第3話

 もうどれほど走ったのか、分からない。目的もなく、ただガムシャラに走り回った。心臓とか足が痛んだけど、それでもかまわず体を痛めつける。足がもつれて転んでも、膝から血が噴き出しても、何度でも立ち上がる。誰も追ってきてはいない。僕は、いったいなにから逃げているのだろう。

 もう走る事もできず、ヘトヘトになりながら、暗い細道を歩いている。重い体を引きずるようにして、細道を抜けた。

「・・・え?」

 思わず立ち止まって、息を飲んだ。顔を左右に振って、何度も確認する。

 こんなところに、線路なんかあったっけ?

 いつの間にか、知らない場所まで来てしまったのか。いや、そんな訳がない。ここは、先ほどまでいた場所だ。線路に沿って歩くと、お気に入りの藤棚が現れた。立ち止まって、放心状態になった。

 藤棚は、美しい青紫の花が垂れ下がっていた。そして、藤棚の前に、電車が止まっている。

「これは、どういう事だ?」

 目を丸くしていた僕は、ベンチに意識を向けた。それと同時に、走り出した。

「あ、あの、すいません!」

 藤棚の下のベンチには、人が座っている。格好からすると、車掌さんのようだ。僕がベンチに辿り着くと、車掌さんはゆっくりと腰を上げ、電車の中へと入っていった。茫然と電車の扉を眺めていると、発車のベルが鳴った。

 こんな所に線路なんかなかったし、勿論電車なんかない。いったい、どこへ向かうのだろう。不思議には思ったけれど、恐怖心はなかった。僕は、急いで電車に飛び乗った。と、同時に、扉が閉まる。

 行先なんか、どこでも良い。ここではないどこかへ、連れて行ってくれるなら。

 電車の中には、何人かの人が座っている。真ん中の通路を挟んで、左右に二人掛けの椅子が、同じ方向を向いて設置してあった。僕は、空いている座席に座った。すると、電車がゆっくりと動き出した。

 窓際の席に座って、窓の外を眺めていた。見た事があるようで、見た事がない景色が後ろへと流れていく。おぼろげながら、この状況を知っているような気がした。しばらく、考え込んでいると、ハッとして座席の背もたれから、顔を出した。周囲の乗客の様子を伺った。どの乗客も背筋をピンと伸ばして、真っ直ぐ前を向いていた。僕が思っていたのとは、違った。僕が思い出したのは、国語の教科書だ。宮沢賢治の銀河鉄道の夜だ。様々な駅を経由して、終点は南十字だ。そして、そこは確か・・・僕は、鼻からフッと息を漏らし、小さく口角を上げた。背もたれに体重を預け、外の景色を眺めた。

 それならそれで、別にかまわない。

 色々考えていると、嫌な顔ばかりが浮かんでくる。だから、考えるのをやめて、宮沢賢治の物語を思い出す事に専念した。すると、終点を告げるアナウンスが流れた。

「みょう・・・なんだって?」

 物語に夢中になっていた為、聞きそびれてしまった。なんて言ったのか、聞き取れなかったけれど、南十字とは言っていなかった。電車が減速を始めた時に、立ち上がって周囲を見回した。僕以外、誰もいなくなっている。気がつかない内に駅に停車し、乗客達は下りていったのだろうか。そこまで、没頭していた気はないのだけど。電車が止まり、扉が開いた。扉から顔を出して、外の様子を伺う。恐る恐る片足を地面につけた。

 顔を上げて、思考が停止した。頭上には、雲一つない、真っ青な空が広がっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る