1-6

 ――――〈マイナス・ゲーム〉。


 緩やかに過去を刻む時の流れの中、刺々しいほどの高層ビルで埋められる摩天楼の近代都市を舞台にゲームは行われる。ルールは一対一での対戦、時間は無制限、一つの装備(任意)と己の戦闘スキル、ならびに固有能力を用い、どちらか一方を戦闘不能にするまでゲームは続く。


「ここは……?」


 『零時の門』から転移されたのは、雲一つない青空広がる晴天の下、高層ビルが連なる都市の中心部だった。ガラス張りの壁面が太陽光を反射する街の中、至る所に伸びる陸橋の上ではモノレールが低速度で逆走している。しかしながら雅志が何よりも気になったのは、


(ってここ、壁の側面か? 壁面に立ってる? 重力が普通じゃない?)


 背後を向けば、視界の遥か先には建築物と建築物によって十字に区切られる灰色の地上が広がっていた。


 ――そう、雅志が立つのは都市の中でひときわ高く伸びるビルの壁面。現実世界ならば起こり得ない物理現象がこの世界では働いているようだ。


 見たことのない世界を雅志が面食らって一望しているその時、対面から、


「なに呑気に見物してるんだか。まさか〈マイナス・ゲーム〉は初めて?」


 負に時を刻む直径数メートルの、白と黒というクラシカルな円時計を挟む形で、対戦相手が猫を撫でたような声でそう口にし、


「舐めたマネしてくれるよね。ひょっとして私に勝てると思ってるの、それも初心者が? いいよ、ゲームには同意してあげる。これでゲーム成立だからもう引き返せないよ」


 オリヒメは手中のスマートフォンを傍目で押さえつつ、雅志を言葉で威圧する。

 倣った雅志も自分のスマートフォンで、対戦相手のデータをチラッと目にすれば、


(通算勝敗は……214勝52敗!? 〈マイナス・ゲーム〉に至っては101勝21敗かよ!)


 依桜が言っていたように、オリヒメが強者なのは知っていた。知っていたうえでゲームを挑んだのも事実。だが戦績を数字でハッキリと見せられ、心に揺らぎが生じたのは嘘ではない。ゲーム慣れという差もわかる。それでも雅志は周囲を今一度眺めることで心を落ち着かせた。近くのビルの頂上ではあの時計盤の女神タイムガーディアンが都市を見渡すように屹立し、ゲーム名のとおり、あらゆる事象が負の時間を描く近未来の世界が視界を占領する。


(風がオレに触れると逆の流れになってる。風が元々マイナスの時間だったとすれば、つまりプレイヤーが干渉するとマイナスの支配から外れるのか)


 初めてなりにも、少しずつだが世界観が理解でき始めてきた。


(覚悟を決めろ。相手は強いしフェンリルの経験こそオレは無いけど、いろんなゲームで経験値は溜めてきたんだ。自分を信じるんだ、千石雅志!)


 周囲から一転、スマートフォンを見返すと、ちょうど10カウントが始まっていた。

 やるしか、ない。

 せめてオリヒメに痛い目を見せる決意をして。否――、完全勝利の結末を思い描いて。


 そしてラストを迎えるカウントダウン、5、4、3、2、1――――……。


 その弾み、気流に長い金髪を靡かせ凛と立つオリヒメは、鋭い眼差しを雅志へと見せ、


「――――さっきのあんたの言葉、そっくりそのまま返してあげる。勝つのはこの私だから」


 カウントダウンが『0』になった次の瞬間、『Ready Fight!!』のフォントがスマートフォンを埋め、勝負の開始を合図する派手な音が一帯に響いた。


(オリヒメは何を仕掛けてくる!?)


 身構え、オリヒメの動向を瞬時に警戒した雅志。しかしオリヒメはその場を動くことはせず、代わりに右足に履くローファーでコンコンと下の壁面を叩く。ルーティーンのような動作から、チリリとした細かく赤い光がつま先から生じては儚く消えてゆく。


(光? いや、あれってまさか……ッ?)


 そうして準備でも整えたのか、オリヒメは靴底を壁面に付けると、前に差し出した右の指を軽く弾いた。直後、紅蓮の塊がオリヒメの手元で瞬時に膨らみ、雅志とを結ぶライン上を火柱となった炎が瞬く間に走る。


「うあああ!!」


 雅志は反射的に横へと飛び込む。足に激しい熱を帯びるも寸前で炎は躱し、直撃こそ免れることはできた。しかし彼に安心すら与える暇もなく、第二、第三の炎が雅志へと放たれる。


(オリヒメの固有能力は炎か! 『灼恋の星姫オリオンガール』、わかりやすいけど強い! 不燃物のコンクリートやガラスまで燃えてるのには気をつけないとっ)


 身を持ってその強さを知るには開始十数秒でこと足りた。数メートル越しに、火力の強さが肌にヒシヒシと響く。


(まだ準備は足りねぇ! とにかく今は逃げるしか……っ)


 腰や膝を曲げるアンバランスな体勢ながらも冷たい壁に手を付き、身を捻った雅志は後背を気に掛けながら地上へと全速力で駆け出した。


「あっつ! くぅっ!!」


 無論、炎を放ちながら彼を狩り立てるオリヒメ。対照的にあくまで地上に焦点を当てる雅志は壁面を駆け続け、地上かべへと衝突することも厭わず前へ前へと必死に足を動かすと、


(ってうわ、気持ち悪っ!?)


