第9話 それは、旅の始まりでした
数日後。
クリスは治療院研究所に長期休暇の申請をして休んでいた。多少の無理はあったが、
しかし当の本人であるクリスは、記憶がないだけで体は元気なため、暇をもて余していた。そこでメイドたちが暇潰しにと、刺繍や裁縫などの道具を差し出した。記憶があった頃のクリスなら見向きもしなかった物たちだ。
差し出したメイドたちも却下されると思っていたが、意外にもクリスは、面白そうですねと、メイドたちから教わった。しかも手先が器用なため、上達が早い。
一方のルドはクリスの屋敷に通い、書庫の本で自主勉強をしていた。
そんなクリスとルドを、カルラはテラスに誘って、二人で過ごさせていた。
この日は天気が良いので、カルラは気分転換にと、庭にテーブルと椅子を出していた。そこでクリスはレースを編み、その隣でルドが本を積み重ねて勉強をしている。
その光景を満足そうに眺めながら、カルラは紅茶を淹れたカップをクリスに差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
クリスの手元には、ほぼ完成したレースのハンカチがある。
「レースを編むのも慣れてきましたね」
「みなさんに比べると下手ですが」
「そんなことありませんよ」
二人が和やかに話しているが、ルドは黙々と本を読み、気になるところを書きとっている。
クリスがルドに声をかけようか悩んでいると、可愛らしい声が飛んできた。
「ルドォー? どこにいますのぉ?」
その声に、今まで動くことがなかったルドの肩がビクリと跳ねる。
「あ、こちらにいましたの!?」
柔らかそうな髪を風に揺らしながら、可愛らしい女性が小走りでやってきた。
緩いウェーブのかかった白に近い金髪が滑らかな白い肌に映え、大きな水色の瞳がにこやかに微笑んでいる。
クリスが可愛くて綺麗な人だなぁ、と眺めていると、ルドが怯えたように女性に声をかけた。
「ど、どうしました?」
可愛らしい女性が頬を膨らまして腰に手を当てる。
「クリスが記憶を失くしたって聞きましたの。そんな大事なことは、もっと早く教えてください」
「あ、いや……はい。すみません」
すっかり報告することを忘れていたルドが、気まずさから視線を逸らす。だが可愛らしい女性は、逃がすまいとルドに詰め寄る。
そんな仲が良さそうな二人の様子に、クリスはもやもやとしたものを感じた。なんとなく胸に手を当てて首を傾げる。
「これは……なんでしょう? 前にもあったような……」
クリスが悩んでいると、艶のある低い声が響いた。
「お姫さんの言うとおりだ。月姫が記憶喪失なんて一大事のことを知らせないとは、どういうことだ? 赤狼」
艶やかな黒髪に深緑の瞳の青年が歩いてきた。口調は軽めだが、視線はキツく怒りがこもっている。
ルドを責めるような表情をしていた青年が、クリスの方を向く。不機嫌で威圧的な気配に、クリスが固まる。
しかし、青年はクリスと視線が合った瞬間、甘い表情とともに嬉しそうに微笑んだ。
「元気そうだな、月姫。顔色もいいし、安心したぞ」
「月……姫?」
首を傾げたクリスに青年の雰囲気が変わる。王族特有の高貴な気配を放ちながらクリスの頬に手を伸ばした。
「そうだ、我が姫よ」
オグウェノの手がクリスに触れる直前で、ルドが手を出して遮る。
「なにか用ですか?」
邪魔をされたオグウェノは仕方なく手を下げた。
「月姫の様子を見に来た」
「それだけですか?」
琥珀の瞳と深緑の瞳が睨み合う。しばらくして、オグウェノがフッと笑った。それだけで周囲の空気も軽くなる。
「なかなか、鋭いな。ちょっとした提案をしに来たんだ」
「提案?」
ルドが訝しんでいると、カリストがやって来た。
「みなさま、お話しの前にクリス様に紹介しても、よろしいでしょうか?」
オグウェノが自身の失態に気付き、不思議そうに見ているクリスに謝った。
「すまない。突然知らない者が現れて話をしても困るだけだな」
「では、こちらへどうぞ」
カリストが手で
クリスが椅子に座ると、ルドがその後ろに立ったまま控える。クリスを護衛するためなのだが、いつもと違うルドの動きにクリスは驚いて振り返った。
「座らないのですか?」
「気にしないでください」
「ですが……」
カリストがルドに声をかける。
「ここには私たちもおります。どうぞ、おかけください」
「いえ、自分は……」
カリストが小声でルドに囁く。
「いつもと同じようにしてください。クリス様が不安になります」
「……わかりました」
ルドが隣に座ると、クリスの表情が安心したように緩んだ。そこにカルラが現れた。
