第20話 南 決める
馬酔木を後にしてそれぞれ帰宅する。
南は足取りが少し軽くなっていることに気づいた。何時間前までは足も体も重かったのに、今では胸も張って歩いている。やっぱり、妙子たちに会ったのは正解だと思った。
(あの占い師の人が言ってたけど、……いまさら、仕事とかできるかしら?)
大学卒業と同時に結婚をし専業主婦になった。一度も働きに出たことのない自分が雇ってもらえるとは思えない。
とはいえ、いろんな店の接客を見て、あのくらいなら自分でもできそうだと思わせてくれる人もいる。だが、それだって、自分よりも仕事を頑張っている人たちだ。自分はそれ以下かもしれない。気持ちが踏みとどまる。
―園芸とか、好きだったじゃない、世話好きだし、いいと思よ―
明美の言葉に背中を押されている。でも、やっぱり、「働きたいんです」と言える勇気がない。
ホームセンターの前をわざと通る。中腰から背筋を伸ばして腰を叩く従業員のおばさん。愛想がよく、南も顔見知りだった。小さなベランダに鉢植えで花を楽しんでいるので、よく肥料などを買いに来るからだ。世話好きで、いろんなことを知っている。
(無理だわ)
南は足早に家に戻る。
玄関を開けた途端、急に背中が曲がり、体が重くなる。
ベランダに干した洗濯物がひらひらと動いている。取り込んで畳んで夕飯の用意をして―。数分前、心も体も軽いと思っていたのに、また、体が重い。
熱なんかない。病院へ行ってもどこも悪くない。ストレスだろう。何がストレスなのかよく解らないほど、何かが辛いのだろう。
ベランダの窓を開ける。風が吹き込み、(なんか、吐きだしたい)衝動を抑えながら洗濯物を取り込む。
夕飯は定番の野菜炒め。文句を言いながら食べ終わると、子供たちは部屋へ行き、夫はそのままソファーでテレビを見る。
夕飯の片付け、弁当箱を洗い、翌日の朝食と弁当の用意をして、
「お風呂、行ってくる」
と声をかける。
夫は何も返事をせず、テレビを見て大笑いをしている。子供たちの部屋からはゲーム音。
脱衣所に入ると、急に静寂が包む。
天井を見上げる。
(このままでいいのかな? ダメもとで、出たほうがいいのかな?)
翌日。
南はホームセンターに来ていた。一日、ただその人の仕事を見てできそうかどうかの判断をしようと思ったのかもしれない。もしくは、家に居るより気がまぎれるからなのかもしれない。とにかくホームセンターにいたほうがいいような気がしたのだ。
あのおばちゃん従業員は坂本さんと言い、朝は花の水やりを忙しくしていた。
「いらっしゃいませ。おはようございます。早いですねぇ」
そういって丁寧に水をかけている。
「あ、それ可愛いでしょう、ルピナスっていうんですよ。あたしねこれ見たとき、ずいぶんと大きなラベンダーねって言ったら、前の店長が全然違うでしょって笑うの。でも、私最初のころまったく花なんて知らなくてね。今でも、その子たちが入荷してくるたびに思い出しちゃうの」
そういって一人くすくす笑って水やりを続ける。
「あの、なんでこの仕事を選んだんですか?」
南の質問に坂本さんは少しぽかんとしていたが、「少し待っててね」と言って水を止め、他の従業員に水やりを頼むと、こっちへおいで。と園芸コーナー用のレジに連れてきた。
園芸コーナーのレジは小さなコンテナをログハウス風に仕上げたもので、これもDIYできます。というようなチラシが貼られていた。南も、一軒家だったら、こういうのを庭に置きたい。と思っていたが、当然無理な話だった。
コンテナの中は初めて入ったが、かなり暑くて、肥料のにおいが充満していた。坂本さんは中の椅子に南を座らせ、
「私まで座っているとクレームが来るからね」
と笑い、レジ周りにある商品を整理しながら、
「庭付きの一軒家が欲しかったの。だけど、亭主が甲斐性なしでね、女作って出て行ったの。たった一人残されて、しかも、アパートの期限まで勝手に切られて、でも大家さんがいい人で、一か月は住まわせてくれたんだけど、仕事を見つけなきゃいけない、住む場所を探さなきゃいけない。離婚の手続きを進めなきゃいけないって毎日疲れてたの。
そんな時にね、ここに立ち寄ったの。まぁ、他の物を買うために入って、そこの、園芸コーナーへ出れる戸から出たの。それまでも出入りしてたんだけどね、その日に限ってそこから出て、土のにおいと、肥料の匂いを嗅いだら、ここに居たいって思ったの。
そのまま、店長さんに雇ってくださいってお願いして、精神がおかしいので、園芸コーナーがいいですって。頼んだのよ。精神がおかしい人間を雇う方も雇う方だけど、亭主の傍若無人さに怒ってくれて、ただ、今はショックでパニくっているだけだろうから、ここでリハビリするといいって言ってくれて。アパートの保証人にもなってくれてね、そのまま住めるようにしてくれたのよ。いい人だったわよ。
人間て疲れた時って、好きなものの匂いとか、心象風景にある匂いとか知らぬ間に探しているらしいのよね。それを嗅ぐと落ち着くって言うかね、私の場合も、一軒家で、庭いじりしたいって、私田舎育ちだから。だから、土のにおいが恋しかったのね。それで、ここで働いて、すでに二十年。気付いたら延長雇用採用中よ」
と坂本さんは笑った。そして、南の手を握り、
「あなたも、ここで働く?」
と言ってくれた。
夜。
夫と子供はすでに食卓に座っていた。だいたい7時半には夕飯はできている。それ以降になると、腹減ったと文句を言いながらやって来るのだ。だが、座っているだけ、テレビを見ているだけで、箸の一つも出そうとはしない。
