第10話 それは、空を飛ぶ帆船でした

 数日後。

 クリスたちはオークニーとシェットランド領の間の山脈の中腹にある湖の前にいた。水面が鏡のように雲一つない空を写している。

 湖と同じ水色のワンピースを着たクリスが、額に手を当てて楽しそうに空を見上げた。


「大きな船ですね」


 クリスの視線の先には、悠然とこちらに向かってきている巨大な飛空艇がある。三連の白い帆一杯に風を受けて進む光景は、海に浮かぶ帆船と変わらない。


 その光景を始めて見たセルシティは、玩具を見つけた子どものように紫の瞳を輝かせた。


「なかなか壮大な光景だな。執務がなければ共に行ったのに残念だ」


 その言葉に親衛隊とルドの顔が引きつる。


「セルは絶対に来ないでくれ」


「おや、おや。そんな寂しいことを言うと、セスナとやらで追いかけるよ?」


 セルシティが妖艶な微笑みを浮かべる。美貌と相まって普通なら見惚れてしまうところだが、親衛隊とルドは背筋が凍った。冗談交じりに言っているが、やると言ったら必ずやるのがセルシティだ。


 ルドが懇願するように大きく首を横に振る。


「頼むから待っていてくれ」


「では、土産を頼むよ」


「わかった」


 土産という言葉を聞いてクリスがパタパタと駆け足でセルシティのところへやって来た。フワリとスカートが風で揺れ、裾からレースが微かに顔を出す。


「どのようなお土産がいいですか?」


 明るく笑いながら小首を傾げて訊ねてくる姿は可愛らしく、可憐な少女だ。記憶を失くす前のクリスからは、とても想像できない。


 セルシティは微笑んだまま答えた。


「クリスティが選んでくれたものなら、なんでもいいよ」


「それでは悩んでしまいます。せめて、食べ物とか食器とか服とか飾りとか、何か具体的にありませんか?」


「うーん、じゃあ寝室に飾れる物をお願いしようかな」


「わかりました。楽しみに待っていてください」


 楽しそうに答えるクリスの背後からカルラが泣きついてきた。


「クリスさまぁぁぁぁ。私もご一緒したかったですぅぅぅ」


「え? でも……」


 クリスが背後にへばりついて泣いているカルラに困惑する。そこにラミラがやってきて、容赦なくカルラを引きはがした。


「ナタリオと一緒に屋敷で留守番していてください」


「前回に引き続き、今回も留守番なんてぇぇぇぇ」


 カルラが悔しそうに白いハンカチを噛みしめる。クリスが慌てて慰めた。


「あの……お、お土産! お土産買ってきますから! なにがいいですか?」


 カルラがハンカチを手放し、クリスの両肩に手を置く。茶色の瞳は鬼気迫る勢いで、クリスは思わず逃げたくなったが、肩をしっかりと掴まれているため動けない。


「土産話を! 土産話を待っております! 特に犬とノォォォ……」


 ラミラが再びクリスからカルラを引きはがす。


「犬?」


 クリスが足元を見回していると、ラミラは笑顔を繕って言った。


「それより、一緒に荷物の確認をしていただけませんか? 忘れ物があるといけませんから」


「はい!」


 クリスが明るく良い子の返事をする。ラミラは荷物が置いてある場所まで、先導するようにカルラを引きずって歩いた。クリスがその後ろを軽やかな足取りでついていく。


 その光景を見ながらセルシティは呟いた。


「クリスティは、あれでもいいのかもしれないな」


 予想外の言葉にルドが視線をキツくする。


「どういうことだ?」


「クリスティのあの姿。年相応だと思わないか? クリスティには、あぁいう普通の人生もあったはずなんだ」


「……」


 無言のルドにセルシティが続ける。


「偽りだらけの姿より、素の自分で動ける方が生きやすいだろ」


 ルドが琥珀の瞳を伏せる。セルシティが口元だけでニヤリと笑った。


「そうは言っても、どう生きるかは本人が決めることだ。偽りだらけの姿でも、本当の姿を晒せる相手がいれば、その負担も軽くなるだろうな」


「……本当の姿」


 ルドが顔を上げてクリスに視線を向ける。笑顔でラミラと会話をするクリスは生き生きしているように見えた。


 セルシティがルドの肩を軽く叩く。


「君次第だよ」


「え?」


「記憶が戻った時、クリスティがどの生き方を選ぶか。楽しみだね」


「それは、どういう意味……」


 飛空艇が湖に着水して大きく波打つ。セルシティはルドを放置してオグウェノのところへ移動した。


「飛空挺の中を少し見学させてもらってもいいかな?」


「甲板と操舵室ぐらいなら、いいぞ」


 セルシティが素直に驚いた表情になる。


「操舵室もいいのかい?」


「あぁ。普通の帆船の操舵室と変わらないからな。案内しよう」


 飛空艇から長い板が伸びてきて湖の岸に下ろされる。その板の上を軽やかに走り、縄を持った男たちが降りてきた。そして素早く周囲の木などに縄を結び、飛空艇を固定していく。

 あっという間に固定が終わったところで、オグウェノが手招きをした。


「では、案内しよう」


 オグウェノが慣れた足取りで板の上を歩いていく。その後ろを親衛隊とセルシティが続く。クリスも追いかけようとして板に足をかけたところで止まった。


「師匠? どうかしましたか?」


「あ、い、いえ。なんでもないです」


 思ったより板が揺れている。頑丈な厚さと幅があるのだが、手すりもない状態で歩いていくには怖い。


 クリスが躊躇っていると、背後から声をかけられた。


「先に行きますわよ」


 振り返るとイディにお姫様抱っこされたベレンがいた。当然のようにベレンを抱えたイディが、スタスタと板の上を歩いて飛空艇に乗り込む。


 その光景をクリスが呆然と眺めていると、地面から足が離れた。


「えっ!?」


 クリスが顔を横に向けるとルドの顔があった。


「その服では歩きにくいと思いまして」


 記憶を失う前のクリスであれば、ここで暴れるか文句を言っている。

 ルドはクリスが暴れたり叫んだりしてもいいように身構えたが、何も起きない。ルドが腕の中を見ると、クリスが顔を真っ赤にして小さくなっていた。


「す、すみません。お願いします」


 予想外すぎる反応に、ルドの顔もつられて赤くなる。不覚にもクリスのことを可愛いと思ってしまったのだ。


「は、はい」


 ルドは揺れてクリスが怖い思いをしないように、慎重に板の上を歩いていく。その様子に、荷物を運んでいたラミラが手を止めた。


「どうかしましたか?」


 カリストに声をかけてられ、ラミラが軽く首を横に振る。


「いえ。なんでもありません」


「セルシティ第三皇子が言われるように、クリス様にはあのような生き方もあるのでしょうね」


 カリストの達観したような呟きにラミラが声を上げる。


「ですがっ……」


「記憶がなくてもクリス様はクリス様です」


「……わかっています。今のクリス様の方が、しがらみもなく伸びやかに過ごされていますし、このままの方がいいのかもしれない、と思うこともあります。ですが……」


 ラミラが複雑な表情になる。カリストが神妙に頷いた。


「クリス様にとって幸せな生き方かどうか。それを決めるのはクリス様です」


「……はい」


「荷物はこれで全部かぁー?」


 飛空艇の乗組員の大声が響く。


「あ、これもお願いします!」


 ラミラが慌てて運んでいた荷物を持ち上げる。カリストは無言で飛空艇を見上げた。

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