2-7

 漆黒の仮面ブラックマスクは伸ばした鎖をオリヒメへ巻きつけようと左腕を撓らせる。しかしオリヒメは軽いフットワークで鉄の鞭を掻い潜り、炎を纏った剣で漆黒の仮面ブラックマスクの懐を薙ぎ払った。だが漆黒の仮面ブラックマスクはくの字に腰を引いて剣を回避し、右手で懐の拳銃を握り、慣れた手つきで引き金に指を掛けた。そして漆黒の仮面ブラックマスクの周囲に数多の燃え盛る弓矢――『真紅の弓矢クリムゾンアロー』が現れ、オリヒメを焦点に一斉に解き放たれる。


「ハァァ!」


 オリヒメは緋の矢を更なる炎で焼き払うと、鋭く回した脚で漆黒の仮面ブラックマスクの頭部を蹴りつけた。漆黒の仮面ブラックマスクは左腕でガードを試みるも、危うくバランスを崩しかける。しかし片足で立つオリヒメに鎖を巻き、彼女を引くことによって生じる反動で体勢を整え、逆にオリヒメの横腹を蹴り倒した。


「くぅ!」


 あばら骨を軋ませ、地面に仰向けで叩きつけられたオリヒメの目に映ったのは、自分に対して鎖を撓らせる漆黒の仮面ブラックマスク。背筋が凍るも、避けられないと割り切ったオリヒメは振った剣で鎖をキィン! と弾く。さらに彼女は身を起こし、剣で鎖を巻き取ると、腰を捻って漆黒の仮面ブラックマスクの懐に拳を放った。


「…………ッ」


 敵の呼吸の乱れを感じ取ったオリヒメは、漆黒の仮面ブラックマスクが怯む隙にパンッと掌を合わせる。音が炎の種を生み、真正面を巻き込むように炎が膨れ上がる。しかしその途端、強烈な雨風が唐突に漆黒の仮面ブラックマスクを中心に吹き荒れ、炎はかき消されてしまった。


(これも漆黒の仮面ブラックマスクの能力!? でもおかしい、引き金は引いていないはずじゃ! ……いや、)


 閃いたのはタイムラグ。数十秒のインターバルを空けなければ次の能力は発動できないが、その間に引き金を引いておけばインターバル明けに能力は自動発動する。


(こいつ、弱点を逆手に取って……ッ)


 風の『斬り斬り舞いエッジナイフ』、『護り風エアバッグ』とは異なる水分を含んだ嵐の『水精霊の暴雨アクアストーム』の中では、瞳をまともに開けられない。さらには水に濡れた状態では『灼恋の星姫オリオンガール』の発動もままならず、


(まずい、流れが漆黒の仮面ブラックマスクに持ってかれる……)


 足腰を踏ん張り、身動きが取れないままオリヒメは何とか剣を構える。万事休す――、そんな思いが胸によぎった。しかし、


「……?」


 ピタリと、暴風雨はやんだのだ。

 何が起きた? オリヒメは状況を確認すると、対戦フィールドが『学校』から狭く汚らしい『路地裏』へと移り変わっていた。〈ディメンジョナル・ゲーム〉特有の次元変化が、おそらく能力を強制停止させたのであろう。


漆黒の仮面ブラックマスクは……漆黒の仮面ブラックマスクはどこに?)


 次元の変化に伴い、相対していた二人の配置も変えられる。細く薄暗い一本道の先に、あの黒い姿はない。分厚く灰色に濁る雨雲が空を覆っているせいで、ただでさえ光の届きにくい路地裏はさらに視界が悪くなっている。

 立ち止まるのは格好の的になり危険、そう判断したオリヒメは慎重ながらも一歩を踏み出そうとした。しかし、こつんと衣服に落ちた何かにスッとおもてを上げ、


(雨……? いや、音が……変? 違う、雨なんかじゃないっ)


 そう、雨などではない。液体のように服に染みをつくるのでもなく、乾いた音で降り落ちる硬いそれ。――正体はあられだ。

 細かな氷の粒は次第に肥大化し、気づけば硬式球ほどの大きさになっていた。氷球は落下のたびにガラスが破損するような音を立てる。オリヒメは炎で対応をしながらスマートフォンを傍目で垣間見れば、漆黒の仮面ブラックマスクの能力は『バニラフローズン』と表示されていた。

