第39話 精霊の王
ニケはその熱すぎる炎を避けることもせずに森の中を走った。ちりちりと服が焼かれ、それを叩いて消しながら、前へと急ぐ。
袖口で口元を塞ぎ、精霊が暴れたせいででこぼこになってしまった地面に何度もつまずきながら、必死で駆け抜けた。
「――待って!」
ニケは走り抜ける。その間にも、暴れだした竜の衝撃波にも似た爆風が巻き起こり、一瞬辺りの火を鎮火したかと思うと、風によって力を増した火が倍になって燃え上がる。
火の粉がちりちりと上空へと舞い、空まで焦がしつけるかのようだった。
咆哮に耳を塞ぎ、煙に咳き込みながらも、ニケは走る。何度もよろけ、けつまずいて腕を擦りむいた。
いつの間にかこめかみにつくった傷から流れ出た血が、口元まで伝う。ニケの白い髪の毛が、血でへばりついて赤くなった。
「だめ、暴れないでお願い……!」
地鳴りがして、地面がぐわんぐわんとつり橋の上にいるかのように揺れた。
そこにあった木に掴まりながら、ニケはその揺れをやり過ごすと、一気に竜との距離を縮めた。
「――止まって!」
倒木して灰になりつつある木々の間を抜けて、ニケが竜の足元へと転がり出た。
立ち上がって駆けだすと、そこにあった大きな石につまずいて、派手に転ぶ。そのまましたたかに顎を打ちつけて、脳天が揺すられた。
口に血の味が広がる。煙で目がしみて涙が止まらない中、ニケは立ち上がると竜へと向かった。
打ちつけた足が痛みに痺れて動かず、引きずるようにして近づく。
「お願い、お願いだから止まって!」
そのニケに気づかないのか、竜がさらに暴れて地面を踏みつけた。目の前の大地が大きくひび割れて、土が盛り上がっていく。
「ニケ、危ない!」
追いついたマグナが、ニケを呼び戻そうとすると、その頭上から燃えながら巨木が倒れてきて、マグナの前の道を塞いだ。
「こっちへ来い!」
マグナに気がついたニケは、それに首を横に振った。
「だめだ! 怒っている竜に近づくな、死にたいのか!」
違うの、とニケの口が動く。
暴れ狂う竜の前足までどうにかしてたどり着くと、ニケはよろけながら漆黒の竜の胸にしがみついた。
止めろとマグナが叫ぼうとした時、暴れる漆黒の竜の胸に、離れるもんかとしがみついたニケが大きな声を発した。
「止まって、シオン――!」
――瞬間。
ぴたりと、竜の動きが止まった。
「シオン……お願い、暴れないで」
竜の胸に抱きつきながら、ニケが美しい毛並みに顔をうずめた。途端に、懐かしく、慕わしい匂いがニケの鼻孔をくすぐる。
その匂いに、ニケの気持ちが落ち着いていった。全身に広がっていた痛みさえ、溶け出して消えて行くかのような安心感がニケを包み込む。
「シオン……お願い」
動きを止めた漆黒の竜が、上空に伸ばしていた長い首をかしげて、自分の胸元に引っ付いたニケをその瞳で捉えた。
ニケは竜の動きが止まったのに気がつき、うずめていた顔をそろそろと上げると、足を引きずりながら、数歩後ろに下がる。
漆黒の竜の首が、ニケの頭上にゆっくりと降りてきた。その美しい金色の瞳。その瞳に、ニケをしっかりと映す。
「シオン」
ニケが両手を広げる。
竜が目をつぶって、ニケの両手に顔をうずめた。ニケは、両手に余るほど大きな美しい竜の頭を、ただただ強く抱きしめた。
「――ニケ」
声が耳の近くで聞こえてニケが目を開けると、いつの間にか巨大な竜の姿が消えていて、かわりに懐かしいぬくもりに抱きしめられていた。
ぎゅっと背中に回した腕に力を入れて、ニケはそのよく知っている感触を確かめる。
「シオン……!」
シオンの胸に抱かれながら、ニケは泣いた。その小さな彼女の背をさすると、シオンはゆっくりとニケを覗き込む。
「泣くなよ」
「いいの、泣いても。嬉しい時しか泣かないって、約束したんだもん。良かった、シオンが生きてて」
シオンはもう一度深く息を吐くと、ニケの背骨が軋むほどに強く抱きしめた。
ありがとうと呟く声はかすれて、ほとんど聞こえなかったが、ニケはシオンがそう言ったのを確かに感じ取った。
「おいおい、嘘だろ?」
行く手を阻まれていたマグナが二人の前に近づいて来ると、その光景に複雑な顔をした。
「お前、まさか……竜だったのかよ」
シオンはニケから顔を上げてマグナを見て、小さくうなずいた。
「信じらんねぇ……」
マグナはおっかなびっくり近寄ってくる。火の粉を散らす森が、辺り一帯を炎で燃やし尽くして、すでに精霊の森は跡形もなく消え去り、煙と炎の王国になっていた。
「知っていたんなら、そう言えよな、ニケ」