南は自分用にご飯をよそい、おかずを入れた皿に、箸、お茶の入ったコップを用意すると、手を合わせ、
「いただきます」
と食べ始めた。
振り返る三人は食卓に食事が用意されていないこと、南一人が食べていることに明らかに怒りを感じ文句を言おうとする。だが、その前に、
「あたし、明日からホームセンターで働くことになったから。だから、食事の用意はする。料理は、あなたたちじゃぁ無理だろうから。でも、食事をするのはあなたたち自身だし、洗濯もする。するのは洗濯機だけど、干して取り込む。でも、着るのはあなたたち。お弁当の用意もする。けど、お弁当を食べたのはあなたたち。もし、出来ていなくても私は知らない。だって、働くから」
というと、食べ終わるなり皿を片付け、自分の分を洗う。
「お、おい、ちょっと、何だよ、急に、」
という夫を無視して寝室へ行く。箪笥を開け着替えを用意していたら夫がかなりむっとした顔で入ってきた。
「一体なんだ? 勝手なことして、」
南は久し振りに夫の顔を見た。年取ったなぁと思う。覇気がないのは自分も同じだが、疲れているような気もする。だけど、夫が疲れているのは、寝る前にベッドで見ている動画のせいで、単なる寝不足だろう。その明るさのせいで南までもが寝不足になっているのもある。
「勝手? 急に? 何言ってるの? 急でも、身勝手でもないわよ。
私はずっと、あなたたちに冷めないように夕飯ができたことを知らせていたし、ちゃんと洗濯物も畳んでいた。お弁当も作って片付けていた。それを当たり前だと思っていられちゃ困るのよ。
家事が嫌いなんじゃないの、当たり前だから、お母さんがすることが。という思考が嫌いなの。別に手伝って何て言わないわよ。自分のことは自分でしてと言っているの。私のことはしなくていいから、せめて、自分の食べる分は用意して、それくらいもできないわけ? あなた会社で何してるの? 仕事って、自分で動いて得るものだって言ったわよね? 私の仕事で得られるものは、こんな不満だけ? 不満を解消するために働くの。そうすれば、あなたの苦労も解るだろうし、その上で、あなたは外で働いてくれているから、ご飯の用意くらいするわという気になるかもしれない。ただそれだけよ。
あなたが私の不満に気づかないように、私は、あなたが仕事でどれほどしんどい思いをして、大変なのか解らないの。だから、働きに行くの。あなたの苦労を知るためにね。
そのうえで、やっぱりあなたの言っている男の仕事ってのは大変なんだということが解らなかったら、たぶん私はダメな人間なんだと思う。
子供たちだって、座ってりゃなんでも出てくると思っていたら大きな間違いよ。一人暮らしをしたら誰もしてくれないし、結婚したら、奥さんがすべてしてくれるなんて人、今どきいないからね。
今、今変わらなきゃ、私、このままじゃぁつぶれるわ」
南はそういって風呂場へと向かった。
夫が廊下に立ち尽くし、何をどういえばいいのかと思っている耳に、リビングから、
「兄ちゃん、お茶出して、コップ出すわ」
という声が聞こえた。
リビングに戻れば息子たちが食卓の用意をしている。
「食べる?」
と聞かれ、一瞬むっとして食べるものか、と言いそうになったが、
「確かに、手伝いなんかしてなかったし、お母さんがキレるのわかるわ」
といった息子に、夫は黙って座り、三人で食事をした。ご飯はおいしかったが、味気なかった。
―もし、妻がいきなりキレて家事放棄したら? って、漫画とか、そういう取説本、あったっけ?―
妻が浮気をしても、亭主は最後まで気づかない。という話はよく聞く。亭主は外にいるので、妻を見ている時間は24時間中1時間もないらしい。だが、逆に妻は夫をはじめ子供の様子を24時間監視しているらしい。
食事の食べ方や、朝起きたときの声のトーン。出て行く時の様子なんかで察するらしい。だから、女のほうが感がいいのではなく、いかに相手を見ているか。なのだそうだ。
―奥さんの好きな花、知ってますか?―
テレビで急にそう問いかけられ、返事に困っている亭主ども。一体何の番組かと思えば、テレビ通販で、奥さんの好きな花を知らなくても、花の刺繍の入ったこのロングカーディガンなら、絶対に喜びますよ。という何ともくだらないCMだった。
「お母さんの好きな花って何?」
と聞かれ、夫は返事に困る。南が花好きだとか全く知らない。そもそも花を愛でているイメージがつかない。
「あれじゃない? ベランダにあるやつ、」
「なんだっけ、あぁ、なでしこ、サッカーと同じ奴」
と息子が話す会話についていけない。夫はベランダへと向かい、窓を開ける。小さなプランターに何かを育てている。一個や二個じゃなく、長いプランターに、小さい鉢が五つ。いつからこれはここにあるのだろうか?
「いいと思う」
寝る間際。また動画を見ている夫は壁を向いていた。
南はため息をついてベッドに横になった途端、夫がそういった。
「え?」
「働くの。いいと思うよ。気晴らしになるだろうし、生活の余力にもなるだろうし。あんまり急だったから、ちょっと、まだ混乱しているが、まぁ、出来ることはちょっとずつやるよ。お休み」
そういって携帯の電源を切った。
「ラピナスの花言葉ね、」
昼間、坂本さんが笑顔でひと鉢持ってきて、
「一緒の働くことになった記念。ラピナスの花言葉ってね。感謝って意味らしいのよ。私はあなたに感謝」
紫色に咲いたラピナスの花が揺れる。
「ありがとう」
南は電気の消えた部屋でそう言うと、夫の「うん」という声が聞こえた。
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