第8話 津野 明美 2

 明美の夢―。今朝の夢はとことん明美を落ち込ませた。いい夢か悪い夢かでいわば、だ。悪い夢のあといい夢を見れば、たぶん、いい夢だったと思うだろう。だが、明美の夢は結果的には、いい夢と悪夢が渦を巻いて明美を飲み込み目が覚めた。


 今日一日、まったく仕事にならなかった。

 部下の、

「明美さんて、やっぱいい人っすね」

 という言葉に過剰に反応したり、

「もっと会いたい。とかって思いません?」

 にイラついたりしたのだ。


 明美はため息をついて車のエンジンをかけた。

 エアコンの独特のにおいがもわっと押し寄せてくる。窓の外を見れば、腹立たしいほどの空が見える。

 明美が「D」にシフトを入れて前を向くと、介護士の清水が立っていた。その表情が不安そうで、明美はシフトをパーキングに入れてドアを開けた。

「どうかしましたか?」

 と同時に発し明美は首を傾げた。

「いや、なかなか車でないから、具合でも悪いのかと思って」

 と清水が近づいてきた。

「あぁ、いえ。エアコン、エアコンが効くのを待ってて、」

「あぁ、そうかぁ。暑いっすもんね。気を付けて帰ってください。また明日も、……お母さん、待ってますから」

 明美は愛想笑いをして車に戻り、会釈をして車を走らせた。


(解ってるわよ)

 明美はため息を落とす。


 夢を思い出す。

 毎日いやいや通っている道。コンビニの前から急にアクセルを踏む足が緩む。それでも車は施設の駐車場に入っていく。今日こそは駐車場がいっぱいで、駐車できないように。と思っても、駐車場はいつもがら空き。本当にこういう施設に見舞いに来る人は少ない。

 入所して数回はマメに来ていた家族も、週一になり、月一になり、そのうち、年に一度くればいい方という人もいるという。施設側は支払いさえしてくれればいいのだから、何も言わない。だから、施設のほとんどが施設料振り込みではなく、わざわざ施設に来て支払いという形をとっている。せめて、月に一度でも顔を見せに来てほしいという願いだろう。この施設も受け付けで支払うようになっている。それすら拒む家族は、一年分のお金を大目に払っていた。あれには、さすがに驚いた。

 自分はあんな不義理はしないように、毎日来ようと思っているけれど、頭を切った母親はどんどんわがままになり、世の中の摂理や、常識や、無理が解らなくなるようだ。

 ずっと病院にいて、体の自由が効かず、意図せずベッドに括り付けられたままだと、考えることは

「なぜここにいるのだろう?」

「誰がここに連れてきたのだろう?」

「私の自由を返せ」

だけなのだろう。

 そして、その「誰」はすなわち娘である明美なのだ。だから、母は明美を罵倒する。病気になったのも、ここにいる事もすべて明美のせいなのだ。


「しようがありませんよ。あれは、そういう病気の症状です。言うことでしか、もう、発散できないんです」


 と医者は言うが、それを受ける家族は疲れてしまう。

 だから、在宅介護はできないと、「親を捨てるのか?」と言われようと施設に入れた。なかなか入れないというのに、運がいいのか、すんなり入れたので、明美は安堵した。

 だが、その安堵は毎日の見舞いの度に少しずつ明美を押しつぶそうとする。

 

 ため息しか出ない。いつもの階段を上り見えてくる病棟群。

「待ってたわよ」

 といった母の声が明るくて、いつもの感じじゃなかった。


 いや、いつもの母親だった。

 母子家庭で明美を育てた、保険のセールスレディーをしていて、髪をパリッと後ろに撫でつけ、華やかな化粧をした、明美の自慢の母親だった。

「明美ちゃん、今日はハンバーグにしようか」

 そういって立っていた母に、思わず笑顔がこぼれる。

 頷こうとした瞬間、

「あんたがあたしを捨てたんだ。親不孝者」

 母は、母だった。

 車いすに自立して座れないので、ベルトで固体され、少しずれてしまっているのは、自分で少し動いたのだろう。よだれを拭くこともできず、明美を罵倒する口。ぼそぼそになった白髪。土気色して、シミもしわもひどい顔。

 明美がため息をつく。

 母は、戻ることはないのだ。あの時のような母には。

 明美は悲しくて俯く。それでも母親は明美を罵倒し続ける。

「もう、いい加減にして」

 と顔を上げると、清水が立っていた。

「僕は本気ですよ。津野さん、いや、明美さん。僕、明美さんが好きです」

 明美は口を開けたまま驚く。

「親を捨てた。親不孝者」

「好きですよ、明美さん」

 明美の周りを母親と清水が渦を巻くようにぐるぐると、そのうち


 明美ははっとしてアクセルを踏み込んだ。

 信号が変わっていたのだ。後続車が早く行けと合図を送ってくれなければ、白昼夢を見続けるところだった。

「今日は、今日は、もう、帰ろう。疲れてるんだわ」

 と思っても、小さくとも、地方のタウン誌の編集長をしている明美が家に帰れたのは夜の11時だった。

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