青に揺蕩う
立花
青に揺蕩う
水の中にいるのが、私にとって一番、幸せな時間だ。
どうしてそう思うようになったんだろう。何がきっかけだったんだっけ。
ああそうだ。小学生になって間もない夏、初めての水泳の授業の時だった。
人生初の大きなプールで、私は友達とひたすらはしゃいで泳ぎ回っていた。最初は寒い寒いと言っていても、動き回れば当然体は熱を帯びてくる。おまけに真夏のぎらつく太陽。すっかり火照ってしまった私は、日差しから逃げるように、誰にも何も言わず、とぷんと全身を水の中に沈めた。
きゅっと目をつぶり、気持ちのいい冷たさを全身で感じた、その直後。
聞いたことのない音に驚いた。
人の動きで生まれた波の重い音と、自分の呼吸が生んだころころという高い音。
絶え間なく音は耳に入ってくるのに、静かな世界。
目を開けてみると、ゆらゆらと不規則に網目を描く水底が映った。
絶え間なく変わっていくのに、騒がしくなくて、穏やかな揺らめき。
私の周り全てがスローモーションになったみたいで、神秘的だった。
今だから、あの光景をこんな風に言葉で表すことができるけど、当時はそんな語彙力は持ち合わせていなかったから、ただただいつもと違う世界に圧倒されていた。あんまりに私が潜り続けているものだから、溺れたのかと思って先生が慌てて私を引き上げた。水から上がってからもしばらくぼんやりしていたから、先生を余計に心配させてしまった。
そうか、あれが始まりだったか。
放課後、プールで浮かびながら薄ら暗くなってきた空を眺めて、ぼんやり思い出した。
水の世界に心を奪われて、こうして高校生になるまで、可能な限り水の中にいられることを選んできた。
泳ぐことも好きだから、水泳部で活動していることにはなんのストレスもない。むしろ今の私にとっては二番目に好きな時間かもしれない。
でも本当に好きなのは、泳ぐとかそういう目的を持たずに、ただ心の向くままに水の中にいること。こうして全身の力を抜いてぼんやり漂ったり、沈んでこぽこぽいう水の音に耳を傾けたり。
だから部活が終わってから、いつもこうして一人でプールの中で揺蕩っていた。更衣室まで上がってしまったら、部員はプールにはもう戻ってくることがないから、誰にも不審がられたことはない。
「栞、今日も残って練習すんの?ふやける前に帰りなよー。」
分かってましたとばかりに言われたこれは、今日の友達のセリフ。あの子もたまに残って練習することがあるけど、今日は塾があると言って早く帰っていった。
(塾、か……)
今は高校二年の夏だ。その友達以外にも受験を意識し始めて塾に行き始めた子はちらほらいる。
(私も、そろそろ考えないとな)
何を勉強したくて、どこの大学に行きたいのか。うちの高校は、ほとんどの生徒が大学に進学する。私も就職する気はなくて、進学する予定だ。そこまでは頭にある。でも、具体的なことはまだ全く考えていない。
(大学行ってからも、こうして水泳やるのかな)
大学行ってからも、できればこうして日常的に水に浸れる環境にいたい。でも大学の部活って、どんな感じなんだろう。こんな風に、自由にプールを使えるんだろうか。泳ぐ以外はダメだ、ってところが多かったりするのだろうか。
(考えたくないなあ)
右腕を水面から持ち上げて、そっと閉じた目を覆い隠す。ぱしゃりと鳴った水と、冷えた腕の感触が心地いい。視界が暗転して、ほんの少し心が落ち着いた。
今のことだけ考えてればいい、と言われたら、どれだけ楽だろう。
大学のことも、宿題や明日の授業のことすら考えなくていい、と言われたら。
こうして水の中にいることだけに、心を向けていればいいと言われたら。
私は一体、どれだけ幸福な気持ちになれるだろう。
「おーい鳴海、起きてるか?」
腕をどけて目を開ける。自分をのぞき込んでいる、見慣れた顔があった。
周りを窺ってみると、頭のすぐ近くに壁の気配があった。最初はプールサイドから10mくらい離れたところにいたはずなのに、浮かんでいるうちに流れてきたらしい。
「起きてたか。今何時かわかるか?」
「知らない。6時前くらい?」
練習が終わったのが確か5時半くらいだったはずだ。