「私だって知らなかったよ。でも、シオンだって分かったから走ってきたの」
ニケは師匠の手紙を思い出していた。ついて行くようにと書かれた手紙。その理由は、今ここにあるとニケは確信していた。
マグナは、魔力の解かれたシオンを見つめた。先ほどの竜と同じ色の漆黒の髪は解かれ、さらさらと風に揺られている。それは、たてがみだったのだ。
その圧倒的な美しさを持つ神秘的な姿。
――精霊の王。
その凛とした姿に、マグナは思わず息をのんだ。
「シオン、お前もしかして……その魔力は」
初め、マグナがイグニスで見た時とは比べ物にならないほど、シオンの全身からは禍々しいほどに魔力が立ち昇っていた。それに反応して、マグナの魔力がパチパチと皮膚の上を這うが、シオンの発する魔力がマグナのそれに触れると消えてしまった。
シオンが遠くを見ていた視線を、マグナに向けた。その眼圧に、マグナの背筋が泡立った。
「ああ――俺は〈無〉の竜だ」
シオンはつまらなそうにつぶやくと、ニケを見つめた。
ニケに〈全〉の魔力が有ると分かった時から、シオンは運命のいたずらに抗おうと決めていた。
――ありえない出会いなんだ、これは。
〈全〉の魔力と〈無〉の竜。垣間見ることのないほどに希少な存在が、何の因果か、いとも簡単に出会えてしまった。それは奇跡なのか偶然なのか、シオンはずっと考えていた。
偶然にしろ必然にしろ、シオンは自分の正体をニケに明かすまいと決めていた。正体を知ってしまったら、ニケは〈契約〉したがるに違いないと思っていた。
そんなことをして、彼女の将来の可能性をつぶすことは、シオンはしたくなかった。
――黙っているはずだったのに。
我を忘れて暴れたシオンを、たった一言で止めたのは、目の前の小さな少女だった。あの時、ニケの言葉以外、シオンの耳には何も入ってこなかった。
「こうなる運命だったのか」
シオンはニケを見つめると、頭を撫でた。
ニケは裾でごしごしと顔を拭くと、ポケットからシオンの耳飾りを取り出す。それをシオンは受け取ったが、すぐにはつけなかった。
「これで、魔力を封じ込んでいた」
ずっと封じ込めていた魔力が、外された衝撃で一気に放出し、その反動でシオンは自分自身を見失って暴れた。
――あの時、ニケが居なかったら。
世界中を破壊しつくしてしまったかもしれないとシオンは思った。シオンを呼び止め、必要とする存在が無ければ、この世界を滅ぼすのを躊躇することは無かったはずだ。ニケの師匠が書いた手紙は、このことを止めるために書かれたのかと思わずにはいられなかった。
「案外、助けているつもりが、俺の方が救われていたのか」
独り言ち、シオンはふと笑った。
「それ早くつけろよ。そのままじゃ、人が近寄れねぇ」
マグナは、シオンと一定の距離を取っていた。魔力が強すぎて、びりびりと肌が焼かれるかのようだった。ニケは冷や汗をかくマグナを見て、不思議そうに首をかしげた。
「ニケはなんで平気なんだ?」
「ニケの魔力は、火じゃなくて〈全〉だからだ。マグナ、悪いけど、お前にニケはやらない。お前の言っていた通り、俺の方がよっぽど、ニケが必要なようだ」
シオンがマグナを見つめてから、ニケの手を掴んだ。ニケが振り返ると、宝石のように透き通った金色の瞳がニケを見ていた。
「ニケ。俺に力を貸せるか?」
「え?」
「ニケの魔力があれば、俺はもっと力を使える。覚えているか、〈全〉と〈無〉が対になっている事を」
魔力を吸収しつくす〈無〉の力。しかし。
「森を元に戻せる。この惨状を、無かったことにできる。そして、再生できる。俺と、ニケなら――」
ニケは弾けるような笑顔でうなずいた。
*
その数日後――。
割れた大地が元通りになり、焼けただれた木々が命を吹き返した。
逃げ出していた精霊たちも、獣たちもまるで誰かに呼び戻されるかのように、一様に森へと戻っていった。
みるみると焼けた木々の命がふきかえり、倒れた幹が天へ向かって伸び、枝葉を太陽の光にきらめかせながら広がる。
気がつけば、苔むす緑の深い森が、元の姿になって広がっていた。
天変地異のようなあの惨劇が、跡形もなく消し去ったのを目の当たりにしたフォッサの王が、涙ながらに過ちを犯したことを悔いて、精霊に二度と森を侵さぬと誓いを立てたのは、さらに数日後のことだった。
これは、のちにフォッサの歴史に刻まれることとなった。
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