第5話 山内 南 1

 ―いつごろからか、幸せというものが遠く感じる瞬間がある。


 短大を卒業をしてすぐに結婚して、子供を二人産んで、あっという間に子供たちは高校生と中学生。反抗期ど真ん中のサッカー部の二人と、管理職のせいでストレスぎみの夫の四人暮らし、幸せだと思う―。


 ただ、幸せって、何だ?


 誰かからうらやましがられる日常が幸せなのか?


 結婚してていいね。とか?

 子供いていいね。とか?


 違う。違う、違う。



 南は畳みかけの洗濯物を膝の上に置いた。

 中古マンションをローンで買った。買った当時は広くて、十分すぎていたこの部屋も、息子たちが大きくなるにつれて狭く感じる。夫いわく、物が多すぎるのだといった。

 壁のメッセージボードに張られた学校行事の手紙、棚の上の紙、あれは何の手紙だったかな? と思うような書類が山積みになっている。

 食器棚は買い足して不ぞろいだから色がいっぱいで、開けるたびにうんざりする。

 食べ盛りの息子たちは、帰ってきたらすぐに菓子パンを食べる。かご盛りにしていても、今日であの山はなくなる。

 テーブルに置かれている安売りのチラシ、学校の手紙、回覧板。床に散乱している服。靴下。ペン。

「ちょっとは、片付けろよ」

 と夫は言う。

 (だけど、その服も、靴下もあなたのでしょ? ペンは子供たちのでしょ? 私のものじゃないのよ? 母親だから片付けなきゃいけないというのはあんまりだわ。片付けようとあなたたちの部屋に入れば怒鳴るくせに。机に置くだけで、仕事の書類を触るなというくせに、どうしろというの?)

 南はうんざりして息を吐きだす。息を吐きださないと、呼吸ができなくなっている。

 山積みの洗濯物。それもすべて、夫と子供たちのもの。畳まなきゃ、翌朝大騒ぎをして、全て「母親」のせいになる。


「冗談じゃない」

 南はつぶやく。

(そういえばどれほどラクか。言ったところで何も変わらないだろうし、じゃぁ、どうして欲しいんだ? って言葉が欲しいわけじゃない。ありがとうや、いつも感謝しているという言葉と、あとは、自分のことは、自分でしてくれ。そのくらい、できるでしょ?)

 目頭が熱くなり、畳んでいたタオルで顔を覆う。

「更年期かしらね」

 ふふふ。と笑い洗濯物をたたむ。


 夕方、バタバタと帰ってきて、一人三つ菓子パンを食べた後、携帯から目を離さず夕飯を食べると子供たちは居なくなる。

「おかず、すくなっ」

 と毎日毎日よく飽きもせず文句が出てくるものだ。

「ごめんね、ちょっと体調悪くて」

 などという言葉など全く聞きもせず部屋へ行く。

 夫が帰ってきた。風呂に入った後で晩酌のビールを出し、つまみを出し、夕飯を出す。今日どうしたとか、何をしたとかまるで会話はない。ずっとテレビを見ている。そして食後はソファーに移動する。

 後片付けを済ませて南は風呂に入る。風呂場の静寂にまた泣けてくる。

 何か、向こうで叫んでいる。

 ため息をついて、風呂から上がってみれば、爪きりを取ってくれという。目の前の引き出しに入っているのに。

「なんだ、風呂行ってたのか、じゃぁ、そういえばいいのに、待って損した」

 夫はそういって爪を切る。


 暗くなった部屋。隣でイビキをかく夫。

(望んでいた幸せは、これだったのだろうか? ただの、幸せ過ぎて、欲が出ているだけなのだろうか? 私が居なくなっても、困らないんじゃないのかしら?)

 南は丸まって涙をこらえる。









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