「もう7時前だ、あほ。さすがに帰らないと先生来るぞ。」
「まじ、か」
「まじだ。さっさと上がってこい。」
「……ん。」
底に足をつけて、伸びをする。確かに、いつもより空の色が暗い気がする。目を閉じていたから気付かなかったんだろう。プールの青さも、心なしか深く見えた。私は軽くため息をついて、プールサイドの階段に足をかけた。
シャワーを浴びて、髪をタオルでざっと乾かし、着替えて更衣室を後にする。
プールは七時までに施錠しなくてはならない決まりだが、私があんまり毎日ギリギリまでいるものだから、顧問の先生は十五分過ぎくらいまでなら大目に見てくれる。職員室へ鍵を返しに行くと、時計は七時十分頃を指していた。先生は、
「おう、今日もお疲れさま。また明日な。」
と、気を悪くした様子なくにこやかに話しかけてくれる。
「先生だって早く帰りたいだろうし、あんまり甘えんなよー。」
とはあいつの談。余計なお世話だけど、正論なのでしぶしぶ頷いたものだ。そのくせこうやって時間を過ぎてしまうのが日常茶飯事なので、先生には申し訳ないが、私にとっては何よりも、より長くプールの中にいたいという気持ちがやっぱり一番なのだろう。
昇降口で靴を履き替え、外に出る。陸上部ももう上がりなようで、部員がブラシやトンボを持ってグラウンドの整備をしていた。空はさっきよりもさらに暗くなって、うっすら白い月が出ている。このくらいになるとそよぐ風が涼やかで気持ちがいい。肩にかけたタオルがかすかに揺れる。髪もけっこう乾いてきた。
裏門に歩いていくと、あいつがスマホをいじりながら塀に寄りかかっていた。足音に気付いたのか、顔を上げてこちらを向く。
「相変わらず着替えんの早えな、それでも女子か。」
「うっさい。」
何度目かわからない押し問答をして、あいつがにやっと笑う。
「コンビニ寄っていい?アイス食いてえ。」
「いいよ。私のもついでに買って。」
「なんでお前に奢んなきゃいけないんだよ。」
私達は並んで歩きだした。あいつは歩道と車道の境界のブロックの上を歩いている。肘で小突いてみる。ちょっとよろめく。思わずしてやったり顔になった。あいつもいたずらっ子のように笑う。
「片瀬、今日は何してたん。」
「いつも通りだな。ウーパールーパー眺めたりビオトープ観察したり。あ、準備室片づけたらなんか水槽出てきたから、明日洗おうって話になった。」
「ふうん。相変わらず緩いね。」
こいつ、片瀬拓海は生物部に所属している。言っていたように、普段はひたすら緩い活動しかしていない。本当に部活なのかと思うが、やるときはやるところらしい。生物室の前にはなんかの発表会に出したという大きな壁新聞が貼ってあるし、何度か表彰されたこともあった。
「鳴海はどうなん、調子は。」
「んー、悪くはないかな。これからテスト前になって部活なくなるから、その後どうなるかな、って感じ。」
「うっわ、嫌なこと思い出させんなバカ。」
「現実見ろよ、バーカ。」
「わかってるけどさあ。あー、俺も久々に泳ぎたくなってきたなあ。」
「こないだも言ってたじゃん。だから水泳部入ればよかったのに。」
「ほんとなー。夏になるとちょっと後悔すんだよな。」
片瀬と私は同じ中学出身で、二人とも水泳部だった。当時のこいつは私に負けず劣らずプールに入り浸っていて、居残り過ぎて何度か揃って注意されたことがある。でも私と違って片瀬は泳ぐのが大好きというようで、ぼんやり水に浸っている私の横でひたすら泳ぎまくっていた。よくもまあ練習後にあれだけ体力が余っていたものだと、今でも感心する。
高校でも水泳部に入るのかと思ったら、なぜか生物部に入ってしまったけど、なんとなく腐れ縁は続いていて、こうしてちょくちょく一緒に帰る仲だ。
やんややんやと緩い言い合いをしながら歩いていくと、目当てのコンビニに辿り着く。クーラーがガンガンに効いていて入った途端鳥肌が立った。その肌寒さに、アイスを買う気満々だったのが萎えてしまった。
片瀬がアイスの会計を済ますのを、適当にお菓子コーナーをぶらついて待った。外に出るとさっきまでのクーラーの冷たさのせいで外がぬるく感じた。やっぱりアイスを買えばよかったかも。
