空の涙

 空が泣く、とは、上手い表現を考えたものだ。

 湿気た布団に寝そべり、降り続く雨を眺めながら、清次郎せいじろうは思う。


 清次郎は、雨の日が嫌いだ。

 それは、感傷などという脆く純粋な心のためではなく、単に、実害があるからだ。


 清次郎の両親は、小さな診療所を営んでいる。清次郎は、医師の父と看護師の母の間に、長男として誕生した。

 両親の後を継ぐよう、医師になることを期待されていた清次郎だが、高等小学校を出てから先へは、進学しなかった。代わりに弟が、千葉の下宿先から医科大学に通っている。


 清次郎は、どういうわけか、天気が悪いと体調が悪くなる。それが、進学を諦めた理由のひとつだ。

 大抵は、体が怠かったり、頭が重かったりする程度なので、我慢できないことはない。しかし、酷い時には、起きていられない程の頭痛に襲われることもある。そういう日は、本当に何も手に付かない。

 体も丈夫な方ではないし、医師としてやっていける自信がなかった。頻繁に寝込んでいるような医者など、誰が信用するだろう。

 しかも、誰に訴えたところで、悪天くらいで軟弱な、と言われるのが関の山である。天気が良くなれば治ってしまうのだから、仮病を疑われても、言い訳のしようがない。


 だから清次郎は、雨の気配を感じると、こうしてひとり、部屋で寝そべることにしているのだ。眠ることはできずとも、ぼんやりと座っているよりは、ずっと楽だ。


 ずっしりと重たい頭を、ひんやりと湿気た布団に押し付けると、少しだけ楽になる気がする。

 目を閉じ、その優しい冷たさを堪能する。


「あれ? 清次郎さん、どこか具合が?」


 開かれた戸の向こう、縁側から声を掛けてきたのは、薬剤師の勝彦かつひこだ。弟が医科へ進むと決まった頃、父が雇い入れた若者である。

 父は、将来的に弟の助けとなるよう、勝彦を住み込みで働かせることにした。


 誰かが歩いてくる気配は感じていたが、今の清次郎には、戸を閉めるという、ただそれだけの動作が億劫だった。

 だが、この男に発見されるくらいなら、戸を閉めておくべきだった。後悔しても、もう遅い。


 勝彦は、病院の仕事だけでなく、家事の手伝いを頼まれても、嫌な顔ひとつしない。性格は、お人好しで温厚。柔和な笑顔で、患者さんにも人気だ。

 父も母も、勝彦を息子のように可愛がっている。医学の道を諦めた実の息子の扱いは、推して知るべし。


 そんな清次郎に、この家で優しく接してくれるのは、今や勝彦だけだ。

 全ては、医師の道を諦めた自分の責任である。誰かを恨むなど、お門違い。それは、よくわかっている。理性的な部分では、きちんと自制できているのだ。


 けれど、勝彦がこんなに有能でなければ、と考えたことがないと言えば、嘘になる。どうしたって、悔しいとか、羨ましいとか、許せないとか、そういう感情が湧いてくるのを止められない。


 清次郎がどう思っていようが、実際の勝彦は、清次郎に親切である。この事実は、変えようがない。

 勝彦が温和で情深い性格だから、余計に、当たり所がない。勝彦が嫌な奴だったらと、何度、空想を巡らせたことか。

 いつの間にか、勝彦に対する清次郎の複雑な気持ちは、奇妙な執着になってしまっていた。


 勝彦を痛め付けたい。でも、冷遇されたくない。

 清次郎の頭の中で、勝彦は、数えきれない程、何度も無残な姿にされている。

 最初の頃は、平手で打ってみたり、拳で殴ってみたり、蹴りを入れてみたり、そういう程度だった。それは徐々にエスカレートし、首を絞めたり、川へ突き落したり、毒を盛ったりした。ついには、勝彦をズタズタに引き裂く夢想もした。

 そして、夢物語の最後は必ず、勝彦が笑って許してくれるのだ。清次郎が、どんな酷い目に遭わせても、勝彦は決して怒らない。

 そんな甘美な期待を抱いてしまう自分に、吐き気がする。清次郎は、勝彦も忌々しいと思うが、それ以上に自分が憎い。


 その勝彦に、こんな貧弱な自分の性質たちを知られたくはなかったし、病気と思われても困る。天気が回復すれば、清次郎も回復するのだ。

 体を起こすのもつらいが、ここは、平静を装って彼を追い出すしかあるまい。


「眠いだけだよ」


 ゆったりと起き上がりながら、平素の声音を意識して言ってみせる。しかし、勝彦から向けられるのは、疑いの眼差しだった。

 さすがは優秀な薬剤師。簡単には騙されてくれないらしい。


「顔色、悪いですよ?」

「寝付きが悪かったんで」

「眠れてないんですか?」

「昨日は、たまたま。だから、今から昼寝でもしようかと思って」


 努めて明るく言っても、疑念を払拭することは、できないようだ。

 仕方ないと、少しだけ事実を混ぜることにする。


「寝不足で、頭が重いんだよ」


 ズキズキと、側頭部が痛みを主張する。頭が、きゅうっと締め上げられているような気がする。

 もう少し、もう少しだけ、持ち堪えてくれまいか。


「それで、僕を騙せるとでも?」

「え?」

「頭、痛いんでしょう?」

「え、いや、」

「ほら、口開けてください!」

「んあっ!?」


 清次郎の口を強引に抉じ開け、勝彦が覗き込んできた。次に目の下を引っ張り、続いて耳の後ろを触り、更に首に手を当ててから、納得したように頷いた。


「感冒ではなさそうですね。先生に診てもらうのが一番だけど、それは嫌なんでしょう?」


 勝彦の言う「先生」とは、清次郎の父のことだ。

 彼は、清次郎が父を苦手としていることを察している。同じ家に暮らしているのだから、それも当然だろう。


「ひとまず、頭痛薬を持ってきます。ほら、寝ててください。すぐ戻りますから」


 ぽかんと勝彦を見送ってしまった清次郎は、嬉しいような、情けないような、腹立たしいような、複雑な気持ちになった。

 勝彦の一挙手一投足に反応してしまう自分が、悔しい。簡単に見抜かれてしまう自分が、惨めだ。喜んでしまっている自分に、嫌悪する。


 開け放したままの外、空は涙を落とし続ける。それに同調したのか、清次郎の心も泣きたがっている。

 勝彦の優しさに触れたからだなんて、認めたくない。


 とても、疲れた気がする。

 再び寝そべり、空の泣き声を聞いていると、宣言通りすぐに戻ってきた勝彦が言う。


「泣いてるんですか?」


 驚いた清次郎は、慌てて目元を擦ってみたが、涙の形跡はない。

 不思議に思いながら勝彦の顔を眺めると、彼は、ふっと柔らかく笑う。


「僕は、清次郎さんのことなら、なんでもわかるんですよ。だって――」



―了―




※高等小学校は、明治から昭和初期の学校区分です。

 現在の中学校ですが、義務教育ではありませんでした。

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