第2話 菊野はつめ(2)

 はつめが目を覚ましたのは、すっかり陽の光が鮮やかな橙色に変わったときであった。鼻腔をかすめる鉄のような鈍い匂いに眉をひそめながら、鉛のように重い体を無理やり奮い立たせる。


 服用した毒のせいか、未だ舌が痺れ、唇の感覚が鈍い。手足に若干の違和感があり、己はしっかりと立てているのかを疑ってしまうほどだった。


 ……床を見る。


 足元には、真新しい湿った赤がそこにあった。はつめはそれを見て、小さく肩を落とす。



(また血を吐いてしまった。……先は長そうだ)



 毒を体に慣れさせる訓練というのは、血を吐かない、吐いてもごく少量でやっと"慣れた"と認められる。以前に比べて、同じ毒の強さを取り入れた時よりは結果は良いが、それはただ"死ぬまでの時間が人より稼げる"だけである。



(父上の血を濃く引き継いでも尚、慣れるまでに時間がかかるのか)



 幾度にも重なった赤を踏みつけ、はつめは口元を拭った。

 ……"慣らしの時間"のためだけに使用されるこの部屋は、私が初めて入った日も赤と黒に塗れていたのを覚えている。


 あの厳格で完璧な父上も幼少時は等しく、体を蝕む毒にのたうち、血を吐き、涙を流したのだろうか。……残念ながら、はつめには想像ができない。


 父上は、優しく心が広い母上が愛想を尽かせて逃げてしまう男だ。きっと幼い頃も"忍"だったのだろう。



「……ぁ、……ふ、っ!」



 はつめはようやく声を発した。すると、毒を含み、もがき、目覚めるまでを傍で見守っていたであろう父親の側近が相も変わらず優しい声色で語り掛ける。



「はつめ様、お目覚めになりましたね」



 はつめは口に残る僅かな血を唾液と共に床へ吐き出して、彼の言葉に頷いた。側近は、彼女が立ち上がり、言葉を発するまで何も動かない。しっかりと動けていなければ、忍びの世界では死んだも同義として扱われるからだ。


 側近は彼女の反応を見て真新しい着物を差し出す。はつめの身に纏う着物は、血を吸って重く、汚かった。



「お館様と既に……、お客人がお待ちです。お辛いでしょうが、準備をお願い致します」


「……! はい、すぐに」



 はつめは急かすような言葉を聞いて、やっと声を絞りだして返事をする。替えの着物を受け取り着替え始める。側近はその間、乱れた髪を整え汚れた肌を拭く。


 そうしてものの数分で、年相応の可愛らしい少女が生まれるのだ。つい先ほどまで獣のような叫びを屋敷に響かせていた人物とは思えぬほどに、無害で愛らしく、淑やかで儚そうな子どもの皮が出来上がる。


 また、はつめは側近に手を引かれ、屋敷の廊下を歩む。足音でさえも響かない静寂の中、ただ彼女の心臓の鼓動だけが妙に体内を巡っていた。



「はつめ様、私はここで」



 側近が急に足を止める。父親と客人とが待っているであろう接待部屋を目前にして、彼は引いていた手を緩やかに離して、またいつも通り優しく微笑んだ。


 ……まさか父上は、己の最も近しく頼れる存在である側近でさえも客人に近づけないおつもりなのか。


 はつめは今まで感じたことのない違和感に不安を、そして些かの高揚に駆られる。背中に側近の視線を感じながらも、彼女は歩みを進めた。


 目的の部屋の障子の前へ立つと、はつめは小さく息を吸った。父親に会うのは毎度のこと緊張してしまう。きっとこの緊張は、いつでも己の首を取ることが可能な相手を目の前にするからなのだろう。



「父上。はつめでございます」


「……入れ」



 小さく、低い声が呼応した。


 それをしっかりと確認してから、軽いはずなのに重たい襖に手を掛けて静かに開いていく。


 次第に視界に入るのは、いつものように難しそうな顔を携える父親の姿と、そして……。



「……か」


「……おい、はつめ」


「かあさま」



――……銀髪の美しい髪を束ね、父親の前でただ下を向く小さい影だった。


 はつめが即座に呟いた言葉に、その影はこちらへ振り返る。透き通った長い髪が揺れ、僅かに入り込む陽の光を反射した。


父親の静かな制止も虚しく、動揺に揺れた赤の瞳と金の瞳が、弾けるように交錯する。


 ああ、違いない。この瞳、この髪色。紛れもなく、私の――……。



「……さま、あんず、あんず母様!!」


 はつめは己の立場を忘れ、年相応の、いや、年不相応に小さな影へすり寄った。狂ったように「あんず」と、三年前に姿を眩ませた愛しく焦がれた母親の名前を叫ぶ。

 

 突き刺すような父親の視線が痛い。ああ、しかし……、この人が己を"人間"にしてくれるのだろうと、枯れた欲を濡らしていった。


 今すぐ体を抱いてくれ。今すぐ名前を呼んでくれ。今すぐ頭を撫でてくれ。


 今すぐ。今すぐ……。


 私を人間にしてくれ。



「かあさまぁ……!」



 はつめは温もりを求め、小さな影に縋りつく。


 しかし、その金色は赤を捉えて直ぐに歪み、眉を潜めてはつめの体を突き飛ばした。彼女が訳も分からず子犬のようにひっくり返ると、銀と金色を携える小さな影は、はつめが起き上がるのも待たずに勢いよく口を開いた。



「ッ……、気安く母さんの名を呼ぶな!!」



 転がった無防備な体に突き刺さる、鋭利な拒絶の一声。はつめは昔から聡い娘であった。全てを悟った。


 ――……転がったまま父親に視線を移す。感情がない。


 ――……己を見下す金の色を見上げる。ああ、かわいそうに。ぐちゃぐちゃだ。



「はつめ、この少年は……」


「……」


「お前の、異父弟だ」



 その日はつめは、諦めを知った。

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