第7話 津野 明美 1
「笑顔、笑顔。今日こそは怒らない」
気合を入れて津野 明美は車から降りる。
夏を思わせる日差しに眉をひそめながら目の前の白い建物に入る。ここは「老人介護施設スイートランド」。
受付の扉が開き、中に入ると、独特な臭いがする。病院とも違うこの匂いが苦手だった。何の臭いかは分からない。ただ、ここで生活をしている人たちの生活臭だ。そしてそれは、明美の家のものともまるで違うものだった。
階段を上がり、いつものように介護士の詰め所で名前を書く。
「あ、津野さん、こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
介護士の清水が笑顔で挨拶をしてくれる。彼だけは笑顔でいつもいる。他の介護士はどことなく笑顔が疲れているときもあるが、それでも気力を振り絞って笑顔で介護をしてくれている。自分の代わりに介護をしてくれていると思うとそれだけでありがたい存在なのに、
「何だかお疲れのようですね? お仕事大変なんですね、無理しないようにね」
という清水の優しさが本当にありがたい。
明美は気合を入れ直して病室へ行く。
四人部屋の窓際。
「お母さん」
と声をかけると、ベッドに寝ていた母親がむっとした顔で「遅いじゃない」という。
「いつもあんたは時間にルーズなのよ。本当に愚図。全く役に立たないんだから」
(いつものこと、いつものこと。この人にとっては、一分早く来ようと、一時間早く来ようと、いつも遅いのよ。怒るな、怒ったら負けだ)
母親は遠慮なく明美をなじる。
母親が脳梗塞で倒れ、在宅での介護が難しくなりこの施設に入ったのは半年前だ。体の不自由がきかぬ代わりに、口だけが動くのでずっとしゃべりたいのだ。だが、この部屋で母親と会話できる人は居ない。
こういう施設で寝たきりで居る人のほとんどが、脳梗塞や脳出血で脳に損傷がある人ばかりだ。運動や、言語やいろいろな脳のか所に損傷がきたしているので、会話や認知が難しい人が多い。だから、家族の見舞いも月に一度、支払い時に様子を見に来る程度になる。
会話のできない相手を見舞っても、正直、何もすることはないのだ。
だが、明美の母親はしゃべれる。だから、ずっと一人で話しているという。誰というわけじゃなく、一人でずっと。静かになったと思えば寝ている。そんな患者のようだ。
それなのに、介護士たちには愛想がよく、とてもいい患者だという評判だが、その時の愚痴を明美に置き換えて罵倒するのでたまったもんじゃない。
「女が仕事なんかしてるから、不幸なのよ」
母がこういうと、今日の愚痴は終わるのだ。母は疲れるとそういってそのまま眠る。それまでの辛抱なのだ。
今日は長かった。一時間かぁ。とため息が出る。
部屋を出ると、清水が笑顔で、
「お帰りですか?」
と聞いてきた。
「いつも、ありがとうございます」
という明美に、
「津野さんも、いつも来てくださってありがとうございます。お母様、ああいってますけど、娘さんが来るの楽しみにしているんですよ。他の方たちに、うちの娘は毎日来てくれてるのよ、うらやましいでしょ。なんて言ってるんですから」
と言われても、暴言を聞いた後ではもう笑顔になる気力はない。
「後悔しないように、しましょうね」
清水の言葉に顔を上げる。
たぶん、180センチはあると思われる。明美も背が高いほうだが、天井が低く感じるほどの背丈で、ラグビーだか、サッカーだかをしていたらしく、体つきはしっかりしていて、最初こそ、清水にふろに入れてもらうのを恥ずかしがっていた母親も、彼のどっしりした安定感に今ではすっかり慣れ、女性の介護士さんが介助しようものなら、清水君じゃなきゃ嫌よ、落とされちゃうわ。と駄々をこねるのだという。だが、解らなくもない。太い腕はしっかりと抱きとめてくれそうだった。
「さようなら」
明美はやっとそういって施設を出た。
ため息を何度も吐き、深呼吸をして下界の空気を取り込もうとした。できる事なら、明日は行かない。と思っていても、母子家庭で、必死で働いてくれたおかげで大学まで行かせてくれた母親を見捨てることはできない。ただ―、一日二日行かなかったから見捨てているとは他人には言われないだろうが、母親にしてみれば、姿が見えない時間があれば、それは
「あんたは鬼の子だ。あたしを捨てたんだ」
ということなのだろう。
車に乗り込み、ハンドルに頭をつける。
「今日は、かなりのダメージだ」
仕事がうまくいかなかったこともある。段取りが悪く、いつもの時間に見舞いに来れなかったこともある。だけど、
「夢に左右されますかね、この歳で?」
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