第6話 それは、突然のことでした

 数日後。

 クリスは朝から少し疲れた顔をしていた。


「やっと研究の続きができる」


 セルシティに城へ呼ばれた日は、そのままベレンに捕まり、治療院研究所には行けなかった。翌日からは連日、町の治療院で治療師としての仕事があり、移動と人々の治療が続いた。


 カルラが食後の紅茶を差し出しながら、心配そうに声をかける。


「お疲れではありませんか? 今日ぐらい、お休みになられたほうがいいのでは?」


「いや、問題ない。それより、興味深いことが書いてある本を見つけてな。それを研究所で試したいんだ」


 カルラが呆れたようにため息を吐く。あるじの研究熱心は今に始まったことではない。


「では、せめて馬車を使ってください」


 クリスはいつも治療院研究所へ運動がてら徒歩で行く。遠くもないが、すぐ近くというわけでもない。


 カルラの提案にクリスは思案した。研究に集中するための体力と時間を確保するため、馬車で行くのも良いだろう。


「そうだな……たまにはいいか」


「では、馬車の準備をしておきます」


 カルラが下がると、入れ替わるようにカリストがやってきた。


「犬が来ました」


 その報告にクリスの胸が軽く跳ねる。毎朝のことなのだが、これにはいまだに慣れない。


 もともとクリスは一人で治療院研究所に通っていた。だが、少し前にクリスが襲われる事件があり、それ以降はルドが護衛も兼ねて共に通っている。最初の頃は拒否していたのだが、ルドのゴリ押しに負けた形だ。


「わかった」


 クリスが平静を装いながら椅子から立ち上がり、歩き出す。

 そのまま屋敷の入り口まで移動すると、ルドがカルラと談笑していた。その光景にクリスの足が止まる。なぜか胸の辺りがもやもやするような違和感があり、無意識に胸に手を当てていた。


「クリス様? どうかされましたか?」


 背後からカリストに声をかけられ、クリスが我に返る。


「あ、いや、なんでもない」


 クリスはカリストに差し出された白いストラを受け取ると首にかけた。


「あ、師匠! おはようございます!」


 クリスに気がついたルドが笑顔で駆け寄って来る。


 その姿にホッとすると同時に胸の違和感が消えた。そこで、クリスに疑問が浮かぶ。


 なぜ、ホッとしているんだ?


 クリスが考え込んでいると、ルドが首を傾げながら覗き込んできた。


「師匠? どうかされましたか?」


 琥珀の瞳のどアップにクリスの胸が再び跳ねる。


「な、なんでもない! 行くぞ」


 暴れる動悸を誤魔化すように、荒い歩調でクリスが馬車に乗り込む。座席に座ると座面が包み込むようにふわりと沈み、窓からの爽やかな風が頬を撫でた。暑くもなく、寒くもない。過ごしやすい季節で、草花も生き生きとしている。


 クリスが穏やかな気候に和んでいると、ルドが反対側に座った。襟足から長く伸びた赤髪が胸の前で踊りながら垂れ下がる。精悍な顔立ちは無駄なほど整っており、筋肉は適度についているため体格も良い。

 ぼんやり観察していると、涼しげな琥珀の瞳がこちらに気づいた。クリスが逃げるように視線を窓の外に向ける。


 そこに馬車が静かに出発した。ルドがクリスと同じように窓の外の流れる景色を見る。


「いい天気ですね」


「そうだな」


 クリスは答えながら、別のことを考えていた。最近、ルドについて、気になっていることがある。だが、あまり聞きたくないような、でも気になる……と、心の中で繰り返し葛藤していた。