「ん。」
「へ?」
片瀬がアイスを差し出してきていた。しかも私の好きなレモンのやつ。
「ほれ、溶けるから。」
「え、うそ、くれんの?」
「今度三倍返しな。」
「やだよ。それにしても何さ、雪でも降らす気?」
「気分だ気分。しかもなんかアイス買えばよかったー、って顔してるし。」
図星な上に本当に溶けてしまうので、釈然としないながらもアイスを受け取る。すっぱくて爽やかで、疲れた体に心地よく沁みていく。このアイスの、シャリシャリしてるけどちょっとねっとりした濃厚さもあるのが、贅沢感があって好きだ。片瀬は大ぶりのモナカアイスを齧っている。夕飯前によくそんなの食べれるな、と思う。だからこんなに背が伸びたんだろうか。女子としては背が高い私より、片瀬は頭半分大きい。中二までは私よりチビだったくせに。
「ねえ。」
アイスを半分食べ終えたところで、私は口を開いた。
「なんで、生物部入ったの?」
「ん?どうした急に。」
「別に、気分だよ気分。」
モナカを頬張りながら私を見つめる片瀬。私はその視線をこめかみに感じながら、返事を待った。
しばらく二人とも黙っていたが、不意に片瀬の視線の気配が消えた。私はようやく横を向いた。前に向き直った片瀬は、どこか遠くを見るような目をしていた。その顔がいつものふざけた表情と違って大人びていて、なぜか息苦しくなった。
「俺、将来留学したいんだよね。」
「え?」
留学?お前が?ていうか、それが生物部と何の関係があんの?
「そっからだと話しづらいか。お前、俺が中学から理科好きなの知ってるよな。」
「うん。」
中学の時、理科の授業が終わると毎回先生と残って話し込んでいるので、そんなに理科楽しい?と聞いたことがある。だって面白いじゃん、と笑いながらこいつは答えた。英語と社会が特異なザ・文系の私にはあまり共感ができなかったけど。
「そんで田口先生、中学の理科の先生と仲良くなって色々話したり本借りたりしてたんだけど、いつかに借りた雑誌におもしれえ研究の記事があって。それが生物系のやつだったんだけど。」
「それがきっかけ?」
「まあそうなるな。その研究やってたのがドイツの大学でさ。大学生になったら行ってみてえなーって思ったんだよ。でも好きなだけでいるんじゃ絶対行けなさそうだし、ちゃんと勉強しなきゃいけないんだろうなあって。そんで生物部に入った。」
いつもと違う淡々とした真剣な片瀬の声が、耳に残った。
なんだこいつ、急に真面目になって。
悪態をつく裏で、心に穴があいたような感覚があった。
違う。私が気付いていなかっただけで、あの頃からずっとこいつは将来のことを考えていたんだ。
何も考えていなかった、そして今も何も考えていない私の横で。
『お、鳴海!お前もう部活決めた?やっぱ水泳部?』
『当たり前でしょ。片瀬は?』
高校入学したての頃の会話がフラッシュバックしてきた。
『ふ、聞いて驚け、生物部だ!』
『……は?』
『へへっ、やっぱ驚いたか。高校デビューでインテリキャラになるぜ俺は!』
『似合わなすぎ……。てか絶対無理になるでしょ、あんた。』
あの時私が呆気にとられた訳を、きっとこいつは分かっていない。
私は、片瀬もきっと水泳部に入ると思っていたのだ。だから、迷う素振りもなく水泳を辞めてしまったことが、信じられなかった。
お前は私と一緒じゃないの。
泳いだり、馬鹿みたいに言い合いしたりしてプールで過ごすのが、楽しかったんじゃないの。
なんで勝手にいなくなっちゃうの。
ねえ、私を置いていかないでよ。
あの時から、ずっと胸の中で燻っていた気持ち。
片瀬だけじゃなかった。見回してみたら、皆が「今」じゃなくて、「未来」を見ていた。
私だけがずっと、「今」のことしか考えていなかった。
そう突きつけられる度、目も耳も塞ぎたくなった。
いつからだっただろう。それを忘れたくて、水の底に沈むようになったのは。
「栞。」
沈黙を破ったのは、片瀬だった。
「俺、大学行ったらまた水泳やるかも。」
「え?」
何急に。さっきまで留学とか、大学行ったらばりばり勉強する雰囲気出してたじゃん。
