美の中の何に引っ掛かったのか、明美自体も解らないが、清水の言葉に瞬間むっとして、

「本当ですよ、母や、他の方を味方につけて、私がいい返事をしなかったら、私だけが悪者じゃないですか」

「本当にすみません」

「気を付けてください」

 明美は踵を返して車のほうを向く。

「でも、だからというわけではないのですが、お付き合い、してもらえませんか? 僕ではダメですか?」

 さっと振り返る。清水の真剣な顔に一瞬ひるむ。

「だめって、あなた……。清水さんはうちの母の担当さんです。母がひどく言われるのは嫌です」

「そんなことはないよう、他の方も全力で看ます」

「そういう事では、」

「では、どうしてですか? どうしてダメなんですか?」

 明美は少し考え、それから車の方に向きなおり、

「さっき、母に言われました。じゃぁ、あたしが死ねば、清水君と付き合うのかてって。そんなこと言われるようなことは、したくないんです」

 明美は少し頭を下げて車へと向かった。

 車の中の熱が目頭を熱くさせている。エンジンをかけ、埃っぽい冷房が作動する。


 (素直じゃない、素直じゃない。……素直って何?)

 明美は繰り返しそう頭の中で叫ぶ。

 車を動かすと、清水が少し避けた。

「それでも、僕は、明美さんが好きです」

 窓越しに聞こえた声。締め切った車の窓で聞こえるのだから、相当な大声を出しているのだと思う。

 体中から火がでそうになって、明美はその場を急いで離れた。

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