第※話

階段を降りるのを心配しつつ車内を暖めようと急いだおれの方が転びそうになった。

いっそ転んだ方がいいかな?とも考えたが,マユはそういうのは好まないだろう…

それに転ばないようにスニーカーを履いているし,滑り止めがしっかりした靴で転ぶ方が難しい。



二人で初めて乗る事におれは,小さなワクワクと大きな緊張を共に運転席に乗った。

マユはうしろのドアを開けようとしたが

似合わない紳士的な雰囲気で助手席のドアを開けて彼女を呼んだ


…ここから数十分間だけは特別な時間…


そして…二人の心と「向き合おう」とした時間

「向き合った」んじゃない。

まだその時は来ていないから…


マユは外の冷気に当たったからか,酔いは少し薄れたみたいだが足元はまだ心もとない

コンビニで飲み物を買おうか悩んだけど,この空間から出たくなかったのが本音…

だから温風に直に当たって,微妙な感じになってた缶コーヒーを渡したら受け取ってくれた。

微糖じゃなくて良かった。

ブラックしか飲まないって聞いて内心ホッとした。初めて眠いとき用に買っておいた飲み物が役に立った…かまでは分からないが,少なくともおれの腹を下すことよりは役に立ったはず。


傷の事掘り下げる気は無かったから,知りたい事を頭の中でピックアップしてたんだけど

つい「きず……」

あー…考えてる事がそのまま出てきてしまった…

だからおれはなるべく思った事があっても喋らないようにしてる。


黙ってる訳じゃなくて,今みたくそのまま言ってしまうのを避ける為…それが大きい。

よりにもよってマユにやってしまった…


…だけど,少しだけ俺の方を向いた後に話してくれた。それがどれ程の重みをもってるか,いつからなのかとか結局聞かなかったから分からないしマユも言わなかった。

何歳かも本名も知らない。

知らない方が良いんだろうな,おれの中の「マユ」には


それに,おれだけの中にしまっておきたかった。

自分しか知らない。って言ったら綺麗事になっちゃうけど,本気でそうしておきたかった


マユも「なんとなく」で過ごした期間があって

「なんとなく」でこの仕事を選んだらしい


ただ一つ違うのは

言葉には出てないのに,後悔があちこちに滲んでいること

おれの「なんとなく」には,その言葉は無かったから一生懸命想像するしか出来ない




あの時ああすればよかったとか過去を振り返る事って,今本当に必要なことだったりするの。

過去は昔のこと,今(現在)は今。

どう足掻いても変わらないし,そんな今を過去に時間取られるのは勿体無いって思う。

消えない過去もきっと消えるんだよ…。

それを何度も何度も思い出しちゃうから憎ったらしい程に消えてくれない




マユはハスキーで低い声でゆっくりと言う一言一言が重く,どこかおれに伝えたくて言ってるようにも聞こえた。


…憎い程消えないのは傷のことだろうか?

…やりきれなくなる度に,その憎い傷を増やしてしまうのか?

それこそやりきれないし消えてくれない


ずっと感じてたこの居心地の良さって苦しみがあるからなのか?




ユーキくん?名前合ってる?と居る時すーっと気持ちが落ち着いて自然と笑ってしまうの。

…でもね,仲間って言われた時に

(あーそっか。この腕が繋ぐものは同じものだけで,仲間以下でも仲間以上になることは無いんだな)

って思ったの。

……そうでしょ?傷にそれ以上も以下も無いんだから




言葉が出ない。黙っていたくないのに言葉が出ない。


どうしよう…もうすぐで着いてしまう

何か言いたい,伝えたい

隣に座ってるはずなのに徐々に離れていく感覚が襲う



「マユちゃんといる時間は俺にとって楽しかった」



自然と過去形になっていて,

「マュ…」

とまで口から出てしまい必死に心に戻す


またこちらを見ている視線を感じる。

痛くはない…優しい視線

痛いのはおれの心だ




ありがとうございました




今日は「お疲れ様でした」ではなく「ありがとうございました」…考え過ぎだよな

こんな心になるのは初めてで内心戸惑っていた。

せめて……


「マユちゃんっ!今日は…」

両手で大きな丸を作りおれは笑った。


切羽詰まると表現がここまで情けなくなるのか…

マユも少し屈んで笑いながら両手で丸を作り,ペコッと頭を下げ歩いていった。




(ハザードつけてるから,ちょっと今日はもう少し止まっていようか…)


車の時計は六時をまわっていた。

二十分か……

空の薄い青と明るさが今日は辛かった。


いつもこの場所でマユは降りて歩く。

結局今もマユをなんにも分からないまま…

ただその遠ざかって行く後ろ姿のほんのちょっとの「思い」を知っただけだった。

「気持ち」とか「心」を知った訳じゃない。ましてや「人生」なんて言ったらおこがまし過ぎる…


思いに触れる事が出来ただけ良しとするか,それしか知らないと思うか



アクセルを踏むおれの足は重かった

皺みたいな手首の一本の線が疼く



(さよならじゃなくてよかった)


あとは勝手に時間が過ぎていった。



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