「失礼します」
カルラが茶菓子をテーブルにセッティングする。
「まあ、綺麗ですわ」
それは銀色の一本の棒から数本の枝が伸びた木のようだった。
その枝の先には皿があり、サンドイッチや、生クリーム添えパンケーキ。カラフルなクッキーに、オレンジやチェリーなどのフルーツ等々、皿ごとに違う菓子や軽食が載っている。
しかも、どの皿も繊細な飴細工やチョコレートで煌びやかに飾られている。
おとぎ話に出てくるお菓子の木のような光景に、女性は感嘆のため息を漏らした。
「ここのお茶会はいつも素晴らしいですわ。帝都でも、このようなお茶会はありませんもの」
「ありがとうございます」
カリストが優雅に頭を下げながら、カップに紅茶を注いだ。ふわりと甘いリンゴの香りが広がる。
ルドは女性の機嫌が良いことに少し安堵しながら、クリスに三人を紹介した。
「師匠。こちらは、現皇帝の姉の娘のベレンガレリアです」
紅茶の香りを楽しんでいた女性が顔を上げる。
「ベレンと呼んでくださいな」
「で、こちらがケリーマ王国の第四王子のオグウェノです」
「オグウェノ・ケリーマだ。オグウェノと呼んでくれ」
「その後ろにいるのが護衛のイディです」
筋肉質な男が頭を下げる。クリスは三人を見ながら、申し訳なさそうな顔をした。
「そうなのですね。記憶がなくてご迷惑をおかけしております」
クリスが頭を下げる姿にベレンが水色の瞳を丸くした。
「……本当に記憶がないのですね」
「すみません……」
ベレンが慌てて弁解する。
「あなたが悪いわけではないのですよ。ただ、本当に驚いて……」
オグウェノが面白そうに笑う。
「謝るなんて、月姫は滅多にしなかったからな」
「そうなのですか!? 薄々感じていたのですが、記憶を失くす前の私って一体……」
クリスが両手を頬に当てて困惑する。その表情にオグウェノかニヤリと笑った。
「今の月姫は表情豊かで可愛らしいな」
からかいが混じったような言葉にルドがオグウェノを睨む。
「用件は? なにか提案がある、とのことでしたが?」
「あぁ。今の月姫を見ても思ったが、魔力が駄々洩れだろ? これだと、事情を知らないヤツが来た時に面倒なことになるぞ」
この国では、女は魔法が使えないことが常識だ。だが、男装をして普段から魔法を使っていたクリスは、普通に魔力がある。しかも、今は記憶がないため魔力のコントロールが出来ず、だだ漏れ状態だ。
もし魔法を扱う人間が今のクリスを見れば、女なのに魔力が溢れている危険人物として騒がれる可能性が高い。
そのことに関しては、ルドも対策が必要だと考えていた。
「それについては、対応策を考えている最中です」
オグウェノが飲んでいた紅茶を置いて提案する。
「そこで、だ。ケリーマ王国に来ないか?」
「え?」
「ケリーマ王国なら、女が魔法を使うのは普通のことだから、魔力がだだ漏れでも問題にはならない」
「ですが……」
ルドが悩みながら横目でクリスを見る。クリスはよく分からず、心配そうにルドを見上げていた。
「私がここにいては、迷惑をかけるのですか?」
「そういうわけでは……」
返答に悩むルドにオグウェノが続ける。
「親父とお袋も月姫に会いたいと言っているし、こんな長期休みなんて普通は取れないだろ? ちょうどいいと思ってな」
「だが、師匠は記憶が……」
「それについては伝えてある。記憶がなくてもいいそうだ」
ルドが怒りとともに立ち上がる。
「師匠の許可も得ず、勝手に伝えるな!」
「まあ、まあ、怒るな。ずっと屋敷にこもっているより気分転換にもなるし、なにかが刺激になって記憶が戻るかもしれないぞ」
「記憶が……」
ルドが視線を下げるとクリスと目が合った。クリスがしっかりと頷く。
「記憶が戻る可能性があるなら、行きます」
「ですがケリーマ王国はとても遠く、行くだけでも十数日……」
「飛空艇を使うから数日だぞ」
そこにカリストが入る。
「必要でしたら、シェットランド領からセスナを出しましょう」
「え!?」
ルドはカリストが同意すると思っていなかったため驚いた。カリストが淡々と説明をする。
「今のままでも記憶が戻る様子はありません。それなら、動いてみるのも手だと思います」
確かに魔力の問題もあるし、このまま籠っていてもクリスの精神的負担になる。それなら気分転換もかねて環境を変えてみるのもありだろう。
そう考えたルドは渋々頷いた。
「わかりました」
こうしてケリーマ王国への旅行が決まった。
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