「勉強もやりたいんだけど、水泳もう一回やりてえなあって、最近よく思うようになってさ。社会人になったらそれこそ出来なさそうだし。」
やっぱ泳ぐの好きっぽいんだわ。と片瀬が続けた。
「高校生になったら少し大人になって、ずっと勉強にのめりこめんのかなー、って思ってたけどさ。飽きたな、辞めてえなって思うときあるし、たまにめっちゃ泳ぎたくてたまらなくなるし。」
ははっと乾いた声で片瀬は笑う。いつのまにかモナカはなくなっていた。
「そんなに変わってねえよ、俺。」
そっと付け足されたその一言は、初めて聞く優しくて温かい声だった。そっと溶けていくように耳に響いたそれに、じわりと目頭が熱くなった。気付かれたくなくて、そっと目をつぶって嗚咽と一緒に引っ込めようとした。
「そうだね、まだまだ子供だよ、片瀬は。」
「うるせえ、お前に言われたくねえよ。」
「私はブロックの上をゆらゆら歩いたりしないから。」
「それを落とそうとしてつついたのはどこのどいつだっけ?」
私の声は震えていたけど、それには触れないで軽口の応酬になる。
(ああ、悔しい。)
私の気持ちが完全に見透かされているらしいことも。
不本意ながら、その間合いに安堵させられたことも。
それに不本意だと感じるあたり、私の方が子供じゃないか、ということも。
ほう、っと息を吐く。喉の奥のひりつきが収まってきた。
「私も、大学とかその先のこと、考えなきゃな。」
今までずっと疎ましくて避けていたこと。初めて口に出してみたけど、以前ほど恐ろしくは感じなかった。
おお、っと片瀬が眉を上げた。
「いい心がけだなそりゃ。まあ最初はぼんやりとで、これがしたいなー、って思ったのを拾ってきゃいいと思うぞ。」
「ぼんやり、ねえ。」
将来の自分なるものを、「ぼんやり」浮かべようとしてみる。
大学行って、就職して、もしかしたら結婚してお母さんになって、それから先は。
考えているうちにふと、こぽこぽとあの大好きな音が湧き上がってきた。そして今までのイメージが、ふっと暗転していく。
ああ。なるほど。実に私らしい。
「死ぬときは、水の中で死にたい。」
唯一ちゃんと形になって見えた将来を呟いた。
目を見開いた後、盛大に声を上げて片瀬は笑い出した。
「そんなにおかしい?近所迷惑でしょ、やめてよ。」
「違うって、いや違わねえけど。ちょっと待てお前、っははは!」
けほけほ、と片瀬がむせた。
ほぼ無意識で口から零してしまったけど、そんなにおかしかったか。まあ普通ではないかもしれないけどさ、確かに。
「いやあ、お前ほんとぶれねえな。やっぱ水がなきゃだめか。いっそ魚にでもなっちまえよ。」
「せめて哺乳類か人魚にしてほしいね、そこは。」
「人魚って哺乳類じゃねえのか。」
「知らない。上半身だけ哺乳類なんじゃない。」
ああ、くだらないな。
でも、楽しいな。
「ねえ、拓海。」
久々に名前を呼んだ。たった三音なのに、なぜか特別な言葉みたいだ。
胸にじんわりと温かさが広がる。こいつは今、ちゃんと私の隣にいるんだ。
「泳ぎたいんなら、テスト明け市民プール行く?夏休み前なら、まだ空いてるでしょ。」
「お、行きてえ。鈍ってそうだなあ。最後に泳いだの、去年の体育だからな。」
「じゃあ私とがんがん勝負してさっさと取り戻すがいいよ。負けた分アイス奢りね。」
「おいおい、水泳部のエース様が文化部員に言うことかよ。」
片瀬が渋そうな顔をつくる。それがおかしくて、私は声を出して笑ってしまう。
いつも通りの、何気ない帰り道だ。
相変わらず、将来を考えるのは恐ろしい。やりたいことだって、ぼんやりとでもなかなか浮かんでこない。
でも、変わってしまうことだらけの中で、変わらないものがあることが分かったから。
少しは、ちゃんと地に足をついて、目を開き、耳を傾けられるようになってきた。
そうして見つけた、最初の将来への願い。
どうか、この空っぽだけど満たされる時間が、できるだけ長く続きますように。
青に揺蕩う 立花 @rikka_sasr
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