2-⑤


「焦ったー!」

 ドアが閉まって、さらに足音が遠ざかるのを確認してから、私は盛大にベッドの上へと寝転んだ。

「どうしたっていうのさ」

「どうしたって……。死神さんのことが牧田まきたさんに見つかったんじゃないかと思って、ヒヤヒヤしちゃったの!」

 私は枕を手に取ると、死神さんに向かって投げた。それを悠々とキャッチして、死神さんは私に枕を投げ返した。

「担当の人間以外には、僕らの姿は見えないって言わなかったっけ?」

「聞いてないよ!」

「あれ?」

 受け取った枕を膝の上に、わざとらしくボスッという音を立てて置くと、死神さんはすっとぼけたような声を出しながら、ポケットからゴソゴソと何かを取り出した。それは初めて会った日に持っていた、あの頭の欠けた星の描かれた手帳だった。

「それは?」

「これは、僕らの仕事道具。ここに自分の担当する人間の名前が書かれている。もちろん、君の名前も」

「そう。でも、それがどうしたの?」

「この手帳に名前のある人間しか、僕の姿を見ることはできない。逆にいうと、君の名前は僕の手帳にあるから、君は基本的には僕以外の死神を見ることもできない」

 つまり、牧田さんには死神さんの姿が見えていなくて、勘違いしてくれたからよかったけれどもしスマホがなかったら私は病室で一人喋っていたと思われていたっていうこと?

 もしかして、牧田さんはずっと一人で喋り続けている私に不安を覚えて病室に来たんじゃないだろうか。血圧を測り直すという理由をつけて。

 だとしたら、特に誰かから連絡が来るわけでもないけれど、なんとなくスマホを手に取って近くに置いたままにしていたことが功を奏したのかもしれない。

「なーんだ。それを早く言ってよ! そうしたらあんなにドキドキすることもなかったのに」

「ああ、それであんな百面相をしていたんだね。僕を笑わそうとしているのかと思ったよ」

「そんなことしないよ!」

 思わず突っ込んでしまった私に、死神さんはこらえきれなかったのか「ははっ」と笑い声を漏らした。

「死神さんも、笑うんだ……」

 こんなふうに、笑うんだ。

 こうやって私の病室に死神さんが来るようになって数日が経つけれど、笑い声を初めて聞いたかもしれない。それどころか、この人がこうやってプラスの感情を表に出すところ自体初めて――。

「なっ……」

 思わずそう呟いた私に、慌てて咳払いを一つすると、死神さんはいつものように抑揚のない声で言った。

「笑ってなんか、いないよ」

 その声のトーンが、いつもよりもほんの少しだけ上ずっているのに気づいてしまって、私は小さく笑った。

「でも、そっかー。彼氏かー」

「ん?」

 小さな頃から病院での生活がほとんどだった私に、彼氏なんていたことあるわけない。それを悲しいとか寂しいとか、今まで思ったこと……。

 ……ううん、本当は一度だけ、たった一人だけ大好きで大切だった人がいた。でも、その人はもうきっと私のことなんか忘れてきっと幸せに暮らしているだろう。もしかしたらつき合っている人だっているかもしれない。私じゃない誰かを好きになって、恋をして、それで――。

「っ……」

 胸の奥が、ツキンと痛んだ。こんなふうに彼のことを思い出すなんていつぶりだろう。ずっと思い出さないようにしていたのに。

 私はそんな胸の痛みに再びふたをするように、わざとらしく明るい声で言った。

「そうだ! ねえ、この前言ってたお願いごと。あれって三つまで叶えてくれるんだよね?」

「ああ、そうだけど……」

 なんとなく、嫌な予感がしたのか死神さんは歯切れ悪く答えた。

 そんな死神さんに、私はニッコリ笑う。そして死神さんを指差すと言った。

「私、決めた。一つ目のお願いごと。デートがしたい」

「デート?」

「そう、あなたと!」

「……僕と?」

 その口調がとても迷惑そうで、表情なんて見えなくてもこんなにも人の感情というのは伝わってくるのだと私は感心してしまう。

 けれど、気づいてしまったところで私だって引けない。こんな当てつけのようなデート、よくないってわかっている。わかっているけど、でも……。

「さっきね、牧田さんに彼氏って言われて気づいたの。私、今までに一度もデートしたことないってことに」

「そう、それは気の毒に。なら、願いごとは誰かとデートをするということで……」

 その相手は自分ではない、と言わんばかりの態度に、私はニヤッと笑った。

「でも、誰と? 私のことを好きな相手なんていないわ。そして誰かの感情をコントロールすることはルール違反、でしょう?」

「それは……」

 私の言葉に、死神さんは何も言えなくなる。

 とはいえ、万に一つ、ううん、億に一つぐらいの確率でなら私のことを好きだと思ってくれている人が、今でもいるかもしれない。でも……。

「もしも頼めるような知り合いがいたとしても、言いたくないけどね」

「どうして?」

「だって、何かあったら絶対に迷惑かけちゃうでしょう?」

 外出中にもしかしたら病状が急変するかもしれない。そうじゃなくても、きっと外出なんてしたら怒られるに決まっている。そのときに、私じゃなくてその人が怒られるようになることが嫌だ。私のワガママに他人を巻き込みたくない。

「でも、死神さんなら」

「僕なら?」

「仕事だし」

「それは、そうだね」

 私の言葉に素直に頷く死神さんに笑ってしまう。最初の頃の印象より、気づけばずっと死神さんの態度は柔らかくなった気がする。そんな死神さんに私はもっともらしい理由を続けた。

「それに誰からも見えないなら、怒られることもないでしょう? 周りから見たら、私が勝手に出かけただけにしかみえないのだから」

「たしかに」

「ね?」

「いやいや、だからと言って……」

 私の言葉に、思わず納得しかけたのか、慌てたように死神さんは言った。

 もう一押し、かな。

 私は、同情を誘うように、悲しそうな表情を浮かべて死神さんの袖口を掴んだ。

「可哀そうでしょ? ね、お願い! このまま一度もデートしたことがないまま寂しく死んじゃうなんて耐えられない! 私だって、年頃の女の子なのに!」

 私の勢いに押されたのか「あー」だの「うー」だの言いながら死神さんは後ずさりを始める。このまま帰ってしまうつもりなのだろうか。でも、そうはさせない。袖口を掴んだ手に力を入れると、私は彼の名前を呼んだ。

「死神さん」

「何」

「どうしても、ダメ? 死神さんが、心残りがあれば言えって言ってくれたのに……」

「それは……。いや、でも、僕なんかと行っても楽しくないだろうし」

「そんなことない!」

 死神さんの言葉を否定した私の声が思ったよりも大きくて、ちょっと恥ずかしくなりながらもコホンと咳払いを一つしてそれからニッコリと笑った。

「誰と一緒に行きたいかは私が決めるわ。私は、死神さん。あなたとデートに行きたいの」

 そう言い切った私に、これ以上言っても無駄だと思ったのか、死神さんは観念したように小さく頷いた。

「わかったよ」

「ありがとう。それじゃあ!」

 死神さんの気が変わらないうちに、と私は決行日を翌々日に決めた。なぜ翌々日だったかというと、ちょうどその日は土曜日で、看護師さんの数が少なくなり見回りに来る回数が減ることを知っていたからだった。


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