 ぐるんと、地平線目線に視界が一気に移り変わる。


(とにかく障害物を使え! いくら何でも炎は大きく曲げられないはず! 隠れて近づくチャンスを狙うんだ!)


 背の高い建築物が多い中、雅志は四方八方を小刻みに駆け回り、ひとまずはオリヒメを巻くことに成功した。足を止め、バクバクと高鳴る心臓を手で押さえつつ、壁伝いに周囲を伺う。オリヒメはこなれた様子で指を弾き、いつでも仕掛けられるよう手元に炎を生じさせている。


(さっきから気になるけど、あの動作……)


 指を鳴らす――。まだ確証はないが、雅志はその行為を一旦頭に留めた。そして彼は地面に転がっている石を拾い集め、オリヒメとの距離が5メートルを切った手前を見計らい、


(よし、今だ!)


 雅志は手中の石ころをオリヒメの方へとばら撒いた。一つの小石の落下を引き金に、周囲が瞬く間に紅蓮一色に染まる。急激な温度上昇、眩い火炎の光に雅志は歯を食いしばり、まぶたを閉じかけるも、彼は炎のカーテンに乗じて再び距離を取ろうと一歩を踏み出すも、


(――――なっ!)


 雅志の目下、敵手がすでにそこにはいた。身長は雅志に比べれば若干低い程度なのに、威圧感という名の大きな壁が目の前に立ちはだかっている。


「うらあ!」


 足を止めた雅志は意を決し、彼女の懐へ殴りかかった。けれども、


「舐めてるの?」


 オリヒメは無駄のない、スカートすらほとんど靡かない所作で片足を引くと、容易く雅志の拳を避けた。さらには撓らせた脚を彼の額に浴びせ、生じたふらつきを逃さない彼女は、鋭角に畳んだ肘を彼の頬に強く差し込む。

 流れるように華麗な、けれども力強い攻撃を一つとすらまともに避けることもできず、オリヒメの成すがままにすべての打撃を雅志は食らい、


(いっでぇっ、……ツエェッ。能力なしでもコレか!)


 ザコごとき素手でも十分、そんなメッセージを伝えんばかりにオリヒメは雅志を残酷に扱う。


(ヤバイ、そろそろ反撃しないと……っ)


 高温を肌身に感じる中、腕や肩、腹部に太ももに拳や脚の打撃を受け続け、ガクンッ、と膝が折れた雅志。派手に尻もちを付き、それに加えてオリヒメが掲げた足からのかかと落としを食らいかける。が、


「……ッ」


 ギロリと、雅志はオリヒメを睨んだ。さらには彼女の死角から反射的に携帯電話を示す。

 身じろぎをしたオリヒメ、瞬時に足を引っ込めたが、


「残念、ハッタリだよ!」


 雅志は地面を蹴り、顎の血を乱雑に拭いながら、体力を絞って再びオリヒメから距離を置き、


(オレの能力をまだ知らないからオリヒメは警戒してくれてる。それにしてもローファーを叩いたり指を弾いたり……、やっぱり『灼恋の星姫オリオンガール』の発動条件は……)


 背後を伺えば、オリヒメは灼熱の紅をバックに掌の上で炎を灯し、


「逃げても無駄。もう、これで終わりだから」


 宣告どおり、すでに逃げ場は限られていた。前方はビル、左右もビル。たとえ次の炎を避けようが、その次の一撃を貰うのはほぼ確実。目を伏せた雅志はギリッと歯噛みした。

 そしてオリヒメは仁王立ちのまま、紅蓮の火球を雅志へと解き放った。灼熱の塊がみるみるうちに丸腰の少年へと迫りくる。


(万事休す、ってトコか……。でもな、まだ何もしちゃあいないんだ、オレは)


 あろうことか、雅志はその場を一歩たりとも動かない。さらには手中のスマートフォンを火炎に差し出し、固有能力ほのおそのものへ自らの手を迎え入れたのだ。


「なっ、……え?」


 普通に考えれば結末は明らかだ。それはただの自殺行為。しかし炎は雅志の腕を、身体を決して蝕みはせず、それどころか彼が炎をすべて呑み込んだ。


「ただ逃げ回ってたんじゃない、準備を整えてたんだ」


 静寂の中放った言葉が、辺り一帯に響いた。

 オリヒメの驚愕を前に雅志は臆せず堂々と立ち、差し延ばした握り拳を彼女に見せつけ、


「さあ、今からが反撃だ。オレの『オーバーライド』でな!」

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