 えらくふざけた能力名だとオリヒメが舌打ちしたその瞬間、


「くっ、しま――……」


 瞬きをする間もなく、オリヒメの周りに鎖が張り巡らされてゆく。獲物を捕獲する蜘蛛に狙われたかのように。


(次は……、次は何が……)


 視界が冴えない中、足元がすくむ。すくんでしまった事実が、オリヒメの心を無性に締めつける。能力の多様性による対戦相手の心理の攪乱こそが敵の術中だと知っていてもなお。


「はぁ……、はぁ……」


 直撃こそ避けてきたものの、度重なるダメージは確実に身体を蝕んでいた。鎖の包囲網を掻い潜って攻撃に転じることなど、すでに無理に近い。できたとしても、あと一回だけ。


(次で……絶対に決める!)


 カチャリと、随分と重くなった剣をオリヒメは握り直す。

 だがしかし、その行為を嘲笑うかのように、地面が突発的に揺れた。


「――――ッ!?」


 規則正しく配置された石の地面を割って出現した凹凸の激しい土の隆起は、オリヒメの身を容赦なく突き上げた。ゴツゴツと強張り、かつ鋭い凶器は彼女の腹を、肩を、脚を一瞬のうちに痛みつける。


「ぐっ……があ!」


 宙へと浮いた身体にはこれ以上とない鈍痛が走り、ノイズが走ったかのように視界も眩み、意識が飛び飛びになる。肺の空気はすべて絞り出され、呼吸すらもままならない。

 能力の終わりとともに、空を数度舞ったオリヒメの肉体は抵抗もなく地面に叩きつけられた。


「……げほっ、……げほっ!!」


 起き上がることのないまま大量の鮮血を吐き出すオリヒメ。あまりの痛みに、目尻に溜まった涙が零れる。

 痛い、苦しい、嫌だ、楽になりたい。負けでいいから終わりでもう構わない。――掠れた意識の中、負の感情がオリヒメを塗り潰してゆく。けれども、


(まだ……感覚は……ある。音だって……聞こえる。私の『灼恋の星姫オリオンガール』は……死んでない)


 敗者でいるのはもっと耐えられない。

 まだ、ゲームは終わっていない。


 その拍子、地面越しの振動がオリヒメの頭部に響く。半目で見上げると、暗闇から現れた漆黒の仮面ブラックマスクが倒れている自分を見下ろしている。この状況下においてもやはり無言を貫いて。


 手にする拳銃の銃口を、そっと下へと向ける漆黒の仮面ブラックマスク。銃弾を放てばすべてが終わりのはずなのに、向けてからなぜか数秒の間隔を空けたのち、手が震え、人差し指がやっと引き金に掛かり始める。だが――――、


「あああああああ!!」


 跳ねるように起き上がったオリヒメは、身じろぎをかすかに見せた漆黒の仮面ブラックマスクに鋭く剣を払った。黒の装飾が斬られ、散った鮮血がオリヒメの長い金髪に色を付ける。

 意識を保つことさえ限界の中、奥歯をきつく噛み締めたオリヒメは炎で紅蓮のカーテンをつくって視界を遮ると、剣先を漆黒の仮面ブラックマスクへと思い切り放った。


「……うっ!」


 ゲーム開始後から聞いた初めての声。間違いない、漆黒の仮面ブラックマスクからだ。声色は女のもの。

 だが、性別は関係ない。炎のカーテンが晴れるや否や、オリヒメは炎を乗せた己の拳を漆黒の仮面ブラックマスクの顔面に全力で叩き込む。一方の漆黒の仮面ブラックマスクは身に刺さる剣を抜き捨て、オリヒメの拳を千鳥足ながらも間一髪で躱すが、捨てられた剣はオリヒメに拾われ、


