第5話

 そう、この子が、一番の謎だ。君もアキだろう。

「君は、いったい誰なんだい?」

「僕は、僕だよ」

 チビアキは、僕の足元までやってきて、僕を見上げている。この現実離れした場所は、やはり現実から離れた場所なのだろう。

「もしかして、ここって・・・天国?」

 そう考えると妙に納得できてしまう。僕は、あの電車で、俗に言うあの世に運ばれてきてしまったのだろう。すると、チビアキは、顔を左右に振った。

「ここは、お母さんの夢の中だよ」

「・・・え?」

 僕は、チビアキの言っている事の意味が分からず、茫然と彼の顔を眺めた。

「ねえ、アキ? ヒロの腕時計の事なんだけど」

「腕時計って、あの無くなった?」

「うん。実は、腕時計は、お母さんがもっているんだよ」

「どういう事?」

「お父さんにもらった腕時計は、とても高級な物で、学校につけていったら、クラスメイトにイジメられたんだって。だから、ヒロはお母さんに相談して、お母さんが預かる事になったんだよ。それでタイミングが悪くて、腕時計をつけていない姿をお父さんに見られたんだ。で、凄く怒りだして、ヒロが怖くて動けなかったら、お父さんがアキのせいだって言いだしたの」

 それは、そうだろう。小学生には、あまりにも不釣り合いな代物だ。そんな高級腕時計を身に着けていたら、自慢しているようで鼻につく。父親の言いなりになっているヒロと、父親に怯えている母さんの姿が脳裏に過った。折角の幸せな気分が、台無しだ。

「ところで、どうして君は、そんな事知っているの?」

「お母さんが、教えてくれたの。ここでは、なんでも僕に教えてくれるよ」

 逆撫でされたようで、苛立ちが募った。どうして、僕にはなにも言わないくせに、チビアキには話しているのだ。僕は自虐的に笑って、顔を背けた。

「ここが母さんの夢の中だって? そりゃこっちの方が、居心地がいいよね。息子が家を飛び出したのに、母さんはのうのうと寝ている訳だ」

 我ながら、大人げない事を言っていると、泣きたくなった。でも、嫌味の一つも言いたい。母さんも僕を・・・あっちの世界を見限っているのだ。

「馬鹿っ!!」

 チビアキが、突然怒鳴り声を上げ、身がすくんだ。チビアキは、顔を真っ赤にして、震えている。そして、大粒の涙をボロボロと零した。

「母さんは、不眠症っていう病気なんだ! 自分の力じゃ眠る事ができないんだよ! だから、辛い事や悲しい事があったら、お薬を飲んじゃうんだ! 徐々に、お薬の量が増えてきて・・・」

「で、でも・・・こっちが幸せなら、それでいいじゃないか? 夢の中の方が幸せだって言うなら・・・」

 母さんの笑った顔は、現実ではまるで見なくなった。先ほどまで見ていた母さんの笑顔が、脳裏に焼きついている。辛い現実から逃げたっていいじゃないか。逃げる場所があるのは、きっといい事だ。

「生きてないと、夢は見れないんだよ!」

 チビアキの悲痛な叫びに、頭を殴られたような錯覚を覚えた。脳震盪を起こしたように、視界が歪んでいく。倒れそうになり、懸命に踏ん張った。

「それなら・・・そうなる前に、どうして言ってくれなかったんだよ? 夢の中で君に話すんじゃなくて、どうして僕に・・・」

 話してくれなかったのだ。

「アキは、お母さんの話を聞こうとしたの?」

 心臓が激しく脈を打った。喉の奥に何かが詰まっているように、息苦しくなった。

 僕は、母さんの話を聞こうとしていたのか?

 いつもいつも、父親を母さんをヒロを蔑んでいてばかりだった。自分の不幸な境遇を呪い、家族を呪い―――自分の事ばかりを考えていた。チビアキは、涙と鼻水で顔をベトベトにしながら、僕の足にしがみついてきた。

「お願いだよ。お願いだから、お母さんの話を聞いてあげてよ。もっと、アキの話を聞かせてあげてよ。じゃないと、お母さんは・・・」

 僕は、しゃがみ込んで、チビアキを抱きしめた。抱きしめずには、いられなかった。とてもじゃないけど、僕の顔は見せられない。

「お母さんは、いつもアキの事を考えているんだよ」

「うん、知ってる」

 正確には、ここへ来る事が出来て、知る事ができた。目を開いて、家の方を見た。涙で視界が歪んでいる。すると、この世界に異変が起こっている事に気が付いた。まるで、蝋燭が溶けていくように、建物や道が流れ出した。

「こ、これは?」

 崩れていく街並みを眺めていると、チビアキが僕の手を掴んで走り出した。

「待って! 母さんとヒロが、まだ家にいる! 助けないと!」

「大丈夫! お母さんが、目を覚まそうとしているんだよ!」

 チビアキは、小さな足を懸命に動かし、僕を引っ張っていく。

 母さんは、僕の事を考えてくれていた。

 センスの悪い、青色一色の世界。

 山盛りに積まれたハンバーグ。

 立派な絵画セット。

 テレビのバラエティー番組。

 この世界は―――母さんの夢の中は―――

 僕の好きな物で、溢れている。


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