 それが今なら馬車という閉鎖空間のため、周囲を気にせず聞くことができる。


 クリスは視線を窓の外に向けたまま、世間話をするように話題を出した。


「女性恐怖症は、だいぶんよくなったようだな」


 ルドは以前、この国の結婚適齢期の女性に対して、話すどころか近づくことも出来なかった。それが少しずつ距離を縮められるようになり、会話もできるようになってきている。


 女性恐怖症を克服してきている証拠であり、喜ばしいことのはずなのだが、なぜかクリスは苛立つような、悲しいような複雑な気持ちになっていた。

 だが、こんな感情をルドに気付かれたくない。


 そんなクリスの心情など知らないルドは、軽く首を傾げた。


「そうですか?」


 クリスが少しムッとした顔で指摘する。


「この前、セルシティの城のメイドに礼を言えていただろ」


 ルドは少し考え、思い出したように頷いた。


「ですが、かなり頑張ってアレですからね。まだまだです」


「だが、カルラやラミラとは、最初から普通に話せていたぞ。奴隷だから対象外だったのかもしれないが、同じように対応できれば……」


「いえ。あの二人は根本的に違うので、他の女性の方々と同じようには出来ません」


 予想外の言葉にクリスがルドの方を向く。


「根本的に違う?」


「はい。あの二人……というか、あの屋敷の使用人全員に言えることですが、かなり腕が立つ人たちばかりですよね?」


「あー、そうだな。カリストの人選だが、ある程度は腕が立つことが屋敷で働ける条件の一つにしているらしい」


「ある程度どころではありません。腕の立ち方が半端ないんですよ。隙をみせたら、こちらがやられてしまいますから、全力で警戒しないといけません」


 クリスが目を丸くする。


「魔法騎士団のおまえが全力で警戒しないといけないほどか?」


「そうです。あの屋敷はある意味、帝城より警備が厳重で強者揃いです」


「だが、おまえは警戒して話しているのか? 普通に会話しているようにしか見えないが」


 それどころか遊ばれている時もあるしな、とクリスは思ったが、そこまでは口にしなかった。


 ルドが苦笑いを浮かべる。


「そのように見せています。どんな相手でも普通に対応する訓練は受けていますから。それに使用人の方々から警戒されていたのは、最初の頃だけですし」


「最初の頃?」


「はい。師匠と初めて一緒に治療に行った日は、特にひどかったですよ。隙あらば刺されそうな勢いでしたから。それから徐々に使用人たちの警戒は薄くなっていきました」


「おまえは今も警戒しているのか?」


「一応、今でも最低限の警戒はしてます」


 そこで、まっすぐクリスを見ている琥珀の瞳が細くなった。いつもの人懐っこい雰囲気ではなく、包み込むような慈しんでいるような視線。

 その視線にクリスは息が止まりかけた。顔が赤くなりそうになるのを、どうにか堪える。


「な、なんだ?」


「自分が師匠を傷つけることがないか、常に見張られています。みんな師匠が大切なんですね」


 クリスは自分の顔が赤くなっていくのが分かり、慌てて顔を隠すように窓の外を見た。


「カ、カルラたちには必要以上に警戒しないように言っておく」


「今のままで大丈夫ですよ、慣れましたから」


「そ、そうか。だが、それで普通に話せるなら、他の女性たちも同じように警戒すれば普通に話せるんじゃないのか?」


「いえ、これは相手に実力があるからこそ無意識にしていることです。力を持たない相手では出来ません」


「……意外と融通が利かないんだな」


「融通! そうですね」


 ルドがいきなり笑った。クリスは何が面白いのか分からず、ムッとする。


「どうした?」


「いえ、そういう発想があるとは思わなかったので」


「……バカにしているのか?」


「まさか!」


 ルドが顔を青くしながら否定するように手を横に振った。クリスがルドを睨む。


「本当か?」


「はい!」


 クリスはしばらくルドを睨みつけた後、背中を椅子につけた。


「まあ、いい」


 ルドが安堵し、その表情にクルスから思わず笑みが漏れる。そこでクリスは気が付いた。


 感情が他人ルドに影響されすぎている。こんなことは初めてだ。


 はっきりと自覚したクリスが眉間にシワを寄せて唸る。


「気に入らないな」


「どうしました?」


「なんでもない」


 突然、機嫌が悪くなったクリスにルドが首を傾げる。馬車が薄暗い森を抜けて治療院研究所に到着した。


「着きましたね」


「そうだな」


 ルドが先に馬車から降りる。続いてクリスが降りようとして足が止まった。ルドが手を出してエスコートしようとしていたのだ。

 気恥ずかしいクリスはその手を払った。


「一人で降りられる」


「すみません」


 ルドが謝りながら馬車から離れる。


「ふん」


 クリスは足を出したが、そこで盛大に階段を踏み外した。あるはずの台がなく、足裏が宙をさ迷う。そこからバランスを崩して体が傾く。


「しまっ!?」


「師匠!」


 ルドが慌てて駆け寄るが間に合わなかった。重心が背後に引っ張られたクリスは、頭と背中を馬車の床と階段で強く打った。


「師匠! 師匠!」


 体を抱えられ、ルドの切迫した声が耳元で聞こえる。なんとか瞼を開けようとするのだが、うっすらとしか動かない。せめて、大丈夫だ、と言いたいのだが、声も出ない。


「師匠! しっかりしてください!」


 必死に呼ぶ声が小さくなり、遠退いていく。クリスは安心させるために右手を挙げるように動かした。


「だい……じょぉ……」


 クリスの挙げかけた腕がパタリと落ちる。


「ししょおーーー!!!!」


 ルドの悲痛な叫びが響く。クリスはルドの腕の中で意識を失った。

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