「…………っ」


 瞬く間に壁際に追い込まれた漆黒の仮面ブラックマスクの顔横に、剣が鋭く突きつけられる。


「詰みだから。さあ、あの子について話して」

「…………」


 漆黒の仮面ブラックマスクに反応はない。仮面に隠れて正確にはわからないが、視線はオリヒメに向けているはずなのに。

 膝が崩れかけ、立つのもやっとという中、オリヒメは漆黒の仮面ブラックマスクを視界から決して逃さず、


「さっさと答えないと、その仮面を剥いで首をはねてやるから」

「……………」


 それでも、漆黒の仮面ブラックマスクに言葉はない。

 いい加減痺れを切らしかけたオリヒメ。だが、


「…………?」


 敵は己の顔を覆う仮面に手を伸ばしたのだ。これが戦闘中だということを忘れさせてしまうほどに、自分のペースでゆっくりと。

 オリヒメも固唾を呑んで、仮面の行方を見守る。

 やがて、仮面は取られた。黒の前髪が、透明な深水を見ることのできるような瞳が外気に晒され、これまで隠されていた素顔が明らかになる。


「え? うっそ……、何で? ……え?」


 素顔を見たオリヒメは、思わず目を疑った。隠され続けていたその顔を、穴が開くほどに凝視した。

 だって、そこには―――――。


「どうして……先輩が? なんで……あの子を攫ったの?」


 ――――椎葉依桜は、大人びた、それでいて少しの哀愁を織り交ぜるかすかな笑みを、桃色に潤う柔い口元に浮かべている。


「――――ごめんね、ヒメ。今はまだ、言えない。けどね、絶対に戻るから」


 目を狭めると髪を揺らすように首を傾げ、見守るようにオリヒメを捉え、そう口にした。

 ぴくりと、オリヒメの金髪が動く。唇も小刻みに震えて、言葉が出せない。この人が今の今まで自分と死闘を演じ続けていたとは、とてもじゃないが思えなかった。


「…………っ」


 形容のし難い複雑な思いが心を揺さぶる。目下の人物は単なる上級生だけなのに。失踪した姉にとっての単なる親友の一人だけだというのに。

 この動揺の理由は、全くもってわからない。


 だけれども。


 その発声が、口調が、自分を見つめる顔つきが、大好きだった姉を執拗に連想させるのは、紛れもない事実だった。


「ねぇ、先輩っていったい――――……」


 髪を振りまいて、オリヒメは縋るように先輩に問いかける。

 だがしかし。


「……あ」


 気づいた時にはすでに、黒色の制服が赤混じりに滲んでいた。腹部にできた滲みは次第に広がり、仕舞には足腰の力がふっと消え、後ろによろけ、硬い壁へと力なく背を預ける。尻を冷たい地面に付け、顔を上げれば、名残惜しそうに後ろを向いた椎葉依桜がこの場から去ろうとしていた。手にしている拳銃の銃口からは硝煙が上がっている。

 その時、空から落ちた水滴がオリヒメの頬に当たる。水の粒は次第に降る量を増し、比例して視界が濁ってゆく。いつの間にか、依桜の背はすっかりと遠くなっていった。縋るように手を伸ばしても、彼女は待ってはくれない。


「待ってよ……、待って……」


 ――――結局、姉のヒントを得ることも、あの少女を取り戻すことも叶わなかった。

 動揺するばかりで、何も取り戻せなかった。大事なものは、何一つとして。

 動いていたつもりが、ただ何もできていないままだった。


「ああ……」


 敗北――。《Fenrir2》における彼女の戦績に、この事実が数字として刻まれる。

 長い金髪を垂らしたオリヒメは天を見上げた。今にも消え入りそうな意識の中、降り注ぐ雨のシャワーが彼女に付着する血痕を洗い落とす。

 そしてふと、オリヒメはそれを認めた。


(私って、――弱いんだ)


 揺さぶられさえすれば、姉どころか少女一人として守れない。

 高い戦績なんて関係ない。自分はちっとも強くなんかなかった。

 髪を染めたのも、不良ぶってるのも、自分を慕う友にさえ距離感を抱いているのも、あの少年を言いなりにしていたのも、その彼に敗北したのも、全部自分が弱いからだ。


 ただ一人、誰もいない雨の路地裏で、オリヒメは自らに何度も、何度も言い聞かせる。


(私って……ほんと弱い。これっぽっちも……強くなんかなかったんだ)


 これまで心の中心に根づいていた淡くて脆い自尊心は、残らず粉々に砕け散っていった。



「助けてよ、姉ちゃん……。どうして助けてくれないの……? ばかっ」

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