第8話 それは、ピンチをチャンスに、の考えでした
カリストに促されてクリスの部屋を出たルドは、落ち込んでいた。俯いたまま先を歩くカリストの後ろを、トボトボとついていく。
「鬱陶しいですよ」
突然の辛辣な言葉も、今のルドには刺さらない。それどころか、さらに落ち込んでいく。
「すみません。自分が不甲斐ないばかりに……」
「あなたが謝ったところで、クリス様の記憶は戻りません。シェットランド領の治療医師の到着を待ちましょう」
ルドが頭を抱えて座り込んだ。
「あぁ、こんな時に師匠がいれば、師匠が師匠を診断して、師匠の記憶を戻せるかもしれないのに」
カリストが冷めた目でルドを見下す。
「かなりキテますね」
少し考えてからカリストはルドに声をかけた。
「気分を変えるために外へ出ましょう」
「……はい」
ルドもこのままでは好転しないと理解しており、素直にカリストに従った。
とぼとぼと歩いて中庭に出る。爽やかな風が吹いているが、ルドの心を慰めるには程遠い。
「これからのことですが、今のクリス様に男装は無理だと思われます」
ルドが俯いたまま同意する。
「自分もそう思います」
「ですので、記憶が戻るまでは屋敷の中で過ごしてもらおうと思います」
「それがいいと思います」
沈んでいるルドをカリストが睨む。
「クリス様が頭を打ったのは、ご自身が足を踏み外したせいです。もしクリス様に記憶があれば、そんなに自分を責めるな、と言われるでしょう」
「……確かに、そう言われると思います」
「でしたら、そろそろ回復してください」
「わかっているのですが……」
湿っているルドに、カリストが呆れたようにため息を吐く。
「ならば何故、そんなに落ち込んでいるのですか? それとも、忘れられたことがショックでしたか?」
「……そういえば、なんでこんなに?」
ルドはカリストに指摘されて初めて気が付いた。
確かに、クリスに記憶があったなら『打撲も治っているし、これ以上落ち込むな。鬱陶しい』とか言われ、ルドも気持ちを切り替えている頃である。
記憶がないにしても、打撲の治療は成功したようだし、あとはシェットランド領から来る治療医師に任せるしかない。
気持ちを切り替えるしかないのに、何故こんなに落ち込んでいるのか……
ルドは逆にカリストに訊ねた。
「カリストはショックではないのですか?」
「驚きましたが、記憶がなくてもクリス様はクリス様です。私たちがすることは変わりありません」
「そう……ですか」
「あなたの場合、クリス様から治療について学ぶことが出来なくなるので、私たちとは少し違いますけど」
「たしかに学べなくなりますが、それより……」
それより、なんだろう。自分で言っておきながら分からない。
ルドが悩んでいると、明るい声が聞こえてきた。
「みつけました!」
普段の聞きなれた声より少し音が高い。ルドが思わず顔を上げると、淡い黄色のワンピースを着たクリスが満面の笑顔で駆け寄って来た。
「着替えました! どうですか?」
ルドの前まで来たクリスがスカートを膨らますように一回転する。スカートが大きく広がり、非常に可愛らしい動作だ。
カリストが優雅に微笑みながら答える。
「お似合いです」
「ありがとうございます」
クリスはニコリと笑うと小首を傾げてルドを見上げた。こうして見ると、クリスが少女なのだと再認識する。
わくわくと待っているクリスに、ルドは軽く微笑みながら言った。
「似合ってますよ」
だが、その言葉を聞いたクリスが目に見えてしぼんでいく。
「ど、どうかしましたか?」
カリストと同じことしか言っていないのに、とルドは慌てた。
クリスが拗ねたようにルドの服の裾を摘まむ。
「ルドさん、どこか苦しそうです。無理して誉めなくていいんですよ?」
クリスに指摘されてルドはハッとした。記憶を失くして一番不安なのはクリスだ。自分がここで落ち込んでいる場合ではない。
ルドはクリスの手を両手で包み込んだ。クリスが驚いたように深緑の瞳を開く。
「失礼しました。自分は大丈夫です。その服はとてもお似合いですよ」
ルドが安心させるように微笑むと、クリスの顔が真っ赤になった。
「そ、それなら良かったです」
「はい」
クリスはクリスだ。守るべき存在であることに変わりはない。たとえクリスと目の輝きが違っても。
ルドはそう新たに決意した。
※※※※
その日の午後。シェットランド領から一人の治療医師が到着した。白髪が混じったこげ茶色の髪をした中年の男性が、明るい笑顔で応接室に入る。
「クリス様、久しぶり」
突然の訪問者に、ルドはクリスを守るように前に出た。クリスはその影から困ったように微笑む。
「えっと……あの……」
言いにくそうなクリスの様子に、男性が訳知り顔で頷く。
