2-⑥


そして、今日。いよいよ、決行の日がやってきた。はやる気持ちを抑えながらお昼ご飯をなるべくいつも通りのスピードで食べ終え、回収に来た看護師さんにトレイを渡してから、私は私服に着替えた。

「入院中なのに私服なんて持っていたんだね」

 用意周到な私に、呆れたような声で死神さんは言う。きっと、パジャマで出かけるつもりなのかい? とか言って今日のデートを諦めさせるつもりだったに違いない。

「パジャマで出かけるのかい? って、尋ねるつもりだったんだけど」

 ほら、やっぱり。

 想像通りの言葉に笑った私を、死神さんは小首をかしげて見た。

「何か変なこと言ったかな?」。

「ううん、なんでもない。これはね、気分のいい日に外を散歩することがあるんだけど、そのときにパジャマじゃあいかにも病人! って感じじゃない? まあ、病人なんだけど、気分的にね。だから、何着か入院用の荷物に私服を入れてあるの」

「散歩?」

「あ、言っておくけどそっちはちゃんと看護師さんの許可を取っているからね!」

「はぁ。あまり無理しすぎないようにね」

 小さく首を振ると、まるで看護師さんのようなことを死神さんは言った。

 そういえば――今よりももっと小さな頃もこんなふうに言われたことがあったのを思い出す。あの頃は、今よりももっと具合が悪くて、それこそ外に出ることすら許されていなかった。だから、たまにパジャマのままで、こっそりと外出するときは看護師さんに見つからないようにと、まるでドキドキハラハラの大冒険のようだった。

 そんな私につき合っていつも一緒に冒険してくれた男の子。大好きだったあの子は、今も元気にしているかな? 今もここに戻ってきてないってことは、きっと元気なんだろう。

 私と同じ時期に入院したのに、私より早く退院してそれっきり会っていない、大好きだった男の子。いつでも笑顔で、優しくて。彼が退院するとわかったときは悲しくて寂しくて……。きっとまた会いに来てくれる、そう思っていたのに、結局、あの日から一度も彼とは会っていない。

 でも、そんなものだと諦めていた。私が人より長く病院にいるせいで、たくさんの子たちが退院していくのを見送ってきた。

 みんなそのときは「元気でね」「また会おうね」「お見舞いに来るよ」なんて言うけれど、誰一人として来ることはなかった。それもそうだろう。みんな、闘病で苦しんだ場所になんて戻ってきたくないだろうし、それに来たところで私が生きている保証なんてないんだもの。そりゃあ来にくくても仕方がない。

 そう、仕方がないのだ。だから、別に寂しくなんて、ない。

「どうしたの?」

「え?」

「なんだか、辛そうな顔をしていたから」

「ちょっと昔を思い出していたの」

「昔?」

 開けっ放しになっていた窓を閉めながら、死神さんは尋ねる。

「そう。昔ね、今の死神さんみたいなことを言ってた子がいたなって」

「……へえ」

 興味がないと言わんばかりの相槌に、少しイラっとした私は、意地悪く言った。

「まあ、死神さんとは似ても似つかないけどね。とっても優しくて、カッコよくって、それから……」

 それから……。彼のことを思い出したくないのに、どんどん思い出が胸の中によみがえってくる。

「っ……」

「どうかした?」

「なんでもない! ほら、時間ないし行こう!」

 黙り込んでしまった私を、心配しているのかしていないのかわからないような口調で死神さんが言うから……。私は死神さんから表情が見えないようにわざと帽子を深くかぶると、慌てて病室の外に出た。

「ふう……」

 ここからは堂々と歩いて他のお見舞いに来た人たちに紛れ込む方が見つからないということを、今までの経験から私は知っていた。不思議なことにコソコソしているときのほうが、逆に看護師さんたちのチェックに引っかかってしまうのだ。

 私は何食わぬ顔をして詰所の前を通り抜けると、ちょうど止まっていたエレベーターに乗って、慌てて閉めるボタンを押した。

 閉まる直前、詰所の中から看護師さんがこちらに向かって来ようとしているのが見えた気がしたけれど、私は気づかないふりをしたまま閉めるボタンを連打した。

 その甲斐あってか、遠くに見えた看護師さんとこちらを遮るように、エレベーターの扉はギギギっと音を立てて閉まった。

「よしっ! セーフ!」

「見つからなかったね」

「でしょ? あとは外来で込み合っているはずの一階を通り抜ければ、誰にも咎められることなく外に出られるわ」

 土曜日は午前中しか診察がないから、お昼を過ぎてもロビーが患者さんで溢れていることは、事前にリサーチ済みだ。

「君の、行動力は凄いね」

 一瞬、嫌味なのかと思ったけれど、どうやら死神さんは純粋に感心しているようだった。だから、私も「まあね」と言うと足早に、でも決して駆け足にならないようにロビーを通り抜けた。

 あと、もう少し……!

「っ……はあー! 出られたー!」

 外に繋がる自動ドアを出ると、私はいつの間にか止めていた息を吐きだした。

 本当は私もここまで上手くいくとは思っていなかった。詰所から看護師さんが出てくるかもしれなかったし、外来がいつもより早く終わっていれば人通りのないロビーを歩くことになり、誰かに見つかっただろう。でも、詰所から出てきた看護師さんに気づかれることはなかったし、いつもの土曜日のように診察時間を過ぎてもまだまだたくさんの人が診察を待っていた。おかげで私は、誰に気づかれることなく病院を抜け出ることができた。できてしまった。

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