花たちの記憶【FLOWERプロジェクト】

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第1話 菊野はつめ(1)

 生まれ落ちてより、己は、何も特別な存在ではなかった。皆と等しく生を受けた、ただの人間であることに違いなどなかった。

 体内には赤い血が巡り、心臓が忙しなく動いている。胃の中が空になれば空腹になるし、悲しくなれば涙が出る。


 しかし、この父親譲りの赤い瞳と闇夜のような黒髪が、里の中では敬意と畏怖の対象であることに、はつめは幼いながらも気付いてしまっていた。


 ――……忍者集団”菊野衆”。


 はつめという少女は、現代に唯一残存している忍者集団の里に生まれた。生まれただけならまだしも、彼女は己の姓に"菊野"を携えた一人娘であり、菊野衆の立派な次期当主である。


 生まれ落ちた瞬間は等しく人間であった。しかし、巡る血が、心臓が、細胞が、すべてが特別なのだと悟ってしまった瞬間に、はつめの頭が弾けた。



「人の子、ではない」



 里のひときわ大きい屋敷の展望から、無邪気に外を駆け回る年の変わらぬ子どもたちを見てはつめは呆然と呟く。同じ里の子どもであり、将来は同じく忍びとして育つであろう彼らは大きく笑い声を上げながら追いかけっこをしている。


 しかし己はどうだ。陽もまともに浴びず、薄暗い屋敷の中。そしてこれから体に毒を慣らす訓練が控えている。あの子どもたちが呑気に息を切らして笑いあう最中、私は体を蝕む毒を喰らい、吐き、のたうち回りながら叫ぶのだ。



「人の子、ではない。私は、人の子では……」



 うわ言のようにはつめは言葉を連ねる。白い右腕を左手で掴んで、そして爪を立てた。

 まるで白い紙に絵の具を垂らしたような、そんな赤が腕に滲む。ああ、あの子どもたちにも同じ赤が通っているというのに。私の持つ赤は、何故にここまで己を苦しめるのだ。



「この血が、この血が憎い……」



 腕から、滲むだけだった血が次第に傷口に溜まり、そして零れた。赤い花が咲いたように床へ染みを作って、次第に黒く枯れていく。

 まるで己の一生だ、などと自嘲気味に床を睨みつけたところで、彼女の爪を立てる手を、誰かが止めた。



「……はつめ様、慣らしの時間でございます」



 彼女の腕を掴み、にこやかに語り掛けるは、里長の側近……はつめの父親の補佐役である。角ばった大きな手は硬く、皮膚が厚い。それだけではつめは己との実力差を悟って、直ちに自傷行為をやめた。

 ……長いものには巻かれろ。はつめは生まれ落ちてより6年間、年相応の遊びや道徳を学ぶ前に、忍びとしての処世術を叩き込まれている。都合の良い人形になるものか、と自我を持った時にはすでに遅く、忍びとしての刷り込みが完了していたのだ。



「……、すぐに参ります」


「はい。……ああ、それと。お館様が後ほど、はつめ様に会わせたい人物がいるそうですよ」


「父上が、私に?」



 唐突な報告に、はつめは側近を見上げた。本来、里内での報告というのは最低でも2、3日前には告げられるものであったため、珍しさにはつめは聞き返す。側近は「そうですよ」と一言返事をするだけで、それ以上は何も告げなかった。つまりは会わせたい人物というのは公に言うのは憚れる者ということの裏付けであり、父親から直接聞け、ということなのであろう。



「ええ、ですから本日の慣らしは軽めで、とのことです」



 はつめはそのまま側近に手を引かれ、屋敷の数ある部屋に連れられる。結局は毒を含まねばならぬのか、と気が重くなってしまったが毒の作用が軽いだけましなのだろう。


 連れられた部屋は薄暗く、ところどころに赤黒い染みが飛び散ったままのあまり清潔とはいえない一室である。はつめをはじめ、菊野と姓のつく者たちはここで自ら毒を含み、体を慣らしていくのだ。



「……さあ、はつめ様。本日はこれを」



 まるで料理を提供するように手前へ運ばれるのは、薄い紙に包まれた粉。その粉が何であるかは今更言わずとも理解できるであろう。はつめはその包みを手に取り、そして口元へ寄せる。

 これから、いつもより軽めな地獄が待っている。しかし彼女の頭の中には、父親の言う”会わせたい人物”のことで頭がいっぱいであった。


 今後の取引先であろうか。それとも新たな依頼人か。もしくは……。



「(……母上)」



 母上。あなたはいま、何処へ。


 はつめは少し唇を噛んだのち、そして粉を一息に取り込んだ。



(母上、私は……)



 昔、己の小さな体を抱いてくれた温もりを思い出す。それはもう遥か昔のことであるが、はつめにとって掛け替えのない、それを忘れては人の心を忘れてしまうであろう大切な思い出であった。

 母親はとても美しく、穏やかで、そして里の誰より”人間”だったことを幼い頭が覚えている。

 しかし、そんな”人間”が忍びである伴侶に耐えられるはずがないのだ。彼女は突然、姿を消した。

 


「!! うッ、ぐぅ……!!」



 はつめは口を抑える。そしてじんわりと瞳に涙を蓄え、まるでダンゴムシのように身を丸めた。


――……母上、私は。


――……私は、少し、背が伸びました。



「が、は……! はッ……!!」



 体を急な激痛が襲う。そして体内の毒を出そうと、吐き気がせり上がった。

 

 遂に赤を吐き出すはつめを、側近はただ静かに見守っている。部屋にまた、大きな染みが重なった。

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