「聞いたよ。記憶喪失だって?」
「は、はい」
すかさずカリストがクリスとルドに男性を紹介する。
「こちらはシェットランド領に住んでいる、治療医師のヘリングです」
へリングが照れたように髪をかきながら自己紹介をする。
「昔、他の国で治療師をしていたけど、いざこざがあって国を追われ、放浪していたところを、カイ様とクリス様に拾われた。で、シェットランド領に移住して医学も学んで、今は治療医師をやってる」
「あの……治療師と治療医師は違うのですか?」
クリスの質問にへリングが頷く。
「簡単に説明すると、治療師はとりあえず治療魔法をかけて治す。だから、どこまで治るか、根本から治っているか、は不明という不安定なものだ。だが、突然の怪我とか、瀕死の状態とか、とにかく一命をとりとめたい時は治療魔法が有効になる」
「医師は何をするのですか?」
「医師は医学の基づいて治療をする。症状を診て判断して魔法で治療をしていく。で、治療医師はこの両方ができる人だ」
「すごいですね」
感心しているクリスの隣で、ルドが顔を輝かせている。
「では、クリス様の記憶喪失の治療をして頂けるのですね!」
「あー、いや。そんなに期待しないでくれ。目に見えて異常があれば治せるが、そうでなかったら治せないから」
「それは、どういう意味ですか?」
ヘリングがルドを頭から足先まで眺めて頷く。
「お前さんがクリス様の弟子の番犬か」
「否定はしませんが……シェットランド領で、自分はどのように呼ばれているのか気になります」
「それは知らないほうがいいぞ。さて、時間がないから、さっさと診察しよう」
ヘリングがクリスの前に立つ。
「あの、私はどうすれば……」
「そのままでいいから。動かずにじっとしといてくれ」
ヘリングがクリスの頭に手をかざし、茶色の瞳を細めて睨みつける。
しばらく、そうしていた後、今度はゆっくりと手を下へ動かした。顔、胸、腹、と撫でるように全身に手をかざす。そして足先まで診ると、ヘリングは大きく息を吐いた。
「どうですか!?」
喰いつくように訊ねてきたルドに、ヘリングが頭を左右に振った。
「記憶喪失の原因はみつからない」
「ならば治療魔法をかければ……」
「治療魔法をかけても記憶が戻る保証はない。そもそも、脳はとても複雑なんだ。下手に魔法をかけて、さらに記憶障害を起こしても困るだろ」
「記憶障害?」
「一部しか記憶が戻らなかったり、空想や物語を実際にあったことと思いこんだり」
ルドは頭を抱えた。不確定要素が高い治療魔法で記憶を戻すのは危険すぎる。
ルドはすがるようのへリングに訴えた。
「では、どうすればいいのですか?」
「そうだなぁ……」
ヘリングが腕を組んでクリスを眺める。その視線に居心地の悪さを感じたのか、クリスが体を小さくした。それは普段の威風堂々とした雰囲気とはかけ離れた、突然のことに戸惑いを隠せていない普通の少女である。年齢と性別を考えれば、むしろこれが本来の姿だ。
ヘリングが視線をルドに移す。心配、と書いた顔とともに、真っ直ぐ琥珀の瞳を向けている。その頭には、ないはずの犬耳と尻尾が垂れ下がっている幻覚が見えた。
犬、か。
ヘリングは妙に納得しながら説明した。
「脳に出血や梗塞など、目に見える範囲での問題はない。ただ、拡大魔法にも限界はある。細かいところまでは、診ることが出来ない。もしかしたら、どこかの神経回路が遮断されているのかもしれないが、それは小さすぎて診れない」
「つまり?」
「時間が経てば自然と記憶が戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。様子見だな」
ルドががっくりと肩を落とす。その様子にクリスが慌てて寄り添う。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「い、いえ。師匠が悪いわけではありません。自分があの時に、もっとしっかりしていれば……」
悔やむ様子のルドに、ヘリングが軽く提案する。
「命に問題があるわけじゃないし、クリス様の休暇だと思えばいいだろ」
「休暇?」
顔を上げたルドにヘリングが頷く。
「クリス様はいくら休めと言っても、心から休むことはなかった。どうせなら、この状況を逆に利用して、しっかり休んだらいいだろ」
「心から……」
言われてみれば、クリスは休日も医学書を読んだり、薬の調合をしたりしており、まともに休んだことがない。
「そうですね。師匠は休むことがありませんでしたし、いい機会ですね」
ルドがクリスに微笑む。クリスは顔が一瞬で赤くなり、誤魔化すようにそっぽを向いた。
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